二、九曜姉弟
御綱を結う――これは、見習いのときはですら一人で出来る簡単な作業だ。もしも夢生に出会いさえしなければ、その辺の町民にだって出来る事。だが彼らに神名火守としての知識もなければ責任もない、他とは異なる力を持つ事の意味をきちんと理解できていないのだ。とはいえ、ときはとて神名火守としての責任感などというものは自身あまり感じられないでいるのだが。
ときはが習った限りでは、泉穴が出来たのは天から火が落ちてきたせいらしい。昔、天から火が落ち、世界のあちこちに穴を開けた。人の住まう場所にたどり着いた火は、そこを動く事なく住み着いてしまった。一方で天の火の開けた穴は六道の行き来を可能にしてしまった。それゆえにその穴――泉穴より出でる夢生が生じるのだ。夢生とは、人ではない、他の世界から人の世界へ迷いこんでしまった存在を指す。夢生を元の場に戻してやるのが神名火守の仕事であり、更には人の世に多大な影響を与える火――今では天の火と呼ばれるそれを守る事も、神名火守の定めである。ときはも、きちんとそう理解している。
というのに――実際に泉穴を目の前にして尚、天の火の存在を疑ってしまえるのは何故だろう。何しろ天の火が地上に降りた“昔”とはどれだけ過去に遡るのか明言出来る者すらいないのだ。少なくともときはは天の火を身近に感じられないし、天の火など実は存在しないのだとしても、そちらの方が信じられると思っている。そもそもが天の火がどんな形をしているのか誰も知らないのだ。天の火に関する事は、神名火守の一族としては宗家にあたる最刈家が管理しているというのだから、分家である陵の娘が知らないのも、無理はないかもしれないが。
今は、目にした事のない天の火について思索を広げている場合ではない。思い出せというように、ふわとなまぬるいような風を肌に受けて、ときははやや真面目な顔を作った。
「……御綱を結います」
平城京の南、朱雀大路を下った先にある羅生門を出たところから南西に少し歩いた場所に、泉穴はある。これは、一度封じてしまっても、ある程度時間がたてばまた穴を広げてしまうという厄介な性質を持つ。その都度ふさぐが御綱結いという行為だ。そのための神名火守だ。
名こそ穴と言っているが、泉穴は実際に地面に空洞が開けているのではない。空に色がついていないように、泉穴にも色も形もない。だが透明でも揺らげば波打つ水面のように、目を凝らすと玉のようなものが浮かんでいるのが分かる。この無色ながら何かの凝ったような球体が泉穴で、広く穴の開いた状態になると、より目に映りやすくなる。悪くすると色を持って、より多くの夢生が出てきてしまい、彼らの存在が人にしっかと認識されてしまうのだが、そうなる前にきちんと神名火守が穴を閉じてしまわねばならない。
御綱結いは簡単だ。泉穴の周囲に三つ、突き刺してある太い杭に新たに特殊な綱を結い直すだけだ。ときはは持ってきた綱と古くなった綱をきっちりと結んだ。すると、たとえ力自慢が無理矢理にほどこうとしても動かせない古い綱が、ぼろぼろと細かくなって風に散った。誰にでも出来る御綱結いだが、しかし新しい綱を結わねば、古い綱を動かす事は不可能だ。ゆえに、新たな綱を手にした者にしか、御綱結いは出来ない。
三つの杭の中心にある泉穴。これは清人がしてみせた三つの馬酔木札の間に夢生を追い立てる方法と似ている。この泉穴は、眠りながらむずかる赤子のように、自分を囲む杭の綱に綻びを作る。まるで生きているかのようだ。息をする代わりに綱を弱らせ、引きちぎろうとする。排泄をするかのように、夢生をひねり出す。
最低でも一日に一回は神名火守の誰かが泉穴に御綱を結いに来る。それでも京の人は神名火守の暗躍を知らない。国の重要事項の多くを知る者が闊歩する宮中でも知らぬ者は多いという。今上帝には認められているが、そんな雲の上の人物の事はときはには想像すら出来ないため、居ないも同じだった。
時折ときはは、自分たちの家業の事を多くの人に知ってもらいたくなる。それは、自分の事を他者に理解してほしいと願うようなものに近いかもしれなかった。ときはは、誰かと話がしたくなって、大きな息を吐き出した。
青藤色色を限りなく薄めたような空の色、西空と山の間で燃える日輪が山と触れ合おうとしている。夕暮れまではまだ少し、時間がある。少々の失敗の後、そんな日だからこそ少女には気散じが必要だった。大股で地面を蹴って、貧しいものばかりが住む下町へと向かう。
そこは浮浪者ばかりが集まる場所で、体に泥のついていない者の方が少ない。棟続きの小屋の中、その日暮らしの人間が生活しているのだ。京といえどこの辺りはあまり治安がよくないが、ときはは勝手知ったる自分の家とばかりに先へと進む。それというのも、彼女には人より怖いと思うものがあるからなのだが、まだ危険な目には遭った事がないからかもしれない。
ときはは目当ての人物の元へと向かい、家の前まで来たら途端に足を止めてしまう。それまでの勢いはどこへやら、戸口に立つよりも早くその場を去ってしまいそうだった。そんな不審な少女を見咎めたのは一人の少年だった。
「あれ? とき?」
呼ばれた愛称は、彼とその姉くらいしか使っていない、親しいもの。ときはは思わずゆるみそうになる顔をわざと引き締めて、声の主を探して首を動かした。細身の、ときはより少しだけ年上の少年が彼女に笑いかけている。小袖に素足の貧しい出で立ちながら若い顔つきには活気に溢れ、目には溌剌とした光が満ちている。
「浅葱。えっと、さゆきの具合はどうかなと思って」
この少年の前でときはは、貴族の娘であるという事を隠している。今は訳あって庶民と同じ格好をしているが、彼女は良い家の出なのだ。しかしそれ以外は彼に秘密などはない。九曜浅葱。ときはは、彼に会いにきたのだった。全て気を許せる相手というのではないが、身構えずに会話できる数少ない相手だった。違う意味で少し緊張してしまう相手なのは確かだが、少女はまだその理由を知らない。
「悪くないよ。よかったら、姉さんに会っていって」
さあと促すように手を我が家に指し示す浅葱に、ときはが何と言って断れようか。本当は浅葱の姉に会いに来たのではないのに、それでも頷いて早速入るときは。小屋の中には住みやすい快適な空間とはとてもいえないような粗末な屋内が広がっていた。土の上に筵を敷いた程度の家屋、侘しい家財道具は数も少ない。奥にあまり顔色のよくない娘が一人座っていた。彼女こそが浅葱の姉である、九曜さゆきだ。さゆきは生来身体があまり強くない。かといって一日中寝ていなければならないというのでもないが、それでも肌の色は白く透き通るようだった。唇の色も赤かった事があまりない。垂髪の先を紐で結って、艶やかな髪を薄暗がりの中できらめかせている。
「とき、来てくれたのね」
「うん。元気?」
直接は答えずにさゆきは微笑んで、弟にも室内へ進むよう視線で促した。広くない家だ、三人は顔を付き合わせるようにして話をし始める。
「今日は打毬でもしていたの?」
神名火守としての二つの重要な任務に出ていたのだというのに、この少女は何を言うのか。一瞬、ときははどうしてそんな事をさゆきが思うのか不思議でならなかった。ときはの顔に疑問があふれたのを見て、さゆきは彼女の持つ打毬杖を指差してみせた。
「ああ、違う違う。夢生に出くわすかもと思って、武器代わりに」
「武器って」
浅葱は、打毬に使われるものが得物として使われている事に、ひどく面白味を感じて笑ってしまったようだ。ときはは急に気恥ずかしくなり、打毬の杖を握るのだが、それすら今は格好の悪いものに思えて杖を手にするのをやめてしまった。
「……ときのうちって、妖怪を調伏するおうちなのだっけ?」
「ううん、違う。妖怪なんかじゃなくって夢生。六道をさまよう迷子みたいなもの」
「浅葱を助けてくれた話をした時にも説明してもらったのにね。わたしって物覚えまで悪いのかな」
「そんな事ないと思う! あたしもちょっと、うちの家業って何て説明したらいいのか分からないもの」
ときはは、今日のように夢生が京をうろついていないかの見廻りをしていた際に、偶然に浅葱と出会った。あの時はまさかこんな風に付き合いが生まれるとは思っていなかった。何しろ、ときはが神名火守見習いとして活動するようになったのは比較的近年の事、浅葱に出会った頃もまだまだ未熟すぎて、周囲に注意なんて向けられなかったのだ。
「夢生は、凶暴なのばかりってわけじゃないけれど、中には人を襲うやつもいるからね。それに――」
思い起こせば、父の言葉が耳にやってくるかのようだった。
『我ら神名火守は、世に六ある道の均衡を保つために存在する』
幼い娘を前にしても父は言葉を易しくすることはなかった。教えを受けたのは今より何年も前の事。あの頃はまだ父の興味は少しは我が子に向いていたように思われる。その中の数少ない父との思い出は、神名火守という陵家の家業についての薫陶を受けていた時だ。
『六の道って?』
『我らが住まう人の道、餓鬼の道、畜生の道、修羅の道、地獄の道、天の道だ。当たり前だが、この道の間は簡単に往来出来はしない。長い時の間でこれを行き来し人は流転するが、普通はそうしているという自覚などない。人は今生きている時に行なった行為ゆえに次に住まう道が決まる』
小さなときはは、父の言葉の中で分からない言葉を数えるよりも、分かる言葉だけを指折りした方が早いという事に気づいていた。悲しそうにも見えるような困惑顔のときはは、伺うように父を見る。
『分からないよ、父様』
『この六ある道は、生きている間は意識的に移動出来るような場所ではないのだ。浮浪が宮様の住まいに出入り出来ないのと同じように、人は六の道の境界を越えてはならない。六すべての道のつりあいが崩れてしまうからだ』
『崩れるとどうなるの?』
子どもの素朴な疑問も、父は何故そのような事も分からないのかという視線で射竦めた。ときはは、何か悪い事を言っただろうかと身を縮こませる。
『割れた器と同じだ。二度と戻らん』
ただ事実を告げるのみの声、しかしその内容は子どもに話すには大きすぎる規模の話で、理解出来はしなかった。もし彼女がもう少し年を重ねていたら、父にそんな重要な事ならもっと重苦しい声で言ってくれと頼んだかもしれない。
『我ら神名火守がするのは、この境界を越えたものを元の道に戻す事だ。これを標結という。境界を越えたものは、夢生と呼ぶ』
一度に少なくない情報を与えられて、幼いときはは困惑した。
『しめゆい、いめおい……』
それらが自分に一体何の関係があるのだろう。まだ陵の家の生業をよく分かっていない時分だった。子どもは、兼直の語る話と自分の間にどうにも関係性を見出せないでいた。それがどうしたというのか、というような顔をしていたからだろうか、父は元々険しそうな顔を更に深めたようだった。
『我ら神名火守は――世界の均衡を守るために標結を行なうのだ。ときは、お前もだ』
自分もその世界を守る存在にならねばならないという、決まりごと。子は父の仕事をそっくりそのまま継ぐのが当たり前であっても、ときはには兄の清人がいる。彼がすべてを請け負って、自分は何か違う他のことをするのだと、心のどこかで思っていた。
『お前はまだ正式な神名火守の名を名のれん。しかし、この馬酔木札はお前のものだ』
馬酔木札。これが何より神名火守の証。夢生を元いた場所へと還す力を持つ。唐突に与えられたその木片を、小さなときははひどく重たく感じていた。
以来、神名火守として名を名のれるようにときはは父や兄に教えを受けてきた。あの時感じたものは未だに変わることなく、彼女の胸の内に残ってしまっている。今日また夢生を自分の力で標結出来なかったのはそのせいだ。神名火守の仕事に、心血を注ぐような気持ちにはなれない。夢生たちについては深く考えてはいけないと考えている。思いめぐらせてしまえば、ときははいつも頭が痛くなるからだ。
「とにかく、夢生はあたしたちの住む場所に居てはいけないの。だから還してあげるのがあたしたちの役目。夢生は自分では還れないから」
ときはは、言いながらも自分の気持ちと、神名火守の生業との間に、何かずれが生じているような気がしてきた。なんだか、気分が晴れない。思いは顔にも表れてしまったのだろう。さゆきが心配そうに眉宇を顰める。
「どうかしたの、ときは。わたしでよかったら話を聞くわよ」
「いいの、気にしないで。さゆきに言っても分からないと思うから」
ときはの悩みは家業についての事柄だ、同じ仕打ちを受けていなければ理解し難い内容を話しても、意味がない。彼女はそう考えていた。さゆきはわずか哀しそうに目を伏せたが、もう何を言う事もなく姿勢を少し動かした。
「そういえば、名足さん……見つかった?」
ゆるりとさゆきは首を横に往復させた。名足はさゆきと浅葱の父親で、早くに母親を亡くした二人の片親だった。この三人家族との付き合いは、一年もしない短い間ではあるが、ときはは名足とも何度も顔を合わせていて、なじみといえる相手であった。彼は二月ほど前に出稼ぎに向かったきり、帰ってきていないのだ。
『やあ、ときちゃん。いらっしゃい』
名足はそんな風にときはを笑顔で迎えてくれた。無精髭の、貧しいゆえにこけた頬を持つ男だった。それでも生気に満ちた瞳は息子の友人に友好的だった。あまり長い間話をするというほどの親密さこそなかったものの、どんな時にも穏やかな顔を向けてくれるところが、ときはを安心させていた。彼を見て自分の父が優しかったらあんな風だっただろうかとよく想像したものだ。
「きっと帰ってくるよ。もしかして、どこかで怪我して療養してるだけかも。だから連絡も出来なくて――」
自身の言葉の不吉さに、やっと気がついたときはは口をぱくりと閉じた。生きているにこした事はないが、それでも肉親の怪我をした様子など名足が行方不明の今、想像したくはないだろうに。
「ごめん。あ、もしかしたら新しい仕事が見つかって、二人に内緒で美味しいものを買ってきて、驚かせようとしているだけかも」
可能性の低さはときはも充分感じている。名足は確かに、誰かを喜ばせるためなら口をつぐんでおくぐらい、やりそうな男ではあるが、それでも二月も家に帰らないというのはおかしすぎる。何を言っても問題になりそうな繊細な事件なので、もうときはは名足の事については触れない事にした。
「そういえば、双六ってみんなけっこうやってるでしょう、あれは遊戯としても楽しいのだろうけど、高価な駒はそれだけでもきれいで――」
「ぼくら、双六はした事ないから」
貧富を問わずに京で流行している双六だが、それでも娯楽に時間を費やすような余裕のない浅葱は、申し訳なさそうに会話を閉ざした。語るうちにときははむなしさを感じるようになった。浅葱とさゆきは、よき友人ではあるが、自分とは身分が違いすぎるのだ。一方は毎日の生活に困らぬどころか大陸の文物を娯楽のために楽しんでさえいるというのに、一方はその日の食べる物にも困って盗みを犯すものまでいるという貧富の違いがあるのだ。
その上、ときはは自分の身分を偽っている。浅葱やさゆきと変わらぬ貧しい生活をしているのだと。会話を長く続けるうちに、ときはは自分の語りたい事が金持ちゆえの興味に移り変わってゆくだろうと気づいた。偽りの知れぬうちに、この場を立ち去った方がよさそうだ。
「あたし、そろそろ帰るね、さゆきの身体に障ったら悪いし」
会いに来た浅葱に戸口の外まで見送ってもらえたけれど、会ったばかりのさっきよりも気持ちは落ち込んでいた。別れの時だからではない。会って楽しいはず、嬉しいはずの相手と上手く会話を続けられない寂しさを思い知ったのだ。
暮れの空は濃い紅を山の端にひそませはじめた。夜の藍が幅をきかせて、地上に強い陰影を落としていた夕焼けを追い出していた。少女は宵闇を家路に着いた。