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二十一、奪還

 初めて会った時は――佳耶にも原因があったろうが――ときはは衛士に目をつけられていた。次に会った時は広い邸の中に閉じ込められていた。その後、征崖に言われて彼女を連れ出した時には少し目を放した間に大怪我を負っていた。今もまた、一寸(ちょっと)一人にしておいただけで、地獄で獄卒に捕まる始末。

 佳耶の倍以上ある体躯の牛頭馬頭よりも、軽々と持ち上げられているときはにこそ咎があるとばかりに睨みつける。気分が悪そうで顔色もよくないが、佳耶を見て驚いた顔をしている。この少女はどこまで世話をかければ気が済むのか。今回の事に胡蝶が何やら企んだのだろうとは推測出来る。だがどうしてあの少女は抵抗せずこんな処にまで来てしまったのだ。挙句獄卒に身柄を拘束されて。

 嫌になる。こんなに面倒な相手を何故自分が構わなければならないのか。放っておいたらもっとひどい事になる。だから佳耶は彼女を追うのだ。別に、気に食わない相手だからって死んで欲しいとまでは思わない。ただ、それだけだ。

「なにゆえ」

 馬頭(うまあたま)は文字通り佳耶を見下した様子で言った。明らかにときはを渡す必要はないと信じきった言葉だ。放せと命じた佳耶に従う気などないだろう。

「……そいつは手違いで地獄(ここ)に来たんだ」

 どうせこの獄卒たちはまだ傷のない存在を見つけて地獄の新入りだと思い込んでいるのだろう。佳耶には彼らの考えがよく分かる。獄卒はごく単純な思考しか出来ない生き物だ。自分に与えられたただ一つの仕事しか出来ず、融通が利かない。地獄の住人は誰であろうと処罰する、それしか出来ない生き物なのだ。彼らがときはを解放する事はまずあり得ないだろう。そしてこのままだと佳耶の身とても危うい。

「だからさっさと返せ」

「手違いなど、ありえぬ」

 甲斐なしと知りつつ佳耶は言葉を重ねる。しかし馬の頭は牛の頭と話し合いもせずときはは渡さない姿勢を変えない。

「最後に言う。おれは別にお前らを傷つけたい訳じゃない。でもそいつを放さないんなら腕の一本ぐらいは失くす覚悟をするんだな」

 争い事は褒められた事ではないが今は緊急事態だ。佳耶はそう思う事にした。何しろ地獄の獄卒たちは本当に石頭なのだから。

 脅しと変わらぬ言葉を吐いても、獄卒たちは首を縦には振らない。不安そうな目をするときはを見ないようにして、佳耶は小さく息を吐いた。嘆息ではなく、これからする事の予備動作だった。

 腰に吊り下げた細長い円柱の杖のようなそれを、佳耶は手に取る。柄にあたる部分を引き抜くと、その棒はあっという間に形状を変えた。黒く長く湾曲した太刀が、佳耶の手の中に収まっている。

 普通、人は六道の間を自由には行き来出来ない。まして生前持っていた物の移動などは尚更だ。人も物も正規の方法――閻魔王の裁きだ――以外で移動は出来ない。冥府の住人なら話は別だが、今度は彼らには肉体というものがないから六道の誰にも触れる事は出来ない。

 だが佳耶の手にする黒色(こくしょく)の太刀は別だ。佳耶は太刀を構えた。これと同じ物を、征崖も携えている。この武器は、どの六道においても持ち運びが出来、そしてどの六道の住人にも物理的な接触を可能にする。要は佳耶が普通の冥府の住人だったら獄卒に殴りかかる事も出来ないが、この太刀があるから斬りつける事だって出来るという訳だ。もちろん簡単にそれをするつもりはない。人道にてときはの前でもしたように、触れた相手を弾き飛ばす事も出来る。

「お前こそ、手向かいするなら容赦はせぬぞ」

 あの馬の顔ではよく分からないが、すぐには襲いかかってこないところからして、彼らも佳耶という存在の異質さを本能的に感じ取っているのかもしれない。どちらかと言うと獄卒は冥府側の住人だ。長い期間任務を地獄でして、時には冥府に赴く事さえある。

 馬の頭はときはを牛に放り投げると、大きな足を一歩踏み出した。救助対象を他所に預けられて、佳耶は苦い顔をする。馬頭がときはを持ったままだったらあの腕を切り取ってそのままときはを解放出来たのに。考えても仕方がないが、顔にしわが寄るのは止まらない。

 あの馬はどうだっていい、牛の腕を切り落とすつもりで佳耶は地面を蹴った。

 馬頭の手には細長い(のこぎり)があり、あれで地獄の住人を切り裂き、削ぎ落とす。あれを喰らえばひとたまりもない。大きな体に反して鋸は小さく見えるせいか、ぎざぎざの刃を佳耶に向ける速度は速かった。着物の袂が裂かれる。佳耶は最初から彼らを本気で相手にする気はなかった。当然腕を切り落とすぐらいの気概はあったが、何よりときはの奪還が一番だ。馬頭からの攻撃を避けると、すぐにときはを抱える牛頭に向かおうとして気づいた。あの牛は、とっくに距離を置いて何処かへ去ろうとしている。馬頭に後を任せて自分は他所へ向かうつもりか。

「待てよ!」

 牛の背中に斬りつけるつもりが、同じそれが佳耶の背に迫る。無理矢理体を前に倒し逃れるが、布が裂けるのは今回も同じだった。

 舌打ちをして、佳耶は体勢を立て直し馬頭の顔を睨む。相変わらず馬と同じ顔をした、感情の読めぬ様相。今度は佳耶も自分の得物を使って鋸を防がねばならなかった。鋸を弾くが、相手はすぐに振りかぶってくる。彼方(あちら)は先の尖った歯を並べたような武器で、僅かでも触れれば簡単に血肉を屠れる。

 まったく嫌になる。彼方は処刑が仕事の、専門家で、佳耶はまともに剣術を習ったのがここ数年からだという。だが、六道全ての地に降り立つ事が出来る佳耶の持つ太刀を普通の太刀と思わぬ事だ。黒色の太刀を扱うには素質が必要だ。それを持つ佳耶は――強い意思を込めて太刀を払った。瞬間、馬頭は太刀からの衝撃以上の見えぬ何かに突き飛ばされたようによろめいた。鋸が手から落ち地面に刺さるが、獄卒自身は膝も着かずにたたらを踏んだだけ。

 人道のひ弱な人間たちとは話が違う。佳耶は数を打つ事にし何度も気を込めて馬頭に斬りかかる。体勢を立て直す間もなく馬頭は不可視の力に弾かれて、後手に回るしかない。上半身を少し下げて、守勢のまま。蹴倒して踵を返したい佳耶だが、あの様子では簡単には倒れてくれないだろう。だが、もうこれ以上はこの馬を相手している時間はない。牛頭はずっと離れてしまっているだろう。佳耶は最後と決めて馬頭の手首を斬りつけると、浅いもののぱっくりと傷が開くのを見た。

 短く呻く馬頭、きちんと効果があったと知ると佳耶はもう相手も見なかった。




 また夢でも見ているのかと思った。ときはは、少し前に佳耶を見たはずなのにこんな処に彼がいるはずないと思ってしまっていたのだ。記憶が曖昧になっている。その上、夢で見た光景までが入り組んで、混濁している。混乱している。

 眠っていた時に見たものがあまりにも鮮明だったら、それは本当に偽物だと言えるのだろうか。(うつつ)と感じる今こそが、ときはにはあまりにも不明瞭で、疑いたくなる。何も信じないと決めた日だってあったではないか――それが自分を守るためだと。全て通りすぎて、なかったものと見なして、それで自分が傷つかずに済むなら。

 それなのに何故、あの少年が自分を追いかけてきている光景に、顔の皮膚が動いてしまうのだろう。心に降りてくるのは喜び、安堵。頬は震えて、どんな感情を作ったらいいか分からないようだ。

 牛頭の肩に載せられたときはには、駆ける佳耶の姿が見えていた。のしのしと歩く牛に腹を抱えられ、顔は牛とは反対を向いていた。

 佳耶はただ自分に与えられた仕事を嫌々ながらやっているだけなのに。きっと喜んではいけないのに。手を伸ばしたからとて、事態は変わらないのに。

「佳耶……っ!」

 しかい今、ときはを見つけてくれたのは彼しか居ないではないか。所以が何であれ、自分を追ってきてくれているではないか。ときはが助かるには、それに縋るしかないではないか。自分勝手で醜い感情かもしれない。だがときははこのまま牛頭に連れられて行きたくなかった。

 近づいた佳耶の顔が逼迫した顔から不機嫌そうなものに変わっていると気づく。気安く名前など呼んで欲しくなかったろうか。やはりときはにうんざりしているだろうか。ならばせめて自分の力でこの拘束を解きたい。ときはは手で牛頭の肩を突っぱね胸に蹴りを与えるが、彼の腕が緩む事はなかった。激しい動きという程でなかったが、気分の悪さが蘇ってくる。それでも抵抗の意思を消すまいと手の平で牛の顔を押す。これも効果はなかったが、突然に牛は立ち止まった。

 牛頭は振り返って、五尺ほど離れた場所に立つ佳耶を眺めた。肩で息をする佳耶は、真っ直ぐに牛の瞳を睨み据える。こんな時なのに、ときはは何か違和感を覚えた。それを確かめる間もなく、ときはは体を持ち上げられた。

 地にとんと足が着いて、急にこの牛頭はときはに優しくなったのかと顔を上げれば――

「この娘が居ればお前も手出しは出来まい」

 こんな事を言う。牛頭の大きな手は、ときはの首の後ろに固定されたまま。指をそのまま前に持ってこれば、この体格差なら簡単に首を覆ってしまえそうだ。力を入れて首を折る事さえ出来るだろう。

 ときはを盾にした獄卒に、彼女は佳耶の顔色を伺うしかなかった。彼は変わらず、自分の悪口(あっこう)でも聞いたような嫌悪感たっぷりの顔をするだけ。

 佳耶はしばし周囲に視線を散じた(のち)に、一度だけときはを見た。何か言いたげなその視線は、ときはが理解をする前に逸らされる。

 ふうと息を吐いて、佳耶は太刀を持たぬ手を腰にあてた。

「分かったよ。武器を手放すから、そいつから手を放してくれないか」

「なにゆえ」

 馬頭と同じ事を言う。自分の有利を信じきっており、そうする必要がないと馬頭は言いたいのだろう。だが佳耶への警戒は解いてはいない。

「そっちが有利なのは分かってるだろ。そいつから離れろとまでは言わねえんだ、今にも首締めそうなのだけはやめてくれよ」

 獄卒は逡巡したのか、佳耶とときはの顔を二往復させて眺める。「いいだろう」牛は言って、ときはから手を放した。足もほんの一寸ほど彼女から遠ざかった気がする。

 佳耶は口元の汚れでも擦るかのように手の甲を寄せる。太刀の柄を握る手を一度少し開いてまた閉じる。次はお前だ、という無言の訴えを向けてくる牛の眼差しに、佳耶は顎を下げて太刀を見下ろす。肘を肩の高さにまで上げ、太刀を持ち上げると牛頭は警戒したようにぴくりと動いた。佳耶は最後にときはを見る。

「気を込めろ、神名火守なら誰でも扱えるはずだ!」

 言葉と同時に佳耶は太刀を放り投げた――ときはに向かって。自分めがけてやって来るそれを訳も分からずただ受け止めると、吸いつくように柄がときはの手の中に収まった。彼女は瞬時に理解した。これなら自分にも使えると。ときはの手が勝手に剣先を牛頭に向ける。

 彼方佳耶は今度こそ笑いを隠せそうになかった。相手が勝手にときはの事を手放してくれたのは僥倖だった。そうしてくれなかったら、佳耶は本当にあの牛の腕を切り落とさなければならなかった。勝利を確信した佳耶だったが、いつまでたってもときはが太刀を相手にぶつけないので顔を引き攣らせた。

「馬鹿、さっさと気を込めて薙ぎ払え!」

 牛頭の腕が得物を握るときはの手を押さえようとしていた――太刀など持った事のない彼女だったが、咄嗟にそれを振り回した。佳耶の言う“気を込める”という意味が分からないが、そうすると牛頭は一歩後退する。もっと距離を広げてもらおうと、強く力を込めすぎたのかときはの一撃は突然牛の体をはね飛ばした。言っても、本当に飛ぶ程ではなく体が平衡を失い何歩もよろめく程度だったが。

「来い、ときは!」

 狼狽える獄卒に構っている暇はないとばかりに佳耶が呼ぶ。

 差し出された手を、ときはは掴んで、走り出した。

 この腕がときはを引っ張った事が何度あっただろうか。これまでのときはの意思を無視したそれとは違う。彼はときはを窮地から救ってくれたのだ。だからだろうか、佳耶の手が持つ体温が嫌ではないのは。きっと今がこういう状況だから、文句を言っている暇がないだけ。これを別の何かと勘違いしてはいけないのだろう。それでも今はただ、この手をはなさない。


 途中までは獄卒から逃れるために夢中になっていたからだろうか、ときはは気分が優れぬのを忘れかけていた。段々と佳耶の手を掴む力が抜けていく。胸の辺りが気持ち悪い。そういえば地獄(ここ)に来てときはは嘔吐している。今もまたそれを繰り返してしまいそうだ。

 熱い。胸焼けがする。頭がひどく重い。全身の骨がなくなったかのように力が入らない。

 まだ地獄の風景は変わらない。黒い空、褐色の大地。地獄から冥府に戻る事は叶っていない。ゆえに彼女は足を止めてはならなかった。しばらくは獄卒の追ってくる気配はなかったが、時折地獄のやせ細った住人たちとすれ違った。まだ倒れる訳にはいかない――。

「おい、大丈夫かよ?」

 膝がときはを無視して地面に落ちた。佳耶の手を放して両手を地に付けねば体を支えられそうにない。佳耶の声が意外にも近くからする。彼がときはを立たせようとしているのは分かる。だが体が言う事を聞かない。

「……そうだ。今更だけどこれ持ってろ」

 手渡されたのは小さな物。触れれば冷たいそれを何か判別するような気力はなかった。一瞬見えた薄紅は、何処かで見た気がした。

 肩を貸した佳耶が、何とかときはを支えて歩き出そうとしているのも、この時は認識出来なかった。

 あつい。全身が気だるい。頭は鉛のように重いのに――過去の事を思い出させる。

 こうなるに至った理由を。

 ときはは地獄で何を見たかを。

 これは慣れぬ世界に来たからというだけではない。彼女が此処で何をしたか。何が出来たか。何もしなかった。

 あつい。

「もうすぐ、だからな」

 全身が焼けそうだ。

 地獄の業火で、ときはは溶ける。

 頭が痛くて痛くて仕方がない。きりきりと締めあげられているかのよう。

 彼女が此処で何を見たか。

 意識が曖昧なだけに、それは意味もなく切り取られ脳裏で再生される。

 あの人の声が悲しく聞こえる。

 今はもう呼ぶ人などいないだろう、ときはの愛称を使って。

 誰かの声がする。

 人にあらざる肌の色。落ち窪んだ目元の、懇願するような眼差し。

 誰かが呼んでいる。

 あの人を見捨てた事をときはは忘れる事が出来ないだろう。

 彼は願っていた、地獄からの救済を。自身に課された罪の軽減を。此処からの脱出を。

 それを捨ててときはは――。

 だから言ったでしょ、こんなもの全部要らないって。

 違う。

 それは違う。

 ときはは確かに彼を見捨てたが、そうしたかった訳じゃない。

 いつだって誰かの手の平の上にいるに過ぎなかった。

 抗えない定めだったのだ。

 本当に? 本当にときははああするしかなかったのか。

 あつい。

 体が熱くて重くて、心が痛くて――

 手の中の冷たいそれの感覚もなくなって、彼女の意識は閉ざされた。

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