二十、地獄道 弐
地獄において刑を受ける者は刑期を終えるまでは肉体が朽ちる事はない。かといって健康そのものの身体に戻る事も、ない。あったとしてもそれは一瞬で、すぐにまた己の罪深さを知らせる鞭が振るわれるだけだ。
それでも痛みから彼らは逃れるために、希望を求める。いつか終える刑期を思うより、一瞬でも清らかな体を得られるのなら、それが今すぐ欲しい。
生きた、健康な肉体を。
亡者の望みはときはではなく、その肉体だった。
ひたと亡者の手がときはの着物に触れる。その手は指が三本しかなかった。中身が見えてしまっているではないか――。
「あ、ああ……っ」
こんな事があるなどと。ときはな夢にも思わなかった。
怖い。気持ちが悪い。恐ろしい。嫌だ。吐きそうだ。
泣きそうだ。こわい。いやだ。
いやだいやだいやだ!
足が痺れたように動かない。このまま亡者の餌食になんてなりたくないのに体が動いてくれない。
地獄の住人と同じような音を口から出して、ときはは今にも嘔吐しそうだった。
とん、と軽い衝動で目の前の亡者の体が揺らいだのが分かった。
動いたのはときはではない。亡者たちが我先にとときはに群がるから、互いに牽制しあっていただけなのだろうか。しかしそれを切っ掛けにときはは一歩踏み出す事が出来た。
よろよろと歩き出すと、同じ速度の四足のイキモノはまだときはに触れる事が出来る。足首にひたと触れた皮膚の奇妙に柔らかかった事。
「はなして……っ!」
その手も、今度は急に離れていった。緩慢な動きで、何かが払い退けてくれたように感じたのはときはの錯覚だろうか。
しかし自由になったときはのした事といえば、地面に上半身を落として、胃の中身をぶち撒ける事だった。冥府に来て以来食事をした事がない。それでも空腹を覚えなかったから不思議だったが、胃液だけは出るようだ。
そんな場合ではないのにしばらく胃の痙攣に肩を上下させていると、また彼らの気配が近づいてきた。地面に這いつくばりながらも、ときははなんとか前に進もうとした。小さな声を耳にするまでは。
「……とき、ちゃん」
その呼び方をしてくれる者は人道にもほとんどいない。はじめは何も思いつかなかった。けれど、それを呼んでくれたのは誰か、その身内も同じく“とき”と呼んでくれたと思い出した瞬間に、ぞっとときはの背筋は凍った。
ありえない。あってはならない。一致してはならない。
ここにいるという事は――。
振り返った先には他の者たちを頭で押しのける地獄の住人が四つん這いになっているだけ。
『そういえば、名足さん……見つかった?』
名足はさゆきと浅葱の父親で、早くに母親を亡くした二人の片親だった。この三人家族との付き合いは、一年もしない短い間ではあるが、ときはは名足とも何度も顔を合わせていて、なじみといえる相手であった。彼は二月ほど前に出稼ぎに向かったきり、帰ってきていないのだ。
――やあ、ときちゃん。いらっしゃい
名足はそんな風にときはを笑顔で迎えてくれた。無精髭の、貧しいゆえにこけた頬を持つ男だった。それでも生気に満ちた瞳は息子の友人に友好的だった。あまり長い間話をするというほどの親密さこそなかったものの、どんな時にも穏やかな顔を向けてくれるところが、ときはを安心させていた。彼を見て自分の父が優しかったらあんな風だっただろうかとよく想像したものだ。
かつて名足という名だった男の面差しは、この地獄にてほとんど残っていない。
こんな、こんな風に再会するはずの相手ではなかった。彼は、さゆきと浅葱という子供たちに帰りが遅いと咎められながらも笑顔で迎えられ、そしてときはにもその笑顔を分けてくれるはずだった。
「そん、な」
片腕もなく、足の一部も白い骨が見えている。腕が足りないから彼は自分の頭を使ってでないと、他者を退かす事が出来ないのだ。
「いや……」
本当の彼はときはよりも浅葱よりももっと背が高くて、貧しい故に痩身ではあったが広い肩を持ち、とても頼り甲斐のある大人の容貌をしていたではないか。今ではときはの腰より下に頭があり、顎が外れたかのようにかくかくと揺れている。
「……にげ、ろ」
名足だったモノが、涎だか血だか分からぬものと共に吐き出したのは、絞り出した懇願。名足はしゃべるのもつらいだろうに、ときはが死にそうになっているかのように悲痛そうに目を細めた。彼は地獄の責め苦を受けているのだ。人道では死んでしまい、その後に罪を償うためにここに居るのだ。名足は、浅葱とさゆきの父親は、死んでしまったのだ――。
「あ……、なた、りさ……」
あの亡者を名足だと見なせる要素は声とその瞳だけだ。後はもうみんな欠落しているか血や傷に覆われていて、人相が分からぬものに変わっている。それでもときはには分かってしまった。理解出来てしまった。優しい彼なら、ときはを助けてくれる。彼が他者を押しのけている事が何よりの証拠だ。ときはを、逃そうとしてくれているのはときはを知る人物だからだ。
「ときちゃん、にげろ」
同じ言葉を繰り返す名足は、ときは以上に彼女の状況を理解していないだろう。ときはが死んで地獄に生まれ直したのなら、亡者たちに狙われる謂れはない。それでも彼は、ときはを助けようとしてくれるのか。あんな風に、目を覆いたくなるような姿になった今でも。
「でも、」
もう一度彼の名前を読ぶつもりが、ときはは名足に突き飛ばされた。名足がそうしてくれなければ、ときはは迫り来る地獄の住人たちにその身を押しつぶされていただろう。あっという間に飲み込まれたのは名足の体だった。ヒトともいえないそれらの蠢く姿に怖気が走る。
最後に見た彼の姿は、人とはいえない姿であったというのに、この場にはそぐわぬあたたかな慈悲の瞳を持っていた。
「いきたからだ」
「けんこうなにくたい」
地獄の住人たちはときはに肉薄していた。名足の姿は、見えない。
「きずのないからだがほしい」
「たすけてくれ」
「たすけてくれよおおぉ」
啜り泣くような声だ。洞窟を反響する風の音のようなそれが重なる。
地獄道の事がよく分からないときはにも、察する事が出来た。彼らはただ傷のない肉体が欲しいだけなのだ。苦しみから解放して欲しいだけなのだ。悲しみの連鎖を断ち切って欲しいだけなのだ。それを与えられるのは、彼らが持たない健常な肉体を持つときはだけなのかも知れぬ。
だが。
「ごめん、なさい……」
口をついたのは謝罪の言葉。ときはのためにその身を挺して庇ってくれた名足のための言葉だったかもしれない。地獄に生きる罪人たちへの罪悪感だったかもしれない。
どの道ときははこの場所に長くはいられない。本能が逃げろと言っている。名足が朽ちた体を使ってまで追い立ててくれた。何よりときは自身が彼らに自分をあげられないと知っている。
なんという自分本位。けれど名足が助けてくれた命。渡す訳にはいかない。
頬を伝う涙は、誰のものか。
醜い地獄の住人たちも、今では少し悲しく見える。
喉が震える。
「ごめんなさい……っ」
動き出した足は、呆気無い程簡単に亡者たちの腕を振り払ってしまえた。
利己的な本能は誰よりも自分のため。ときはは逃げる。地獄の道を。
名足に助けられ、何としてでも地獄を出なくてはと意気込んだはいいが、その術が分からぬのでは意味がない。地獄の住人たちが遠くなったのもあって、ときはの歩はいつしか遅くなってしまう。
ときはは無意識の内に“出入口”があると思っていた。あの、胡蝶に連れられて意識が覚束ぬ最中にそれを見たためであろうか。であれば、記憶の糸を手繰ればいずれそこにたどり着くのではないか。ここが人道であれば周囲の人間に聞く事も出来るが、そうもいかない。地獄の住人たちは誰もが我が身に降る苦しみに意識をいっぱいにし、ときはのような健常体を見つければ我が物にしようと襲いかかってくるのだから、問答をするような余裕はない。唯一、名足はときはを一人の人間として認識してくれていたが、いかな彼とはいえ地獄の出入口を知っていれば、今頃ここには居ないだろう。
そもそも、名足はどうして地獄になど堕ちてしまったのか。悪行でも働かねば人は地獄へ行かないはずだ。名足は貧しくとも清く正しい精神を持つ人物のようにときはには見えていたのだが。
などと、今は考えても詮ない事。またにわかに苦痛に呻く声が近くなってきた。ときははゆく先を変えねばならず、今は亡者たちを避ける事が第一の目的となった。
死した人間たちは、地獄においてこうも人間離れする事が出来るのか。足を早めながらもときはは、ふと思いつく。
自分の母にあたる人も、ここに居るのだろうか。死んだ者が居るのが地獄なら――とまで考えて、ときはは愚かな自身に失笑しそうになる。誰もが皆、死後に地獄に行くのではない。生前の行い次第で、天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の何れかに進むのだ、必ずしもここに母が居るとは限らない。
継母である藤とは違い、実母の事をときははほとんど知らない。名はしづと聞くが、陵の邸内では彼女の名は口にせぬが吉とされている。所以は端的、家主の兼直が厭う為。しづの死は夫兼直の頬を削ぎ、気質を陰鬱にさせ、その口を重く閉ざさせた。それ程までに想いを傾けた証拠。我が子にすら興味を示さぬ父の人間味があるところなど想像出来ないが、しづが生きていたらと思った事は一度や二度ではない。しづさえいれば父は陰気にならずに済んだかもしれぬし、突き放したような継母を持つ事もなかっただろう。地獄でなくても何処かで、会えたらよかったのだが。冥府に滞在する今なら、誰かに尋ねたり調べたりすれば少しは分かる事があるのでは。
またも、自分の思考が甲斐がない事で埋まっていると、ときはは気づいた。そうでもしないと、この地獄の重い空気に押しつぶされそうなのだ。
焦燥は止まぬし、胸のむかつきは消えない。猛暑以上の熱さに、頭さえ重くなってくる。
他所事を考える暇があるだけまだ状況は悪くないと判断していいのだろうか。
「……帰らなきゃ」
今は人道に亡き人の事を思うと、結局戻ってくるのは今現在人道に在る人を案じる始末になる。
ときはをこんな処でも覚えていてくれた名足の、二人の子らは?
こんな処には居ないだろう顔も知らぬ母の、伴侶とその子は?
彼らは今、何をしているだろうか。特にさゆきと浅葱には、名足の事を教えなくてはならない。いや、教えてしまっていいのだろうか。地獄道に居た、などと。そこまでは伝えなくともよいかもしれない。彼はただ、もう居ないのだと――
「ああぁぁぁ」
大きな声が、ときはの耳朶を打つ。聞き慣れたくもないが、ここでは当たり前のように聞こえる苦悶に泣き叫ぶ声。ばしりと何かを打ち付けるような音も断片的に聞こえてくる。嗚咽と嘆願に紛れ、かすかに悲鳴以外の声がする。
ときはは振り返った。まだ見えない。今、確かに人の会話が聞こえたような気がしたのだ。
まともに話せる住人がいるのなら、ときははこの迷宮の出口を聞ける。だがこの地獄の何処に正気を保てる存在がいようか。
それでも今は、他に術はない。名足のように他者を思いやる心を失わぬ存在もいたのだ。一縷の望みとばかりに、ときはは自身の拳を握った。
宛が外れたら、その時はまた逃走すればよい。どうせ地獄の住人たちは足が遅いのだ。内臓が裏返りそうな気持ちの悪さは消えないが、やっと見えてきた希望にときはは気概を見せる。
そろそろと歩き出して、声の先を目指す。
周囲には緋色に燃え上がる炎があり、ときははそれを避けながら先へ進まなければならなかったが、今は熱さはさほど気にならなかった。
ごつごつした岩肌、時折隆起した大地。ときははその一つをのぼり、人の気配のする処へやって来た。まだ自分でも半信半疑なため、ときははそっと岩陰から顔だけ出す。
見なければよかった。
熱く焼けた縄でその身を抉られるイキモノを見せつけられるなんて――。
すぐに目を背けたが、一瞬でも目に入ってきた風景はときはから離れなかった。
巨大な体躯の人間がか細い体の亡者たちを分厚く熱い縄で打ち据えていたのだ。亡者にばかり気を取られていたが、刑を執行している側は頭から角が生えてはいなかったか。
地面にへたりこんだときはにそれを確認する余裕はなく、ここがどういう場かを今をもって改めて思い知らされた。
此処は地獄、罪を犯した者が刑罰を受けるためだけの場所。刑を処す者が居るのは当たり前で、それを実行する場面など彼方此方に存在する。
地獄の亡者を見ただけでここを分かった気でいたのだ、ときはは。
地面に蹲っても、もう胃液さえ出ない。ただただ吐き気だけがときはの四肢を支配し、動けなくさせる。
これが地獄。
ここが地獄。
ときははもうこれ以上に耐えられそうにない。いっそ意識を手放してしまった方が楽になれるのでは。だがそうしてしまえば、ときははあの、刑罰を与える存在に見つかり覚えのない罪で罰される。相手側にときはがここいるのは手違いだと理解される考えは沸いてこなかった。誰に見つかってもときはの今生は終わる。そう思えた。
「……が……ていたと」
今更になって人間らしい言葉が切れ切れに聞こえてくる。もう遅い。ときはは既に、足を動かせなくなっていた。恐怖が彼女を侵食する。
「……ふの方で、……のか……」
人の言葉を話す人物は二人のようだ。この場で刑を受けていればまともな言葉など話せないだろう。であれば、あれを話しているのは刑を与える方だ。
どの道ときはは、もう助からないのだ。
乾いた笑いが口からはみ出る。
思えばろくな事のない人生だった。
貴族階級の生まれとはいえ、幼い頃から親しい相手などおらず、それがやっと出来たかと思えば突き放される。思い上がったところがときはにはあったのだろう、今思うと貧しい浅葱やさゆきを時々恥ずかしく思ったものだ。何と性根の悪い人間だろう。神名火守の仕事だとて、意義や責任をもって取り組んだ事など一度もない。その程度だったのだ、ときはにとって見習いの仕事は。
見も知らぬ少女に謂れ無き敵意を向けられ、死にかけて冥府に留まり、あまつさえこんなところにまで堕ちてしまった。あの、ときはと同じ顔を持つ少女の事も、今ではもう昔の事のように思える。彼女は本当に、何者だったのか。
諦観の念でときはが過去を振り返る間――二人の獄卒が彼女の姿を見つけていた。
力なく倒れこむ少女を軽々と持ち上げたのは人の体に馬の頭を持つ処刑人だった。
ときはは声もなく目を剥く。彼らから逃れるために地面に伏していたというのに何故。
その馬頭の背丈はゆうに七尺を越える巨大さで、肌は地獄の火に焼けたように真っ赤だった。屈強な腕が掴むはときはの衿。自分の意思でなく持ち上げられ、宙に浮かぶ羽目になる。
ときはは通常の手順を踏んで地獄に来たのではないと、罪人ではないと証明するために口を開かなければならなかった。いや、口は開いてはいたのだが呼吸さえままならず、弁解の意思など見せられるはずもなかった。
馬の頭の後ろのは、牛の頭の処刑人。手には罪人を打ち据えるための黒い縄。
「……新入りか」
ときはは絶望していたが、それでも瞳は生きた人間のものであった。地獄では、新しくやって来た住人でない限り、繰り返される拷問に瞳は濁り、死んでしまう。ときはの目を見てまだ地獄に来たばかりの、これから縄で打つべき存在と彼らは判断した。
そんな事を知らぬときはは、それでも獄卒として圧倒的な威圧感を放つ彼らに気圧され、舌さえ痺れさせていた。
「刑を逃れられぬと教えてやろう」
牛の口が開かれる。やっとときはにも、処刑人たちがときはを罪人と見なしていると分かった。
放して、と言うつもりが舌が上手く回らない。手を動かすと、思ったより簡単に持ち上げられたが、馬の体には届かない。筋肉のこわばった足もなんとか動くと分かったが、体格差のあり過ぎるときはと馬頭では両手足を上下させたぐらいでは何の意味もない。
のしのしと馬の歩くのが分かる。
いやだ。行きたくない!
どれだけ身をよじっても、ただときはの着物が捻られるだけ。
人とも思えぬ奇声がする。
熱い地獄。
希望は途絶えた。思った瞬間、
「そいつ、放せよ」
声は投げられた。




