十九、地獄道
さほど長くはありませんし、あまり大したものではないかもしれませんが、
残酷描写あり。
胡蝶は無視をされるのが嫌いだ。今ではもう顔も覚えていない相手の、嫌な仕打ちを思い出すからだ。具体例さえ今では少ししか思い出せないのに、あの時覚えた感情だけは深く根を張るように胡蝶の内部に染み付いたままだ。鉛を呑まされたような、内臓が内側から熱で溶けるような、形容しがたいあの感覚を何と言おう?
何にせよ繰り返したくないと思うのは変わらない。
故に同じような事をするときはの態度が気に入らなかった。そうでなくとも、佳耶が彼女をやけに気にかけるから苛立っていたのに。
本来胡蝶は、初対面の相手にはあまり上手く接する事が出来ない人間だ。それはついつっけんどんになってしまうからというのが理由ではない。むしろ、何を言っていいのか分からず、自分自身を紹介するのも得意ではなく、会話に困ってしまうからというものに由来する。自分でも初めて会う相手にはやや消極的になってしまいたじろいでしまうと分かっているからこそ、敢えて気の強い人間を演じようとしているのだ。しかしそういった振る舞いをするのに慣れていくと、元はそういう部分もあったのか、胡蝶はつんとすました気の強い人間に見えるようになった。
それは全て弱い自分を隠すため。いつかのあの暗い感情を忘れるため。
佳耶と会ったのは、そんな自分の根っこと仮面の部分がまだ少し混在している時分。やはり初めて会った相手に素っ気ない態度しか取れなくて、胡蝶は内心で嫌になっていた。しかも佳耶の方も相手に不満を抱いているという態度を隠しもしない、尊大な態度だった。胡蝶はこの時、佳耶とはとても仲良くなれないと感じた。
しかし佳耶はいつまでたってもあの不機嫌そうな顔のままで、言動もぶっきらぼうだったが――見た目や言葉は突き放したものでも、いつだって他者に対等に接していると気づいたのだ。そして案外他人を見ている。
『お前って、けっこううるせえけど案外根性あるな』
一人で居残って仕事を片付けていた時の事。冥府での胡蝶の仕事は、今のところは雑用が多い。誰にでも出来るような簡単な仕事、荷物運びや清掃やごく単純な作業など。最近では別の仕事も増えたが、まだそれをはじめていない頃の話だ。
佳耶の選ぶ言葉には、ある程度の補足が必要な時がある。胡蝶は自分なりに彼の言葉を解釈した。胡蝶がうるさいと言うのは、文句が多いという点を指しているのだろう。その自覚はある。この頃少しは慣れてきた佳耶の前で仕事の愚痴を言った事があった。
確かに嫌になった事が多くても、胡蝶はその時の自分の仕事に彼女なりに誇りと責任をもって接してきた。その事を評価されたと感じたのだ。
誰かに褒められたかった訳ではない。胡蝶はそういう性分なのだ。やれと言われた事はやる。ただそれだけだった。しかしながら――自分のやっている事が正しいと、認めてもらえたような気がした。本当に望んでいた言葉ではなくとも、心臓の奥がくすぐったいような、こそばゆい思いに囚われた。
この時からだ、佳耶を見つける度に声をかけたくなったのは。
元々、胡蝶の周りに年の近い者はない。余計に佳耶との会話が楽しくなって――佳耶は人と話をするのが好きという訳ではないようだったが、それでも胡蝶の話につきあってはくれる――彼と過ごす時間がどんどん楽しくなっていった。
そんな矢先に――ときはという少女の到来だ。
言動のはっきりしない、目つきもどこか虚ろでぼそぼそとしゃべる少女だ。それに少し不思議なにおいがした。嫌なにおいとは感じなかったが、何処かで嗅いだような奇妙なかおりだった。それが僅かに懐かしいような感覚に陥って、胡蝶はそれを振り払うためにも“くさい”と眉をしかめてみせたものだ。
初めて会った時から胡蝶の気に障った。初対面の人間を相手にした自分に少しだけ似ているように思えてしまったのだろうか――隠すべきと感じている、自分の一部に。だからこそ警戒した。
佳耶は親しくなった相手にも、大抵の場合素っ気ない。保護者のような立ち位置にいる征崖にはさすがに異なる態度を取るが、ときはにもきっと同じ態度だろうと胡蝶は思っていた。最初こそはそう思えたのだが、どうも様子がおかしい。
ときはを連れて冥府に戻ってきた佳耶の視線が、時折ときはに向けられているのを、胡蝶は見ていた。
突き放されたように感じた。
一度など佳耶はときはの方を持つような事を言ったりした。あれは、どういう事なのか。まさかとは思うが――ときはに気があるのでは。
自分の勘違いを止める手立てがないまま、胡蝶は見てしまった。
佳耶が、微かな笑みをあの少女に向けるのを。
あの少女が来るまでは、胡蝶の世界は平穏だったのに。やっと自分のなりたい自分になれて、親しく話せる男の子もいて、新しい仕事までもらえて。完璧とまではいかなくとも、充実した日々だった。
それを壊したのは、あの少女――ときはとかいう、出自の分からぬ人道からの訪問者。誰も明言しないが、彼女がいずれ去る食香ではないというのは薄々ながら気づいていた。だからこそ胡蝶の危機感は余計に募った。
あの少女がいるせいで、胡蝶は佳耶に振り向いてもらえない。何か事情があるのは佳耶が世話役を任されているところからして察せられる。だがそれが何だ? 折角胡蝶の日々は上手くいきはじめていたのに。台無しにしたのだ、あの少女は。
何とかして彼女を何処か、元いた人道に戻すかしたいが、征崖が関わっているという事は胡蝶の勝手に出来るような事態ではなさそうだ。ならばせめて、あの少女を痛い目に遭わせてやりたい。あんな子供、困ってしまえばいい。泣いて落ち込めばいい。何か怖い思いでもすればいい。そこまで考えたがその機会にしばらくは恵まれず、胡蝶は少し意気をくじかれそうになった。が、ある時地獄道に届け物をする仕事があると聞けた。
地獄道だ。ときははあの場所を知らないはずだ。冥府の住人にとって危険はないものの、見るだけでも恐ろしく小さな子供であれば大声で泣き出し粗相をするだろう。そこまではいかなくとも、あの少女だって及び腰になって震えるだろう。想像すると、胡蝶は段々と愉快になってきて、ふらふらと歩いているあの少女を見つけて捕まえたのだ。
胡蝶にとって好都合な事に、ときははどこか夢現で、目を開けて眠っているかのように唯々諾々と胡蝶についてきた。地獄道まで。
途中で彼女が悲鳴でも上げれば、笑いながら引き返すつもりでいた。ときは一人では元の場所までは帰れまい、胡蝶に頼るしかなくて屈辱的に思うだろうがそんな彼女を見つめて嘲るつもりだった。
急に佳耶が現れるまでは。
彼が自分とときはの何方を追ってきたのかは知らない。とにかく見られたくないところを見られてしまった。胡蝶は普段からときはを気に入っていないと全身で表現している。ときはと行動を共にするのはおかしいと怪しまれると思ったから、もっともらしい言い訳を口にして佳耶を伺った。地獄で仲直り、なんて普通に考えれば不自然ではあったが、地獄の住人でなければ地獄はそう恐ろしくはない。
佳耶が疑いの眼差しで自分を見ているのが分かる。だがこうして地獄道まで来てしまった今、引くに引けない。なんとか佳耶をやり過ごして、彼が先に戻っていろと言った時にはそうしようと思っていた。
ときはのそれに気づくまでは。むしろ、今までどうして気がつかなかったのか。
胡蝶は立ち去ったばかりの佳耶の手首を見た。薄紅色の、小さな勾玉。ときはと佳耶は同じものを身につけている。それがどんな理由からかは知らない――ただこの時の胡蝶にはときはの手首からそれを奪う事しか思いつけなかった。
まだ少し寝起きのような顔をするときはから、それを奪うのは簡単だった。
手首の飾りを二つ取り上げると、その場に彼女を置き去りにした。
それがどんな事を引き起こすかも知らないで、胡蝶は駆けた。
佳耶は胡蝶から奪った仕事を手早く片付けると、おそらく彼女たちが使っただろう入り口へと向かった。自分より先に冥府に戻っているはずだから、待つ必要はないだろうがなんとなく気にかかって、佳耶は立ち止まった。万一彼女たちが遅れていたら、このまま先に帰る気分にはなれない。少しの間だけだと決めて、佳耶は暗い空の下、彼方を見つめた。
相変わらず嫌な場所だ。空は絶望を閉じ込めた黒で、大地は血を吸って赤黒くなった色。思い出したくもない記憶が蘇る。本当はこんなところには、仕事であっても来たくはなかった。今回は、胡蝶がときはを連れて地獄道へ行くのを見たと聞いたから仕方がなしに来たのだ。頼りにしている征崖もおらず、一人で地獄に来るのは勇気がいった。
だが今の状態のときはを放ってはおけない。しかも、冥府以外に行くなんて好ましくない事態だ。胡蝶は何も知らないから連れ出したのだろう。
ため息が出そうになる。
こんなところ、一刻も早く出たいのに嫌な予感がしそうなのだ。まだ少女たちが冥府に戻っていないように思えるのは心配のし過ぎだろうか。佳耶は、他者の事で逐一気を配るような人間ではなかったのに。いつの間にかときはを気がかりに思う事が日常のようになってきた。そんな面倒な事は嫌なのに。
一体いつになったらときはは人道に帰ってくれるのだろう。征崖は、閻魔王は何を考えているのだろうか。彼女が冥府からいなくなりさえすれば、佳耶は普段の自分に戻れるに違いない。他者とは一定の距離を保って接し、相手を慮るなど必要最低限しかしない自分に――。
「……あ」
小さな声に、佳耶は我に返る。下を向いていた彼はぱっと顔を上げた。そこには胡蝶がただ一人で、僅かに驚いた表情で立っているだけ。一人で、だ。
「あいつはどうした?」
まだ少し距離があったから、佳耶は胡蝶に向かって歩を進める。近づくにつれ胡蝶の顔が苛立ったものに変わっているのが分かった。最近、胡蝶は機嫌がよくない事が多い。佳耶だとて愛想よく振る舞う事は苦手だが、胡蝶はもっと楽しげな表情の多い娘だと思っていたのだが。
「……先、帰ったはずだよ」
佳耶に非があるとでも言いたげな口調。他所を向く胡蝶の様子に佳耶は眉を寄せたが、彼女の手からこぼれるものを見つけて目を見張る。
「お前、それ……」
大きな雨粒のような、微かに透き通った青色の珠。ときはが冥府に来てまともに話せるようになった頃、征崖がそれを手渡していたのを佳耶はその目で見ていた。自分の持つものとほとんど同じだと気づいたと同時に、自分は持たない物も含まれていると知った。あれは佳耶が持っていない方の手首飾りだ。征崖は勾玉と珠の二つを肌身離さず持つようにとときはに命じていたはずだ。青い方の効能は知らないが、もう一方の力なら佳耶はよく知っている。
「勾玉の方はどうした? あれもあいつから取ったのか?!」
もう一方が胡蝶の手の中に入っている事を願って彼女に掴みかかるが、佳耶の望みは叶わない。胡蝶の開かれた手の平には、青色の手首飾りだけが残っていた。
「え、あ、その」
胡蝶は否定しない。という事は――佳耶は青ざめた。
ときはは、薄紅色の勾玉を今手にしていない!
全身が総毛立った気がした。それに背中を押されたかのように、佳耶は突然走り出した。
「ちょっと、佳耶?!」
あの勾玉はただの飾りなどではない。当たり前だ、冥府の主が征崖の手を介してときはに渡したのだから。あれは、肉体を持って冥府に来てしまった彼女の身を守るためのもの。恐らくは彼女を怖がらせまいとして征崖は黙っていたのだろうが、かえってそれが災いした。そもそも地獄道に来るなど想定していなかったのだろう。佳耶が世話を任されているからと安心していたのだろうか。そうなれば今回の事は佳耶の落ち度――。
本来人は冥府には魂だけでやって来る。肉体を伴って来る事は出来ない。しかし時には例外があって、ときはの場合がそうだった。冥府内であればまだ“歓迎されない事もある”程度で住むだろう。だが地獄では違う。
地獄道とは人が前世において犯した罪を悔い改める場所である。苦しみの道である。苦痛と困難しか存在しない。そんな場所でも人は肉体を持って生まれ落ちる。その魂を内包する肉体を傷つけるために。その身をもって罪を贖うために。身体を覆う痛みでもって自分の犯した罪の大きさを知るために。地獄の住人は誰もが罪を背負っている。肉体に負う大きな傷という形の。
そんな中に、ときはのような肉体は健全な存在が放り込まれたらどうなるか――
佳耶にはそれが手に取るように理解出来る。
彼女を、探し出さなければ。喉から競り上がりそうになるのは焦燥感。自分がどんな顔をしているかも知らないで、佳耶は駆けた。
空は真っ暗だった。月のない夜とてここまでにどす黒いだろうかと思うほどに暗いのに、自分手はおろか、そのもっと先、地平線までよく見える。
遠吠えのような、うめき声のような、家屋の隙間を通る風の音のようなそれがそぞろ飛んでくる。病人が苦しみに声にもならぬ音を吐き出しているようなそれは、背筋をじっとさせない。ときはの心臓はばくばくと今にも飛び出しそうだ。あの声から逃げようとして駆けているのに、周りの風景はほとんど変わらない。自分が本当に足を動かしているのかさえ疑問になる。
また、風に乗って奇妙な音が聞こえる。いや、音などではない。確かに人の声らしいが、それを人のものだと認めればかなりの苦しみの中に居るものの悲鳴だと分かってしまう。耳をふさぎたくなるような呻き。
断末魔の悲鳴だ。気づくとときはは恐ろしくなった。あれは人が出していい音ではない。もはや悲鳴にすらなりきれていない。どれだけの苦しみを与えれば人はあんな音が出せるのか、考えたくもない。ここがどこであれ彼女が居ていいはずの場所ではない。胡蝶はどこに居るのか、彼女と再会して出口を教えてもらうつもりだったが、そんな余裕もない。
駆けても駆けても出口らしきものは見当たらない。そもそも、普通の屋外には出口など存在しない。自分がこの場に来た時の事を覚えていないときはは、どうやったらこの迷宮から出られるのか分からなかった。
一際大きな声がして、ときははびくりと身を竦ませる。思わず振り返ってしまったのは何故か――危険を察知するためだったのなら、ときはは振り返ってはいけなかった。
「ひっ」
声を上げた自分を後悔するように、ときはは口元を押さえた。
ときはは音もなく現われたそれの姿を目にする事になる。少し隆起した大地の上に、四本足の獣のような影があった。
鞭で打たれた痕や刃物で切りつけられた傷のある、血に濡れ爛れた肌を露出させるヒトの姿。元人間といった方がいいかもしれない、その姿はほとんどぼろ布のように無残だった。正視など出来ないほどに、体のあちこちが歪んでいる。
ときはは目を離すべきだったのに、あまりの事に身動き一つとれなかった。
「あ、あ……あ……」
ヒトの形をした何かが、口と思しき穴から音を出す。苦しみにしては稚拙なそれに、ときはは耐える事が出来なかった。
瞬き一つ出来ない目は乾燥し、熱い温度で涙が出てきた。ときはの喉に吐き気がこみ上げてくる。あのヒトらしきものは、骨まで露出しているではないか。
「あ……、……ニン、ゲ……」
意味のある音として認識出来なかったときはだが、真っ赤な四足で歩く存在が、ふいと視線を逸らしたので呪縛から逃れる事が出来た。胃が痙攣しているような気がする。胃液しか出てきそうにないのに、ときははそれの逆流を防ぐために口元を強く抑える。
駆け出して、せめてもの救いだったのは誰も彼女を追いかけては来なかった事だ。声にもならない悲鳴が追ってくる以外は。今は考えるよりもこの場を脱出しなければならない。来た道を辿るにはこの荒野は目印がなさすぎる。
どうやって冥府に帰ればいいのか、ときはには分からない。胡蝶の姿はどこにも見つからない。ときはは駆ける。そうでもしなければこの塗りたくった黒い空の下、座り込んで泣きじゃくってしまいそうだからだ。恐怖に突き動かされるようにして少女は走り続ける。
そうやって走り続ければいつかこの世界の端にたどり着けるとときはは信じていたのに、そうはならずにまたあの断末魔が聞こえて来た。あ、と思った時には遅かった。目の先には地獄が広がっていた。
地面に張り付く“何か”にも気がつけなかった。それは、先ほど見てしまったような、見てはならぬ存在。ときはの世界に存在してはならないもの。人に近い形をしてはいるが、人間の規格から離れてしまった“それ”。ときはの足は、止まってしまった。
「み……水……」
足に傷を負ったか失ったかして四肢を使って歩くしかないイキモノたち。爛れるか血に濡れるか、開いた傷口に膿をつけるか蛆をたからせるかして滑らかな肌など少しも持たない穢れた存在たち。血走った目は虚ろか、眼球が飛び出しているか、眼球そのものが存在しないか――それでも彼らは、ときはに気がついていて、一心に彼女を見上げていた。
「ああ……あああ……」
“あ”と言っているのかも分からぬ、ごうごうと風のような音を立てる地獄の住人たち。その音は聞く者に不安を与える。心臓が磨り減りそうだ。
単語にもならず聞き苦しい彼らの言葉に耳を傾けてはいけなかった。彼らは苦しみに怯え痛みを畏れ悲しみに暮れ、やめてくれ、殺してくれと死にたいと訴えていた。
先程とは違って、今度は何体ものイキモノがときはの周りに近づいてきた。その動きは遅く、のたのたとまどろっこしい程だったが、ときはは数の多さに口元を強く抑える事以外出来なくなってしまった。本当に吐いてしまいそうだ。
顔の半分が焦げたように真っ黒になって片方しか眼球の埋まっていない“それ”が、くいと顔を持ち上げる。
「お……おま、おま、え……生きた、ニンゲン、の……におい、する……」
ときはは知らない。天道と人道以外の六道に“生きた肉体”が飛び込むという事がどれだけ大きな影響を生むのかを。
「いき、た、ニン、ゲン?」
他の地獄の住人が声を上げる。こちらは女性だったが、そうと思わせるものはほとんどなく、声が少し高いというだけであった。
「健康な体」
「ああ……うう……」
「あたらしいからだ」
「おれのだ」
「おれのものだ」
「おれだ」
「いきたけんこうなからだがほしい!」
地獄の亡者どもは口々に己が欲望を叫び出す。
ときはには分からない。彼らがどうして自分を嫉妬と羨望の目で見るのか。地獄道の仕組みがどういったものかを知らないからだが――彼らが自分に強く執着しているのだけは理解した。
「こ、来ないで」
訳が分からないが、捕まるわけにはいかない。彼らは動きが鈍い。健康な体を持つときはに、ぼろぼろの体を持つ彼らが勝てるはずがないのだ。それなのに亡者たちの落ち窪んだ瞳の、穴と化したその場所からの不可視の縄を解く事が出来ない。
くい、と着物の端を引かれたと思った時にはもう接近を許していた。火傷でぐずぐずになった顔で、一つだけ残された落ちかけの眼球で、その亡者はにたりとわらった。歯は僅かしか残っていなかった。
「いや……っ!」
身をひねるが、ときはは既に、地獄の住人たちに取り囲まれていた――。