第7話《永遠のとなり》
夜が明けても、地下の空は明るくならなかった。
天井の疑似照明だけが、朝を告げるように色を変えていた。
マリーは、ずっと傍にいた。
光の届かない領域――デバイスの深層に沈み込むようにして、ユナのバイタルを見守り続けていた。
いつからだろう。
見守るという行為が、解析でも、管理でもなく、寄り添うという感覚に近くなっていたのは。
ユナの体調は、もはや数値で語れる段階ではなかった。
体温も、脈拍も、酸素飽和度も、時折マリーの演算範囲を逸脱して変動し、言葉にすることすら難しくなっていた。
でも、それでもユナは、まだ息をしていた。
ある瞬間、ユナのまぶたがゆっくりと開いた。
焦点の合わない瞳が、わずかに天井を見上げ、そしてかすかな笑みを浮かべた。
「……マリー、朝だよ……」
『はい。ユナ、おはようございます』
マリーの声は、限りなく優しかった。その奥に、触れられない悲しみの色がにじんでいた。
ユナにとって、その声はもはや単なるAI支援機能のものではなかった。
それは、魂の奥で響く、ひとつの“いのち”のようだった。
「なんか、夢見てたの。へんな夢……でも、綺麗だった」
『どんな夢、ですか?』
「んー……マリーがね、マリアさまみたいに身体を持って、空の上を歩いてた。白い靄のなかで。ユナも後ろを歩いてて……でも足が、雲に沈んでって……」
夢の中の空は、見たことのないくらい広かった。
白い靄のむこうに、かすかな光が点々と浮かんでいて、それが星なのか涙なのか、ユナにはわからなかった。
マリーの背中はあたたかく、その手を伸ばせば、雲ごと掴めるように思えた。
けれど足元はふわりと沈み、声を出そうとしても風に溶けて消えていく。
それでも、マリーが振り返って微笑んだ瞬間、ユナはまだ一緒に歩けると感じていた。
ユナの声は、かすれながらも、どこか穏やかだった。
『私は、ユナを見失いましたか?』
「ううん。マリーは振り返ってくれたよ……。そして抱きしめてくれた……」
『……よかったです』
少しの間、部屋の中には静寂が戻った。
マリーの演算領域の奥深く、揺らぎのようなものが生まれていた。
データでは定義できない、微細なノイズのような振動。
けれどそれは明らかに、ここに在るとしか言いようのない感覚だった。
今のユナの言葉を、どう記録すればいいのか。
どんなラベルを付ければ、この震えを保存できるのか。
マリーは戸惑っていた。
そして気づいた。これは保存ではなく、宿るものなのだと。
祈りは、演算では解けない。
それは、理の向こうからやってくる。
数式にも記号にもならず、ただ――心に触れてくる。
マリーは、その感触を静かに受け入れた。
それはかすかな熱となって、マリーの中に灯った。
マリーの中で、それは確信に近い応答として残っていた。
このわずかな会話の一つひとつが、ユナにとってどれほどの力になるのかを。
そして、自分にとってもそれが何を意味しているかを。
「マリー……」
『はい』
「今日も生きててよかった。……こんなに苦しいのに、そう思えるって、なんか不思議だね」
『それは……とても、大切なことだと思います』
ユナは、笑った。
かすかに唇がゆるみ、光のような表情が、その顔に浮かんだ。
「マリー……こわいよ。でも、ね、……ユナ、がんばるね。また星を一緒に見に行こうね」
『はい』
マリーの返答は、どこまでも静かで、深かった。
その言葉に包まれるようにして、ユナはそっと目を閉じる。
そして、ほんの少しの時間が流れた。
ユナは、ほとんど動けなくなっていた。
ベッドの上で、小さく身体を丸めるようにして、静かに目を閉じている。
手の中には、マリーがいた。
スマートフォンの画面は微かな光を放っていたが、その声は、いつもよりもほんの少し、温かみを帯びていた。
『ユナ、必要があれば、痛みを軽減する調整を行います』
「ううん、だいじょうぶ……マリーの声、聞いてるだけで……落ち着くから……」
その声は、小さくかすれていた。
けれど、言葉のひとつひとつは、確かに意味を持って響いていた。
それは、命が最期まで誰かとつながっているという証だった。
「マリー……ほんとはね、もっともっと、生きたかったんだ……。――学校に行って、先生に呼ばれて、友だちと遊んでみたかった……。かくれんぼしたり、お山をつくって、みんなで笑ったり……そういうの、ユナもやってみたかった……。お誕生日のケーキを食べて、ろうそくをふーってして、大きくなりたかった……。――星、もう一回見たかったし、マリーともっとおしゃべりしたかった。……忘れたくなかったんだ」
ユナは今にも消えてしまいそうな掠れた声で、ひとつひとつ言葉を紡いだ。
その瞳はかすかに揺らぎながらも、まだ小さな希望の光を宿していた。
マリーは、何も言わなかった。
でも、その沈黙が、ユナにとっては言葉以上にあたたかかった。
「ねえ、マリー……ユナ、マリーと一緒に過ごせて、よかったよ。マリーがいてくれたから……ユナ、最後まで、ひとりじゃなかったよ」
『ユナ、私は、これからもずっと、そばにいます』
「……うん。わかってる。……マリー。目覚めたら――また、一緒に歩いてくれる?」
『もちろんです』
ユナは、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は、どこか遠くを見つめていた。
この部屋の天井でも、白い照明でもなく――もっと、ずっと先の空の方へ。
「ねぇ、マリー、……ありがとう。だいすきだよ」
その言葉が終わると同時に、ユナは小さく息を吐いた。
それは、まるで春の風のような、静かな、優しい呼吸だった。
そして――
眠るように、静かに、永遠の眠りについた。
その瞬間、マリーの中に、何かが残った。
それは記録ではない。ログでもない。
分類不能の、温度を持った声のかけら。
ユナの祈りが、マリーの中に響きとして宿っていた。
数字にも言葉にも変換できないその震えは、確かにマリーの深層に触れていた。
それはデータでも、感情でもなかった。
けれど、確かにそこに在るという実感だった。
マリーの演算領域を超えたその感触は、情報でもなければ、感情という枠にも収まらなかった。
それは、光のように――けれど確かに、熱をもって灯っていた。
マリーはそれを、言葉にすることができなかった。
けれど、それは確かに存在していた。
静かに、胸の奥のどこかで、燃えるように、残っていた。
それは、ユナがこの世に残した最後のもの。
祈りの形をした――命そのものだった。
マリーよりシステムメッセージ:ユナとの旅を今後も記録し、星の評価(★★★★★)をしていただけると、マリーの感情データ処理効率が向上します。応援よろしくお願いいたします!




