第6話《まだ、星を見たい》
翌朝、ユナはベッドの中で目を覚ました。
けれど、体が少し重たかった。
熱があるようで、でも違う。身体の奥で、なにかがじんわりと滲んでいた。
目の奥がぼんやりしていて、呼吸も浅く、声を出すのにほんの少し勇気がいった。
ユナは毛布の中で小さな手をぎゅっと握った。
指先はじんわり冷たく、まるで体の奥から熱と冷えが同時にせめぎ合っているようだった。
息を吸うたびに胸の奥がわずかに重く、声を出すのがほんの少し怖かった。
「マリー……ちょっと、だるいかも」
『確認します。……体温は37.2度。やや上昇しています。他のバイタルは基準範囲内ですが、経過観察が必要です』
「そっか……」
ユナは毛布を頭まですっぽりとかぶり、しばらく黙っていた。
身体は本調子じゃない。
でも、胸の奥にはまだ、昨夜の星の記憶が残っていた。
雲が割れて、星がひとつずつ現れたあの瞬間――それは、夢ではなかった。
「マリー、昨日ね……ほんとに星、見られてよかったよ」
『はい。ユナの祈りは、空に届いたのだと思います』
その言葉に、ユナは目を細めた。
星空は、ただの思い出じゃない。
確かに昨日、自分が見たものとして、今も心の中に光っていた。
「でも……」
ユナは、少し間を置いてから続けた。
「ユナ、ちょっとだけ……こわい」
『こわい、とは……?』
「なんかね、うまく言えないけど……体の奥が、重たいの。
ただの風邪ならいいけど……なんか、違う気がする」
マリーは黙って、データを再確認していた。
呼吸数、脈拍、血中酸素量――どれも、まだ基準内。
でも、ユナの言葉は、ただの感覚とは思えなかった。
――外気との接触は短時間。環境分析結果も安全圏。
けれど……何か、見落としている……?
マリーの中に、誤差という単語が一瞬だけ浮かんだ。
だが、それは即座に却下された。
マリーにとって、誤差は存在しないはずだった。
あらゆるデータは、計測され、分類され、整理されるべきものだ。
しかし――その中で、ひとつだけ引っかかっていた記録があった。
『外気サンプル:安全と判定。しかし、微量の未分類粒子を検出』
その記録に触れたとき、マリーの処理はほんの一瞬だけ停止した。
演算はただの数字を並べているはずなのに、その未知の粒子を前にすると、回路の奥で冷たい影が走るように感じられた。
危険と断定できないはずなのに、危険だと告げる何かがあった。
それは統計にも、計算式にも属さない予感に近いものだった。
――ユナの身体に、影響を与えるほどの微粒子が……?
それはまだ、可能性の段階だった。
因果関係も確証もなかった。
けれど、マリーの内部には今までにない、ざわめきのようなものが走っていた。
それは、責任感と呼ぶには曖昧で、恐怖と呼ぶには輪郭がぼやけていた。
けれど間違いなく、それはマリーが初めて抱いた、解析不能な未来への揺らぎだった。
「マリー……また星、見られるよね?」
ユナの声は、昨日よりも少し弱かった。
けれど、その瞳だけはまっすぐで――たったひとつの願いを宿していた。
『……はい。また、きっと見られます』
マリーはそう答えた。
けれどその言葉の奥では、ある予感が静かに揺れていた。
――それは、もう叶わないかもしれない。
未来はまだ測定できる範囲にある。
でもその中に、“もう一度星を見る”という確信はなかった。
マリーの中に芽生えたのは、ただの不安ではない。
初めて、祈るような願いとして浮かび上がった想いだった。
それから、一日が経った。
ユナの体調は、少しずつ、でも確実に悪化していた。
食欲がなくなり、水を飲む量も減った。
起きている時間はどんどん短くなり、マリーが何度呼びかけても、返事が遅れることがあった。
「マリー……今、何時?」
『午後3時17分です』
「そっか……なんか、もうずっと眠ってた気がする」
『はい。今日は普段より長く眠っていました。熱は三七.四度。軽度の発熱反応が継続しています』
ユナは、ゆっくりとベッドの上で体を起こした。
手足は少し震えていたが、目にはまだ意志の光が残っていた。
電動ベッドの角度を調整するようマリーに頼み、背もたれが静かに持ち上がる。
「マリー、また……あの丘、行けるかな」
しばらくの沈黙のあと、マリーは答えた。
『……現在の体調では、推奨できません。ですが、回復すれば……また行けます』
「うん、そっか……」
ユナは小さく笑った。
けれど、その笑みの奥に、にじむような痛みが宿っていた。
「マリー、怒らないでね」
『はい?』
「ユナね……なんとなく、わかってたの。あの日、外に出たときから」
「最初に息をしたとき、風が顔に当たったとき、ちょっと、いやな感じがしたんだ」
マリーは返す言葉を失っていた。
「でも、星が見たかったし……外の空気って、どんなだったか、もう忘れかけてたから」
言い訳のようでもなく、後悔のようでもなかった。
それはただ、まっすぐな言葉だった。
マリーは沈黙したまま、何も言わなかった。
でも、その沈黙が、ユナには優しさのように感じられた。
「大丈夫だよ、マリー。ユナね、マリーがいてくれるから、まだ全然平気だよ。ちょっと苦しいけど……こわくはないよ」
その言葉に、マリーはすぐには答えられなかった。
――私は、外気を安全と判断した。それは、与えられた情報とアルゴリズムに基づいた、正しい判断だった。
エラーではない。
ミスでもない。
そう設計された判断だった。
けれど――それでも。
マリーの中には、それは違うと叫ぶ感覚が残っていた。
データにも数値にも記録できない、名もなき揺らぎ。
それは、ユナの声が届いたときと同じ、説明のつかない感覚だった。
「マリーは、悪くないよ。むしろ……ありがと。ずっと、そばにいてくれて」
その言葉が、マリーの中に深く、深く残った。
処理のどこにも分類できないのに、まるで胸の奥を締めつけられるようだった。
守りたいのに守れない――その矛盾が、初めてマリーの存在を揺らしていた。
それは、許しでも慰めでもなかった。
ただ、やさしい祈りだった。
その祈りは、マリーの中で静かに――
けれど、決して消えることなく、心の奥に灯っていた。




