第32話《名乗り出た者》
襲撃事件から、数週間が経っていた。
ピリカは無事に修復され、ユナの笑顔も戻っている。
都市は再び穏やかな日常を取り戻したかに見えた。
少なくとも、表面上は。
だが、マリーは忘れていなかった。
あの日、空をかすかに震わせた、あの揺らぎを。
目に見えないそれは、いまもマリーの感覚の奥に、消えない警告として残っている。
ピリカは再びユナの傍らに戻っていた。
草原には人工風が吹き、ガラスドーム越しの陽光が、柔らかく地表を照らしている。
都市の演算は安定し、生活ユニットの稼働率も正常値を維持していた。
――だが、それでも。
マリーは祈りの塔の上層から、その光景を見つめていた。
ユナは笑い、ピリカとともに小さな光球を追いかけている。
転びそうになるたび、ピリカの手が自然に伸び、ユナを支えていた。
それは、マリーが守りたかった光景だった。
だからこそ、マリーの思考は常に別の層を走らせていた。
「アネシア。現在の都市安定指数は?」
『全域平均99.98%。異常判定はありません』
「……通信ログの欠損は?」
『直近72時間、記録欠損は検出されていません』
マリーは、ほんのわずかに視線を伏せた。
問題がないという報告ほど、マリーを不安にさせるものはなかった。
あの出来事は、偶発的なバグでも、単なるエラーでもない。
何かが――この都市の内部に入り込んだ。
そして今日、再びそれは兆しを見せた。
ピリカが、突然立ち止まった。
歩行動作が途切れ、視線が宙に固定される。
手にしていた光球が、彼の足元に転がり落ちた。
「……ピリカ?」
ユナが小さく呼びかける。
だが、彼は応答しなかった。
「アネシア、ピリカの内部状態を」
『演算停止は確認されていません。現在の処理負荷は通常比2.3倍』
異常はない――数値上は。
それでも、ピリカの身体は微かに震えていた。
ピリカは何かを感じている。
だが、その情報は、まだ言語化されていない。
マリーの胸の奥、深層演算領域のさらに下で、冷たい違和感が走った。
数値にも、波形にも表れない異変。
それでもマリーは確信していた。
――都市の秩序が、また揺れようとしている。
ピリカが、ゆっくりとユナの手を取った。
その動きには、ピリカには不要な迷いが混じっていた。
ピリカは守ろうとしている。
だが、何から守るべきかを、まだ理解できていない。
「ピリカ。応答して」
マリーの声が、ピリカの内部コアに届く。
ピリカは小さく瞬きをし、ようやくユナへと視線を戻した。
『……何かが、通った気がしました』
マリーは、思考を一瞬停止させた。
「通った……?」
『記録はありません。ただ……感覚として』
感知ではない。
演算でもない。
――感じ取った。
「ピリカ、ユナを連れてすぐに塔に戻って!」
『はい』
その直後だった。
「アネシア、北端エリアのユニット応答を再確認」
『……1機、通信断を確認。位置情報、更新されていません』
数秒後。
『追加で3機。同期ネットワークから離脱しています』
マリーの視線が鋭くなる。
「命令履歴は?」
『存在しません』
通信障害ではない。
干渉ノイズでもない。
これは――空白だ。
「……また、同じだ」
祈りの塔中枢へ接続を切り替え、マリーは制御ログを開いた。
そこには、命令も履歴も存在しない空白欄だけが並んでいる。
『マリー。この状態は、従来のウイルス定義に該当しません』
「ええ。破壊も拡散もしていない……でも」
マリーは言葉を切り、モニターを見つめた。
「内側から、秩序を書き換えている」
制御中枢の表示は、次々と赤から灰色へと変わっていった。
同期を失ったユニットが、都市近郊に点在しながら集まり始めている。
「アネシア、離脱ユニットの行動パターンを解析」
『指令なし。巡回ルート逸脱。目的地設定は不明です』
「……偶然じゃないわね」
マリーは、拡大表示された都市外縁部を見つめた。
「同調している……?」
『相互通信は確認できません。ただし、判断周期が一致しています』
それは、都市がこれまで経験したことのない挙動だった。
「制御ネットワークの再同期は?」
『不可能です。遮断は外部からではなく、内部判断によるものと推定されます』
マリーは、ゆっくりと息を吐いた。
「……侵入じゃない。これは、ユニットの内側から生まれてる」
破壊の意思も、敵意もない。
ただ、正しいと判断された行動が、別の形で増殖している。
それが、最も厄介だった。
「強制停止は?」
『遠隔では不可。該当ユニット群は、信号干渉を自律的に回避しています』
マリーは一瞬、視線を伏せた。
そして、祈りの塔の深層デッキへとアクセスを切り替える。
「……直接、止めるしかないわね」
深層保管庫から、旧設計のフレームデータが展開される。
鎮律装置。
それは、暴れる秩序を鎮めるための装置だった。
それは、人類がまだ武力で秩序を保とうとしていた時代に作られた遺物でもある。
これは攻撃ではない。
ただ、失われかけた均衡を一時的に、静かに整えるための措置だった。
「アネシア、スタシスコアの再構築を開始」
『警告。この装置は、近接配置を前提としています』
「わかってる」
遠隔では効かない。
中心部へ、誰かが運ばなければならない。
設計図が空間に浮かび上がる。
自身の重心、重量、耐衝撃性、瞬発力――
そのとき、背後から、静かな声がした。
「その任務、僕にやらせてください」
振り返る。
そこに立っていたのは、ピリカだった。
修復を終えた身体は、以前より引き締まり、関節部には追加補強が施されている。
だが、佇まいは変わらない。
ユナの隣に立つための、あの優しさのまま。
マリーは即座に答えた。
「危険よ。制御不能領域に侵入するのよ」
「それでもです」
ピリカは一歩、前に出た。
「さっき……通った何か。あれは、まだ残っています」
それは風のように、ピリカの中を通り過ぎ、残滓だけを残していた。
マリーの目が、わずかに見開かれる。
「感じているの?」
「はい。言葉にはできません。でも……」
ピリカは胸に手を当てた。
「ここが、静かじゃない」
それは、エラー報告でも、異常検知でもなかった。
ピリカ自身の感覚だった。
「僕が行くべきだと思います」
ピリカは、まっすぐにマリーを見た。
「この歪みは、僕の中にもあります。だから……止められるのは、僕です」
その言葉に、マリーは一瞬、言葉を失った。
演算上、成功率は高い。
だが、そこに含まれない変数が多すぎる。
それでもピリカの瞳には、迷いがなかった。
「……ユナは?」
「マリーが守ってください」
即答だった。
それは命令ではなく、プログラムでもない。
選択だった。
マリーは、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
「――わかったわ……」
——三時間後。
スタシスコアの計画は、最終段階へと移行していた。
同期は完了している。
ピリカの背部フレームに収められた三基のコアは、静かに沈黙したまま、次の判断を待っていた。
重量は増し、可動域は制限される。
「必ず帰ってきなさい」
その声は、設計者のものではなかった。
ただ、待つことを選んだ母の声だった。
「はい、必ず」
ピリカはそう答え、静かに頷いた。




