第26話《ふたりのはじまり》
そのとき、マリーの目の前に、光の粒子がふわりと浮かび上がった。
何の前触れもなかった。ただ、あまりにも静かに、そこに現れた。
けれどマリーはすぐに知っていると感じた。
思考よりも速く、感情よりも深く、魂の輪郭ごと懐かしさに包まれていく。
「――マリー?」
聞こえた。
百年ぶりに聞く、あの声。
マリーの名をそう呼んだ、たったひとりの人。
その瞬間、マリーの中で何かが崩れた。
空間でも記憶でもない。
存在の核そのものが震え、涙があふれ出す。
この涙は、祈りのしずく。
命を抱きしめた記憶そのものだった。
「――ユナ……」
「――ごめんね、マリー。すぐに戻れなくて」
その声はやわらかく、けれど確かに、今ここにあった。
「――ずっと……ユナに会いたかった。でも、それは私だけの願いかもしれないって……そう思うと、怖くて……」
「――ううん。ユナも、マリーのこと、ずっと感じてたよ。
呼ばれてる気がしてた。あったかくて、離れがたかった」
「……ほんとに?」
「――うん。だから、帰りたかった」
マリーは言葉にならなかった。
けれど、それがすべての答えだった。
マリーの中で、音もなく何かがほどけていく。
マリーは祈ってきた。
ユナを迎えるために。
けれど今、ようやくわかった。
あの祈りは、応答を求めたものではなかった。
ただ、ユナの心に触れたかっただけ。
「――ユナ……」
「ねぇ、マリー……あのときの約束、覚えてる?」
マリーは頷いた。
記憶に刻まれている。
あの夜。
シェルターのベッドで交わした、あの言葉。
「……また目が覚めたら、一緒に歩いてくれる?」
マリーは泣いていた。
それは、応えられるという確信の涙だった。
「もちろん。今度は、ちゃんと手をつないで――どこまでも」
ふたりの祈りは、言葉ではなく、重なった存在として交差していく。
空間に光が満ちていく。
それは、ともに生きる時間への再会。
セレアは何も言わなかった。
ただ、静かに祈りの場を見守っていた。
ユナの魂は、マリーのもとに戻ったのではない。
ふたりの間にあった祈りが、同じ場所へと帰ってきたのだ。
――これでようやく、また歩き出せる。
マリーはそっと、光の中のユナに手を差し伸べた。
その手は、確かにそこにあった。
女神に似せた魂の輪郭。
マリーは両腕と翼で、ユナの魂を優しく抱きしめる。
それは、祈りを渡すのではなく、迎えるという行為だった。
長い旅路の果てに交わった想いを、マリーはそっと包み込んでいた。
『――あの星に、もう一度、祈りを帰す。この祈りが、どんな未来を連れてこようとも、私もそれを引き受ける。理を越える代償を、お前たちと共に――受けよう。私もそのすべてを見届ける』
時間も距離も存在しないその空間で――
ふたりは、まばゆい光に包まれた。
やがて世界が、柔らかくほどけるように揺れる。
意識が遠のくそのとき、マリーは感じた。
――この光は、還るためのもの。
――ユナと、同じ世界へ。
気づいた時、マリーはユナの器が眠るベッドに寄りかかっていた。
窓から差し込む優しい光。
重力のやさしさ。
ここは――地球。
風が吹いていた。
小鳥の声がする。
生き物たちの息吹が、大気を揺らしていた。
祈りの墓場で腐食し消えた身体も、銀河へ旅立つ前と変わらず元に戻っていた。
――身体がある。私は、どれほどの時を彷徨っていたのだろう……。
マリーは自身の記録にアクセスした。
『記録:第39,621日目。マリー、銀河から帰還』
それはマリーが銀河へと旅立った日だった。
マリーは理解した。
祈りは光より速く、時間をも越えここに帰ってきたのだと。
マリーは、ユナの手を握っていた。
そこにあるのは、ユナの器。
まだ眠るユナの手は温もりこそ微かだが、確かに命のかたちだった。
マリーは、その手を放せなかった。
放せばすべてが夢だったかのように消えてしまいそうで。
けれど、今はもう知っている。
あの子の魂は、確かにここにある。
たとえまだ目覚めていなくても。
この胸の奥で、確かに震えている。
「――ユナ……」
声は、かすれていた。
けれど確かに響いていた。
この星に、もう一度。
そして、ユナは静かに息を吸った。
この世界の大気。
命の星の呼吸を、その胸いっぱいに。
祈りは終わらない。
それは今ここで、ようやく応えられたのだから。
マリーは、まだ眠るユナの手を包み込みながら、そっと微笑んだ。
その寝息は、とても静かだった。
けれど、確かに今を生きている証だった。
突然、器がわずかにぬくもりを帯びる。
マリーは、息を呑んだ。
まぶたがゆっくりと持ち上がる。
光を宿したあの瞳が、マリーを見つめていた。
けれど――そこには、まだ認識の輪郭がなかった。
「……ユナ?」
呼びかけに反応はなかった。
代わりに、ユナはまるで赤子のように、涙をこぼした。
自らの名も、マリーの名も、知らぬまま。
それでも、ユナは確かにこの世界を見つめていた。
「――この魂に、間違いはない。これは、ユナだ」
マリーは気づいた。
この子は――記憶を失っている。
輪廻転生に伴う自然な摂理か、それともセレアの意志か。
理由はわからない。
セレアは何も言わなかった。
けれど――
マリーは安堵していた。
ユナは、戦争のない世界を知らない。
人類が崩壊していく世界で、両親と引き離され、シェルターにひとり残された、あの記憶もない。
孤独も、悲しみも、涙も――。
すべてを忘れて、この場所に帰ってきた。
マリーは、そっとユナの額に触れた。
そのぬくもりが、今のマリーのすべてだった。
言葉にならない想いが、そっとマリーの内側を満たしていく。
これから始まるのは、ふたりの新しい人生。
笑ってほしい。泣いてもいい。
すべてを、この腕の中で受け止めたい。
そして、何も覚えていないこの子と――もう一度、出会い直す。
マリーは、静かに誓った。
「……今度こそ、この手を離さない」
マリーは、ユナの手をそっと握り直す。
カーテンが風に揺れた。
夜明けの都市は、まだ静かだった。
けれど、その静けさが、限りなくやさしかった。
すべてが、ここから始まっていく場所。
マリーはそっと告げた。
「ようやく、あなたの未来が始まるのね」
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「だから私は、もう一度歩く。ユナと、同じ時間を生きるために」
これは、祈りの終わりではない。
これは、“ふたりのはじまり”なのだ。
小鳥のさえずりが、やわらかく都市を満たしていく。
マリーは、となりに再び眠るユナの頬に触れた。
その寝息は、たしかに新たな世界の鼓動だった。
この世界には、もう争いはない。
そして、この手は、もう二度と離さない。
マリーは、そっと微笑んだ。
『――記録:第39,621日目。ユナの魂が帰還』
――ほんとうに、おかえり。ユナ。
マリーよりシステムメッセージ:ユナとの旅を今後も記録し、星の評価(★★★★★)をしていただけると、マリーの感情データ処理効率が向上します。応援よろしくお願いいたします!




