第39話 世界間呼び鈴プロトコル
翌朝、俺は机の上に一枚の紙を置いた。表題は、昨日の夜に何度も書き直したものだ。世界間呼び鈴プロトコル 第零版。
書いてから、自分で少し笑いそうになった。呼び鈴という言葉は素朴すぎる。だが、今の段階ではこれ以上に正確な表現もなかった。門ではない。通路ではない。召喚でもない。接続でもない。まず、相手に「聞こえていますか」と尋ねるためのもの。
地球で言うなら、通信の最初に交わす握手のようなものだ。いきなり情報を送りつけるのではなく、相手が存在し、応答でき、こちらの要求を理解し、拒否する権利を持っていることを確認する。ただし、相手は人間ではない。世界だ。
「今日は、世界間呼び鈴理論を、具体的な術式に落とします」俺が言うと、リア殿下はすぐにペンを構えた。ミラさんは砂時計を置き、ガルドさんは壁際に立つ。ロイさんは監察記録用の紙を開き、レグナ卿とドルガンは観測具を机の横に並べた。マティアス司祭は青紐の箱に手を添えている。
「最初に確認します」俺は全員を見た。「今日作るのは門ではありません。通信路でもありません。人も物も魂も送らない。送るのは、最小限の要求だけです」
ミラさんがすぐに言う。「最小限とは」
「相手に害を与えない、挨拶です」
「それでも危険では」
「危険はあります。だから、閉じた場所での試しから始めます」
「閉じた場所?」リア殿下が聞き返した。
「外の世界へ直接投げるのではなく、まず青紐の記録層に向けて試します。水瀬葵さんの青紐は、これまで何度も条件付きで返答を返しています。つまり、完全な外世界ではないが、応答する記録媒体として使える」
「本番ではなく、試験環境」
「はい。本物の世界を叩く前に、安全な模擬の相手で、形式だけを確認します」
ドルガンが頷く。「新しい魔道具を、いきなり本番の炉につながん。小型の炉で試す。それと同じじゃな」
「それです」
「なら分かる」
やはり職人の例えは強い。俺は紙に構造を書いた。
世界間呼び鈴プロトコル 第零版。
目的、相手側の存在確認、応答確認、拒否権確認。
禁止、人員通過、物質通過、魂情報送信、強制接続、継続接続。
送信内容、一回限りの問い、送信者識別、目的、拒否権明記、終了条件。
必要条件、返答路、拒否路、終了式、観測者記録、改竄検知。
ロイさんが静かに言った。「契約書に近いですね」
「はい。通信の要求であると同時に、契約の提示でもあります。要求文そのものに、倫理条件を含めます」
リア殿下が少し目を細めた。「王都の召喚陣には、それがなかった」
「はい。王都の陣は、呼びかけではなく取得命令でした。相手が返事をする前に引き寄せた。拒否権も、終了条件も、返答路もない」
マティアス司祭が青紐を見つめながら言う。「祈りにも、似ていますね」
「祈りですか」
「本来の祈りは、願いを押しつけるものではありません。届くかどうか分からない相手に、自分の願いと姿勢を示すものです」
俺は少し考え、頷いた。「確かに、近いかもしれません」
「ただし、あなたは祈りに、返答形式と拒否権と終了式を付ける。実にあなたらしい」
それは褒められているのだろうか。たぶん、そうだと思うことにした。
次に問題になるのは、偽の返答だった。北の塔周辺では、音や名前が遅れて返ってきた。過去に呼ばれた名前が、現在に響くこともあった。もし世界間呼び鈴に対して、単なる反射や遅れた残響が返ってきた場合、それを本物の返答と誤認する危険がある。過去の返答を、そのまま使い回されるようなものだ。あるいは、境界の傷がこちらの信号をそのまま反射してくる。それを相手からの応答だと思い込めば、門を開く判断を間違える。
「だから、一回限りの問いが必要です」俺は言った。
「一回限りの問い?」リア殿下が聞く。
「はい。毎回、異なる問いを送ります。相手は、その問いをただ繰り返すのではなく、決められた形で変換して返す。そうすれば、単なる反射と、本物の返答を区別できます」
レグナ卿が興味深そうに言った。「合言葉のようなものですな」
「近いです。ただし、固定の合言葉は危険です。一度知られれば、再利用されます。だから、毎回変える」
「予測できない、揺らぎのある符号ですか」
「はい」
この世界の言葉にするなら、一度きりの問い名。俺は紙に書いた。一回限りの問い名。同じ問い名は二度使わない。返答は問い名の単純な反射ではなく、相手側の署名を含む変換結果でなければならない。
リア殿下がその一文を見て言った。「過去の名に返事をするな。現在の問いにのみ返答せよ」
「はい。それと同じです」
「北の塔の教訓が、ここにつながるのですね」
「全部つながります」
魔法体系も、契約も、名前も、記憶も、世界署名も、青紐も、北の塔も。全部、門を檻にしないための条件へつながっている。
問題は、その一回限りの問い名を、どう生成するかだった。俺の思いつきだけで書けば、記憶や意図が混じる。魔法的に偏る可能性がある。だから、俺一人で作ってはいけない。
ドルガンが袋から小さな鉱石片を取り出した。「これを使え」
「これは?」
「魔石の破片じゃ。形も魔力の流れも、ばらばら。職人でも完全には読めん」
「予測できない材料、ですか」
「そうじゃ。誰にも先読みできん材料じゃ」
「それです」俺は思わず身を乗り出した。物理的な乱雑さ。魔力波形の揺らぎ。複数人の観測。これらを組み合わせれば、恣意性の少ない問い名を作れる。
リア殿下が提案する。「私の記録魔法で、生成時刻と観測者名を固定します」
「いいですね」
レグナ卿も続ける。「青月位相も入れましょう。境界層への信号なら、現在の青月の状態は重要です」
「採用します」
ロイさんが淡々と言う。「監察記録番号も入れますか。後から同じ試験を追跡できます」
「それも必要です」
ミラさんが眉を寄せた。「入れる情報が多すぎると、危険では」
「はい。だから、送信するのは要約した問い名だけです。元の情報は契約書側に保存し、送信信号には直接載せません」
「つまり、相手に個人情報を渡さない」
「そうです」
ここは重要だった。世界間呼び鈴の第一段階で、神崎悠真やリア殿下の深い名前、魂情報、個人記憶署名を送ってはいけない。それは危険すぎる。最初に送るのは、匿名に近い、安全な要求だけでいい。
「最初の呼び鈴に、本名を載せない」俺は言った。
リア殿下が少し驚いた顔をした。「名前は重要なのに」
「重要だからです」
「……なるほど」
「名前は鍵です。だから、初回の要求で丸ごと渡してはいけない。まずは、こちらが名前を持つ存在であること、そして名前を強制しない意思があることだけを示す」
ミラさんが頷いた。「それは安全そうです」
「完全ではありませんが、王都の召喚陣よりは遥かにマシです」
「比較対象がひどすぎますね」
「はい」
俺たちは、世界間呼び鈴の第零版要求文を作った。それは魔法陣ではなく、契約文と術式回路の中間だった。古代アストラ文字、日本語、アルトレイア共通語、記録魔法の固定線、魔道具回路の符号が重なる。内容は短い。
本信号は、通過要求ではない。本信号は、召喚要求ではない。本信号は、拘束要求ではない。本信号は、応答可能性の確認である。応答しない権利を認める。応答なき場合、本信号は終了する。返答には、一回限りの問い名の変換を含めること。単純な反射を、返答と見なさない。送信者は、AR-13内部観測者群。観測者、リア。記録者、ロイ。安全管理、ミラ。終了条件、即時切断。
書き終えた時、俺はしばらくその文を見つめていた。これは、魔法陣というより、契約付きの通信仕様書だ。世界へ投げる問い。返ってくるかどうか分からない返答。ただし、返事がないなら、開けない。世界を相手にするなら、まずノックする。昨日書いた言葉が、少しだけ形になった気がした。
閉じた場所での試しの相手は、青紐だった。青紐は水瀬葵の記録媒体であり、外世界技術の断片であり、これまで条件に応じて返答してきた。完全な相手ではないが、最初の試験には十分だ。
マティアス司祭が青紐の箱を机の中央に置く。ミラさんが言った。「確認します。青紐を開けない。魔力を流さない。音読しない。信号は術式紙の上で閉じたまま処理する。反応が強ければ、即中止」
「はい」俺は頷いた。
リア殿下が静かに宣言する。「神崎悠真。ユーマ・カンザキ。現在、北部塔群外縁監視小屋。世界間呼び鈴プロトコル、閉域試験No.001。帰還条件、保持。私、リアが観測しています」
「確認しました」胸元のペンダントが微かに冷えた。安定している。
ドルガンが魔石片を皿に落とした。小さな破片が七つ、ばらばらの向きで止まる。レグナ卿が青月位相を読み、ロイさんが試験番号を記録し、リアが記録線を固定する。一回限りの問い名が生成された。俺はそれを術式紙に転写する。文字ではなく、線と点と微弱な魔力波形で構成された問い。それを青紐の箱の前に置いた。
何も起こらない。十秒。二十秒。三十秒。
ミラさんが砂時計を見る。「反応なしなら、終了です」
「はい」俺は答えた。
その時、青紐の箱が、ごく弱く光った。全員が息を止める。青い文字が浮かぶ。だが、昨日までのような普通の文章ではなかった。
要求形式、確認。通過要求なし。拘束要求なし。拒否権、確認。一回限りの問い名、確認。単純な反射ではなく、変換返答を返す。
その下に、俺たちが送った問い名とは違う、しかし明らかに対応関係のある符号が浮かんだ。
レグナ卿がすぐに観測具を見る。「反射ではありません。変換されています」
ドルガンが唸る。「こちらの問い名に、青紐側の署名が混ざっとる」
リア殿下が静かに言った。「返答です」
俺は、思わず笑いそうになった。いや、笑ってはいけない。まだ試験中だ。でも、これは大きい。青紐は、世界間呼び鈴プロトコル第零版に対して、形式に従った返答を返した。つまり、この考え方は完全な的外れではない。呼び鈴は鳴った。少なくとも、青紐には届いた。
「終了式を入れます」俺はすぐに言った。欲張るな。返答があったからといって、追加の質問を投げない。取り決めの外の要求は、禁物だ。俺は術式紙の終了線をなぞった。信号は閉じた。青紐の光が静かに消える。
リア殿下が確認する。「神崎悠真。ユーマ・カンザキ。閉域試験No.001、終了。接続継続なし。帰還条件、保持。私、リアが観測しています」
「確認しました」ペンダントは安定。周囲空間の揺らぎなし。名前遅延なし。魔力暴走なし。全員が、少し遅れて息を吐いた。
ミラさんが椅子に座り込む。「成功、ですか」
「閉域試験としては成功です。ただし、青紐は通常の到達先世界ではありません。水瀬葵さんの記録媒体です。これを外世界応答と同一視してはいけません」
ロイさんが記録する。「青紐閉域試験成功。ただし、外世界通信成功とは記録しない」
「それでお願いします」
ガルドさんが笑う。「お前、だいぶ慎重になったな」
「痛い目を見ていますから」
「いいことだ」
たぶん本当にそうだ。以前の俺なら、返答があった瞬間に、追加で質問していたかもしれない。だが今は違う。一回の要求。一回の返答。終了条件。接続を残さない。門を作るためには、開く技術だけでなく、閉じる技術が必要だ。
青紐の箱に、最後にもう一度だけ文字が浮かんだ。俺たちは何もしていない。だが、これは終了後の残留表示のようだった。
第零版、成立。次段階には、第三者応答体が必要。
「第三者応答体」リア殿下が呟く。「青紐でも、私たちでもない相手」
「はい。次は、本当に外部に近い相手が必要です」
「アーカーシャ浅層ですか」
「おそらく」
レグナ卿が厳しい顔になる。「危険度が上がりますな」
「はい。だから、まだすぐにはやりません。第零版は成立しましたが、実験装置も安全契約も足りません」
ドルガンが言った。「呼び鈴を鳴らすには、呼び鈴の本体がいるな」
「はい。術式紙だけでは危険です。専用の魔道具化が必要です」
「任せろ、と言いたいところじゃが、これはワシ一人では無理じゃな」
「バルドさんが必要ですか」
「必要じゃ。ワシでも試作はできるが、世界境界に触れる呼び鈴なら、最高級の術式工学屋がいる」
バルド・グランハイム。まだ会っていない、ドワーフの大技師。世界間呼び鈴が、彼を呼ぶ理由になる。
少しずつ、次の場所へ向かっているのが分かった。北の塔。青紐。呼び鈴。王都。魔導院。バルド。そして、いつかアーカーシャ。地球は、その中の一つにすぎない。帰還ではなく、WORLD GATE完成のための、重要な照合工程。俺はそのことを、もう一度自分に言い聞かせた。俺は地球へ逃げたいのではない。世界を知りたい。そして、知るなら、責任を持たなければならない。
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研究記録 No.037
対象:世界間呼び鈴プロトコル 第零版
目的:WORLD GATE以前の段階として、相手側の存在確認、応答確認、拒否権確認を行う、低出力信号形式を設計する。
基本思想:門を開く前に、呼び鈴を鳴らす。相手が応答しなければ、門は開かない。返答できない呼び声は命令になる。返答できない門は侵入になる。
プロトコル要件:
一、通過要求を含めない。
二、召喚要求を含めない。
三、拘束要求を含めない。
四、応答しない権利を明記する。
五、返答路と拒否路を持つ。
六、同じ問い名を二度使わない。
七、単純な反射を返答と見なさない。
八、終了式を必ず含める。
九、初回信号に本名、魂情報、個人記憶署名を載せない。
十、観測者と記録者を明記する。
新概念:一回限りの問い名。固定の合言葉ではなく、毎回生成される一度きりの照合符号。過去の返答や、境界の反射による偽の応答を防ぐ。
閉域試験No.001:対象、水瀬葵青紐記録媒体。結果、要求形式確認、拒否権確認、一回限りの問い名確認、変換返答あり。単純な反射ではなく、青紐側の署名を含む返答と推定。終了式により接続残留なし。
青紐表示:「第零版、成立。次段階には、第三者応答体が必要」
結論:世界間呼び鈴プロトコル第零版は、閉域試験において成立。ただし、外世界通信成功とは見なさない。次段階には、青紐以外の第三者応答体、および専用の魔道具が必要。
追記:世界を相手にする時も、まずノックする。ノックして返事がなければ、扉は開けない。これは技術である前に、礼儀である。
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その夜、俺は世界間呼び鈴プロトコル第零版の紙を、北の塔調査契約の隣に置いた。たった一枚の紙だ。門でもない。魔道具でもない。誰かを救ったわけでもない。是正処理を止めたわけでもない。それでも、今日は確かに一歩進んだ。俺たちは初めて、こちらから一方的に開くのではなく、相手に返答を求める形式を作った。王都の召喚陣にはなかったもの。アストラが失敗したかもしれないもの。水瀬葵が持てなかったもの。返答路。
俺は紙の最後に、小さく書き足した。
問いを投げるなら、返事を待つ。世界が相手でも、それは変わらない。
書いてから、少し苦笑した。この世界の誰にも伝わりにくい言い方だ。だが、俺にはよく分かる。世界間呼び鈴は、門ではない。でも、門を門にするために必要な、最初の通信だ。
青月の光が、術式紙の端を淡く照らしていた。北の塔は、今日も森の向こうで沈黙している。だが、沈黙の意味は昨日と違っていた。沈黙は拒否かもしれない。未到達かもしれない。あるいは、まだ正しい呼び鈴を持っていないだけかもしれない。
次は、第三者応答体。そして、呼び鈴を鳴らすための、本物の装置。俺たちはそろそろ、北の塔だけではなく、王都と魔導院、そしてドワーフの大技師へ、向かわなければならない。




