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第38話 記憶は、証拠にならない

 翌朝、監視小屋の机の上には、昨日の実験記録がそのまま残っていた。地球、日本、東京、水瀬葵、神崎悠真、多元宇宙接続理論、母。どれも紙に書かれたただの文字のはずなのに、今の俺には危険物のように見える。特に「母」と書かれた紙は、裏返したままだった。あの一文字は、強すぎた。昨日、あれを書いた瞬間、俺の存在輪郭は一瞬だけこちら側から離れ、記憶の中の地球へ引かれた。リア殿下が名前を呼んでくれなければ、もう少し危なかったかもしれない。


「今日は、個人記憶署名の続きですか」リア殿下が向かいの席で言った。


 俺は頷きかけて、少しだけ止まった。「続きではあります。ただし、昨日とは方向を変えます」


「方向を?」


「はい。昨日は、記憶が世界署名の補助になるかを調べました。今日は、その記憶が証拠として使えるかを考えます」


 その言葉に、ロイさんが視線を上げた。昨日から彼はずっと監察記録を整理している。王都へ報告する時、何をどこまで出すべきか。そのための準備だ。


「それは、私からも指摘するつもりでした」


「やはりですか」


「はい」ロイさんは淡々と紙を一枚差し出した。そこには、俺が昨日述べた世界署名候補と個人記憶署名の一覧が写されていた。文字は几帳面で、感情が入っていない。だからこそ、内容の弱点がよく見える。


「神崎悠真さん」


「はい」


「あなたの記憶は、非常に重要な情報源です」


「はい」


「ですが、公的な証拠にはなりません」


 その一言で、部屋の空気が引き締まった。ミラさんは黙って聞いている。ガルドさんは腕を組み、リアはペンを止めた。


「理由を確認させてください」俺が言うと、ロイさんは頷いた。


「第一に、記憶は本人の内側にしかありません。第二に、この世界には記憶魔法、情報魔法、認識阻害、魂干渉が存在します。第三に、あなた自身が通常の転生者ではない可能性があります。第四に、水瀬葵さんの記録も、完全な外部照合を経ていません」


「つまり」


「あなたが地球を覚えていることと、地球が実在することは、別です」


 分かっていた。分かっていたはずなのに、言葉にされると重い。俺の記憶の中には地球がある。東京がある。大学がある。研究室がある。母がいる。だが、それは俺の記憶だ。証拠ではない。少なくとも、他者にとっては。


 マティアス司祭が静かに言った。「それは、信仰に似ていますね」


「信仰ですか」


「本人にとっては確かである。しかし、それを他者へ証明するには、別の形式が必要になる」


 ロイさんは頷いた。「近いと思います」


 俺は紙に書いた。記憶は情報源である。しかし、単独では証拠ではない。


 リア殿下がその文字を見て、少しだけ苦しそうな顔をした。「では、ユーマさんの帰りたい世界は、証明できないのですか」


「今は、できません」俺は正直に答えた。「ただし、照合はできます。俺の記憶、水瀬葵さんの記録、青紐の反応、ペンダントの反応、世界署名候補、アーカーシャ断片、転移管理局端末の情報。複数の情報源を重ねれば、証拠性を上げられます」


「一つでは足りない」


「はい。一つの記憶に頼ると危険です」


「水瀬葵さんは、一人だった」


「はい」


 そこに戻る。水瀬葵は、一人では通れなかった。名前を呼ぶ人も、記録する人も、観測者も持たなかった。お母さんに会いたかったという強い記憶はあった。だが、それだけでは帰れなかった。感情は方向を示す。だが、証明にはならない。


 ガルドさんが低く言った。「でもよ、ユーマが覚えてるなら、それで十分じゃねえのか」


「本人にとっては、かなり十分です」


「じゃあ何が問題なんだ」


「門を開ける時、世界は俺の主観だけでは動いてくれない可能性が高いです」


「世界は厳しいな」


「はい。おそらく、かなり厳密です」


 俺はペンを置き、少し考えてから続けた。「特にWORLD GATEは、主観で開くべきではありません。俺が『ここが地球だ』と思い込めば開く、という構造なら、危険すぎます」


 ミラさんが頷く。「それは王都の召喚陣と同じですね」


「はい。王都の陣は『勇者が必要だ』という召喚側の主観で、人を呼びました。本人の同意も、名前も、帰還条件もありませんでした。俺が『帰りたい』という主観だけで門を開けば、逆向きの同じ過ちになります」


 リア殿下が小さく言った。「召喚する側の都合と、帰りたい側の都合。向きは違っても、片側だけの願いなら、同じ」


「そうです」


 この認識は重要だった。俺は王都の召喚を批判してきた。同意なき召喚は門ではなく檻だと。だが、俺自身が帰還のために主観だけで門を開けば、それも危険だ。世界の向こう側には、俺を待っている世界があるかもしれない。だが、俺が勝手に開いた門は、その世界にとって汚染になるかもしれない。地球に帰ることですら、同意と照合が必要になる。ましてや、他世界へ行くならなおさらだ。


 俺は新しい表題を書いた。世界署名証拠階層。第一階層、本人記憶。第二階層、他者記録。第三階層、物理・魔法反応。第四階層、外部端末照合。第五階層、アーカーシャ記録照合。第六階層、到達先からの返答。第七階層、双方向接続確認。


「到達先からの返答」リア殿下がそこを見た。「これが最も重要かもしれません」


「はい。門は、こちらが開くだけでは不十分です。向こう側が応答する必要があります」


 ガルドさんが眉を寄せる。「向こうが返事しねえと駄目なのか」


「はい。少なくとも、正式な門にするなら」


「誰が返事するんだ」


「それが問題です。地球なら、誰が応答できるのか分からない。魔力層が薄い世界なら、こちらの世界間通信を受信できる機構もないかもしれません」


「じゃあ無理じゃねえか」


「だから、最初の到達先は地球ではない方がいい」俺ははっきり言った。


 リア殿下が俺を見る。「昨日まで、地球署名を探していたのに」


「地球は重要です。でも、最初に行くべき世界とは限りません」


 ミラさんが少し驚いた顔をした。「帰りたいのではないのですか」


 俺は答える前に、自分の中を確認した。帰りたい気持ちはある。母という一文字で、痛いほど分かった。だが、それだけではない。俺の最初の衝動は、帰還ではなかった。知りたい、だった。世界の外側を見たい。魔法が何かを知りたい。世界がどう繋がっているのか知りたい。


「帰りたい気持ちはあります」俺は言った。「でも、地球に帰るためだけにWORLD GATEを作るわけではありません」


 リア殿下の目が静かに揺れた。「では、何のために」


「世界を、閉じた箱にしないためです」


 部屋が静かになった。俺は続けた。「地球も、アルトレイアも、無数の世界の一つです。俺が地球へ帰ることは、WORLD GATEの一用途にすぎない。今必要なのは、どの世界へも安全に接続できる原理です。だから最初に必要なのは、帰還門ではなく、返答を得られる門です」


「返答を得られる門」


「はい。こちらが一方的に穴を開けるのではなく、向こう側からも『接続を認識した』と返ってくる構造です」


 レグナ卿が深く頷いた。「世界間通信ですな」


「はい。人を送る前に、記録を送る。記録を送る前に、信号を送る。信号を送る前に、到達先が返答可能か確認する」


 ドルガンが机を指で叩いた。「つまり、いきなり門を作らん。まず呼び鈴を作る」


「そうです」


「呼び鈴に返事があったら、扉を作る」


「はい」


「返事がなければ、勝手に壁をぶち抜かん」


「まさにそれです」


 ガルドさんが笑った。「やっと分かりやすくなったな」


 俺も少し笑った。「呼び鈴理論ですね」


「その名前でいいのか?」


「仮です」


 リア殿下がすぐに書き留めた。「世界間呼び鈴理論、仮称」


「本当に書くんですか」


「重要です」


「なら仕方ありません」


 ミラさんも少し笑ったが、すぐに表情を戻した。「つまり、次の研究目標は世界間通信ですか」


「はい。ただし、人や物を送る段階ではありません。まずは、世界署名を指定しない低出力の信号。可能ならアーカーシャ浅層、または青紐の記録層に向けて、返答確認を行います」


 ロイさんが記録しながら言う。「王都への報告では、そこが重要になりますね。あなたは今すぐ地球へ帰る門を開こうとしているのではなく、是正処理への異議申し立てに必要な通信経路を作ろうとしている」


「その表現は助かります」


「危険性はありますが、政治的には後者の方が通りやすい。帰還門と言えば、王国はあなたの個人的目的と見なすでしょう。世界間通信と言えば、危機対応技術になります」


 ミラさんが頷いた。「冒険者ギルドとしても、是正処理への対応という名目なら、協力しやすいです」


 マティアス司祭が青紐を見た。「聖教国も、水瀬葵の記録の検証という形なら、完全には無視できません」


 リア殿下が静かに言った。「では、言葉を選ぶ必要がありますね」


「はい」俺は紙に書いた。帰還門ではない。世界間通信の初期実験。目的は、是正処理に関する上位情報照会。人員通過は行わない。同意なき接続を禁じる。到達先からの返答がない場合、接続を中止する。


 この数行を書いた時、青紐の箱が微かに光った。全員が身構える。箱の表面に、短い文字が浮かんだ。返答路。最低要件に追加。


 俺は息を止めた。リア殿下がすぐに言った。「神崎悠真。ユーマ・カンザキ。現在、北部塔群外縁監視小屋。青紐反応確認。帰還条件、保持。私、リアが観測しています」


「確認しました」ペンダントは安定している。青紐の文字は、数秒で消えた。


 ロイさんが記録する。「水瀬葵青紐、世界間通信方針に反応。返答路を最低要件に追加」


 ミラさんが眉を寄せる。「最低要件が増えましたね」


「はい」


「喜んでいいのか、困っていいのか分かりません」


「両方です」


 返答路。これは非常に重要だ。俺たちは、召喚陣の問題を「帰還路がない」と考えていた。だが、それだけでは不十分だった。呼ぶ側と呼ばれる側、開く側と開かれる側、こちらと向こう。その間には、返答するための経路が必要だ。返答できない呼び声は、命令になる。返答できない門は、侵入になる。


 俺は紙に新しい行を書いた。門とは、通路ではない。双方向の応答契約である。


 その瞬間、リア殿下が小さく息を吸った。「それが、王都の陣に欠けていたもの」


「はい」


「水瀬葵さんに欠けていたもの」


「はい」


「そして、私たちがこれから作るもの」


「はい」


 ガルドさんが腕を組み直した。「なら、次は呼び鈴作りか」


「はい。世界間呼び鈴です」


「名前は締まらねえが、やることは大事そうだな」


「そのうち正式名称を考えます」


「俺は呼び鈴でいいと思うぞ。分かりやすい」


 ドルガンも頷いた。「職人としては嫌いではない。扉には呼び鈴が要る。勝手に入るな、という話じゃ」


「……確かに」意外と良いかもしれない。世界間呼び鈴。正式名称は後で決めるとして、思想としては正しい。俺たちは門を作る前に、呼び鈴を作る。相手が返事をしなければ、扉は開けない。これは技術であり、礼儀であり、契約だ。


---

 研究記録 No.036


 対象:記憶の証拠性と、世界間の返答路


 観察結果:個人記憶署名は、到達先世界署名を補助する強力な情報源である。しかし、記憶は本人の内側に存在する情報であり、単独では公的証拠にならない。この世界には記憶魔法、情報魔法、認識阻害、魂干渉が存在するため、記憶の真偽は外部照合を必要とする。


 整理:記憶は情報源である。しかし、単独では証拠ではない。


 世界署名証拠階層:第一階層、本人記憶。第二階層、他者記録。第三階層、物理・魔法反応。第四階層、外部端末照合。第五階層、アーカーシャ記録照合。第六階層、到達先からの返答。第七階層、双方向接続確認。


 重要仮説:WORLD GATEに必要なのは、到達先を一方的に指定することではない。到達先からの返答路が必要。返答できない呼び声は、命令になる。返答できない門は、侵入になる。


 水瀬葵青紐反応:「返答路。最低要件に追加」


 新概念:世界間呼び鈴理論。人、物、魂を送る前に、低出力の世界間信号を送り、到達先が接続を認識し、返答可能かを確認する。返答がなければ、門は開かない。


 結論:地球帰還はWORLD GATEの一用途にすぎない。最初に作るべきものは帰還門ではなく、返答路を持つ世界間通信である。


 追記:門とは、通路ではない。双方向の応答契約である。

---


 その夜、俺は「母」と書かれた紙をもう一度見た。今度は、裏返さなかった。怖さはまだある。帰りたいという感情もある。だが、その感情をすぐに門へ変えてはいけないことも、分かった。


 記憶は証拠にならない。けれど、記憶は嘘だと決まったわけでもない。記憶は、照合を待つ情報だ。俺の中にある地球も、水瀬葵の中にあった地球も、まだ証明されていない。だが、消えてはいない。青紐は反応した。ペンダントも反応した。なら、そこには何かがある。


 ただし、最初に開くべき門は、地球ではない。最初に作るべきものは、呼び鈴だ。向こう側に尋ねる。聞こえていますか。接続してもいいですか。返事がなければ、開けない。当たり前のことだ。だが、王都の召喚陣には、その当たり前がなかった。


 俺は研究記録の最後に、一文を書いた。


 世界を相手にする時も、まずはノックする。


 青月の光が、その文字を静かに照らしていた。

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