第23話 同意欄のない召喚陣
翌朝、俺は契約記録 No.001 をもう一度読み返していた。
ペン貸与契約。貸与者。借受者。対象。目的。条件。返却。解除。自由意思。中止権。たった一本のペンを借りるためだけの記録だ。だが、その小さな契約は、勇者召喚陣よりもずっとまともに見えた。なぜなら、そこには俺とリア殿下の意思があったからだ。俺は借りることに同意した。リア殿下は貸すことに同意した。返却条件があり、解除条件があった。途中でやめる権利もあった。
一方、勇者召喚陣はどうか。名前を呼ぶ。魂を引き込む。肉体を構築する。世界へ固定する。帰還経路を閉じる。だが、そこに本人の意思はあるのか。召喚される者が、行くことに同意した記録はあるのか。帰れなくなることを理解した記録はあるのか。
疑問は、朝食の前から頭を離れなかった。しかし、学習した俺は、食事を抜かなかった。ギルドの食堂で豆のスープを飲み、硬いパンを食べ、腸詰めを半分噛んだところで、ミラさんに言われた。
「ユーマさん」
「はい」
「顔が、食事をしている顔ではありません」
「食事はしています」
「口は動いています。でも頭は別のところにあります」
「勇者召喚陣の同意欄について考えていました」
「朝食中に考える内容ではありません」
「重要です」
「それは分かりますが、まず飲み込んでください」
俺は素直に飲み込んだ。最近、ミラさんの指摘はかなり正確だ。食事と研究を完全に分離するのは難しいが、研究継続のためには食事も必要。これは何度も確認済みの事実である。
向かいの席では、リア殿下もスープを飲んでいた。彼女は俺の言葉を聞いて、すぐに反応した。
「同意欄」
「はい」
「私も気になっていました」
セシルさんが即座に言う。
「リア様、食事中です」
「飲み込んでから話します」
「そうしてください」
リア殿下は静かにスープを飲み込んだ。そして、何事もなかったように続けた。
「勇者召喚陣を契約構造として見るなら、最も重要なのは本人の意思確認です」
「はい」
「ですが、私が見た召喚陣写しには、召喚対象本人の同意を示す古式刻印は見当たりませんでした」
「やはり」
「ただし、代理承認に近い記号はありました」
手が止まった。
「代理承認」
嫌な言葉だった。朝食の空気に似合わない。だが、無視できない。
「それは、誰が誰を代理しているのですか」
俺が尋ねると、リア殿下は少し考え込んだ。
「まだ断定できません。ただ、王印、聖印、召喚陣管理者印に相当する構造がありました」
「召喚される本人ではなく、召喚する側が承認している?」
「可能性があります」
胸の奥が冷えた。代理承認。本人の意思を確認せず、召喚する側が承認する。それが事実なら、契約ではない。少なくとも、俺の考える契約ではない。
「会議室で確認しましょう」
俺が言うと、ミラさんは少し驚いた顔をした。
「今、食堂で始めませんでしたね」
「食後なので」
「まだ食べ終わっていません」
「あ」
「最後まで食べてからです」
「はい」
成長はしているが、まだ完全ではないらしい。
食後、ギルド二階の会議室にいつもの面々が集まった。リア殿下。セシルさん。レグナ卿。ロイさん。ミラさん。ガルドさん。マティアス司祭。ドルガン。ニールは今日は訓練があるため不参加だ。
机の中央には、勇者召喚陣の写し。その横には、昨日のペン貸与契約。さらに、ギルド登録時に使った仮登録記録の写しが置かれていた。ミラさんが用意してくれたものだ。
「比較対象として必要かと思いまして」
「ありがとうございます」
「ただし、ギルド登録情報の機密部分は隠しています」
「はい」
俺は三つの紙を並べて見た。一つ目。ペン貸与契約。小さく、明確で、解除可能な契約。二つ目。ギルド仮登録記録。名前、出身不明、職能、保証人、血液認証、登録者本人の確認。三つ目。勇者召喚陣。巨大で、複雑で、美しく、そして不気味な術式。
レグナ卿が口を開いた。
「今日は、召喚陣を契約構造として再検証します」
ロイさんが記録を始める。
「議題。勇者召喚陣における本人同意欄の有無」
「言葉だけでかなり問題ですね」
ミラさんが小さく言った。
「はい」
俺は頷いた。
「かなり問題です」
まず、ペン貸与契約を確認した。双方の名前。対象。目的。条件。解除。自由意思。中止権。
次に、ギルド仮登録記録。こちらにも本人確認がある。登録者が自分の名前を申告し、血液認証を行い、仮登録規約を確認する。文字を読めない俺には、ミラさんが説明した。つまり、完全ではないにせよ、本人に説明し、同意を得る構造がある。
「ギルド登録の方が、勇者召喚よりまともな契約です」
俺が言うと、ミラさんは複雑そうな顔をした。
「喜んでいいのか分かりません」
「褒めています」
「ありがとうございます。でも比較対象が重すぎます」
次に、勇者召喚陣。リア殿下が古式刻印の部分を指差した。
「ここが魂固定」
「はい」
「こちらが肉体安定」
「はい」
「ここが情報同期」
「世界署名の調整ですね」
「おそらく」
彼女の指が、外周に移動する。
「問題はここです」
外周には、王家の紋章、聖教国の聖印、魔導院の補修刻印が重なるように配置されていた。その下に、古代アストラ式の補助記号がある。
「これは、承認に近い意味を持ちます」
「誰の承認ですか」
「王国」
リア殿下は一つ目の印を指す。
「聖教国」
二つ目。
「魔導院」
三つ目。
「そして、おそらく神託」
最後に、最も古い線を指した。会議室が静かになった。
俺は紙を見つめる。承認欄はある。ただし、全部こちら側だ。召喚する側。呼ぶ側。使う側。召喚される本人の承認欄がない。
「本人はどこですか」
俺は尋ねた。リア殿下は黙った。レグナ卿も答えなかった。マティアス司祭は目を伏せる。ロイさんのペンだけが動いている。答えは明らかだった。
ない。
「召喚対象本人の同意欄がありません」
俺は言った。言葉にした瞬間、部屋の空気が重くなった。分かっていたことだ。だが、はっきり言葉にすると重さが変わる。
「ユーマ」
ガルドさんが低い声で言う。
「つまり、呼ぶ側だけで話を済ませてるってことか」
「はい」
「呼ばれるやつ抜きで」
「はい」
「そりゃ駄目だろ」
「駄目です」
ガルドさんの言葉は単純だった。だが、正しい。ペンを借りるのにも、貸す側と借りる側が必要だった。それなのに、世界を越えて人を呼ぶ術式には、呼ばれる側の同意がない。おかしい。明らかにおかしい。
レグナ卿が重く言った。
「伝統的には、神託が本人の選定と同意を兼ねると解釈されていました」
「神が選んだのだから、本人も受け入れるはずだと?」
「そうです」
「本人に聞いていない」
「……はい」
レグナ卿は否定しなかった。マティアス司祭が静かに口を開く。
「聖教国では、勇者は神に選ばれた魂とされます。選ばれた魂は、使命を受け入れるものだと」
「アオイ・ミナセは帰りたかった」
俺の声は、思ったより冷たかった。マティアス司祭は、痛みをこらえるように頷いた。
「はい」
「なら、その解釈は少なくとも完全ではありません」
「認めます」
司祭ははっきり言った。その返答に、少しだけ驚いた。昨日までなら、もっと慎重な言い方をしただろう。だが、青の道標を読んだ後の彼は違う。聖女アオイを、聖女である前に人間として見始めている。
「ただ」
マティアス司祭は続けた。
「神託そのものを否定することは、聖教国にとって非常に大きな問題になります」
「否定しなくてもいいです」
俺は言った。司祭が顔を上げる。
「神託があったとしても、本人の同意が必要だと言えばいい」
リア殿下が静かに頷いた。
「神託と同意は、別の欄にすべきです」
「はい」
「神が選ぶことと、本人が受け入れることは同じではありません」
「その通りです」
マティアス司祭はしばらく黙った。それから、ゆっくり息を吐いた。
「それは、聖教国の教義に対するかなり大きな修正です」
「必要では?」
俺が尋ねると、司祭は苦く笑った。
「必要かもしれません。だからこそ、大きいのです」
ロイさんが淡々と記録する。
「聖教国司祭マティアス、神託と本人同意を分離する必要性を一部認める。宗教的影響大」
「ロイ殿、そこは少し表現を柔らかく」
「事実です」
「そうですが」
マティアス司祭は疲れたように目を閉じた。
俺は召喚陣を見続けた。本人の同意欄がない。それだけではない。もう一つ、気になる点がある。
「リア殿下」
「はい」
「召喚対象の名前は、どこで確定していますか」
リア殿下の目が動いた。
「……中心部です」
「魂を引き込んだ後?」
「はい。召喚対象の魂情報を読み取り、名前または識別情報を後から固定する構造に見えます」
「つまり、呼ぶ前には名前がない」
「はい」
「呼んだ後に名前を取得している」
「そうです」
俺は紙に書いた。名前がない。同意がない。呼んでから識別する。これは契約ではない。捕獲に近い。いや、もっと正確に言うなら。
「釣り針ですね」
俺が呟くと、全員がこちらを見た。ミラさんが嫌そうな顔をする。
「ユーマさん、また不穏な比喩ですね」
「すみません。でも近いです」
「説明してください」
「契約なら、相手の名前を知り、意思を確認し、条件を提示して、双方が同意します」
「はい」
「でもこの召喚陣は違う。まず異界へ針を投げる。引っかかった魂を引き寄せる。こちらへ来てから名前を読み取る。そして固定する」
部屋が静まり返った。ガルドさんが低く言った。
「本当に釣りじゃねえか」
「はい」
「魚扱いかよ」
「人間相手にやることではありません」
レグナ卿の顔色が悪い。自分の所属する魔導院の術式を、釣り針と言われたのだ。不愉快だろう。だが、彼は否定しなかった。
「……技術的には、否定しきれません」
「レグナ卿」
マティアス司祭が苦い顔をする。
「感情的には認めたくありません。しかし、構造を見る限り、ユーマの表現は近い」
レグナ卿は召喚陣を指差す。
「召喚対象を事前に特定していない。神託による対象選定とされているが、術式上は異界魂への探索、引き込み、同期、固定という流れです」
「本人の意思確認は?」
「術式上、確認できません」
沈黙。それが、今日の結論の一つだった。勇者召喚陣には、本人の同意欄がない。そして、召喚対象の名前も事前にはない。呼んでから読む。捕まえてから記録する。それは、契約ではない。
「これでは、水瀬葵さんが帰りたかったのも当然です」
リア殿下が静かに言った。
「彼女は契約したのではなく、呼ばれた」
「はい」
「そして、帰れないように固定された」
「はい」
リア殿下の声はいつも通り静かだった。だが、わずかに硬い。怒っている。多分。リア殿下は大きく感情を出さない。しかし、記録を歪められたり、誰かの言葉を消されたりすることには、明確に反応する。今もそうだ。
勇者召喚陣は、人を役割として呼んだ。勇者。聖女。救世主。だが、名前は後から読んだ。人間としての意思は確認していない。リア殿下にとって、それは許しがたいのだろう。
「修正案を作りましょう」
彼女は言った。全員が少し驚いた。
「修正案?」
レグナ卿が聞き返す。
「はい。勇者召喚陣をすぐに使うべきではありません。ですが、問題点を指摘するだけでは足りません」
「殿下、まさか召喚陣を改造するつもりですか」
「今すぐではありません」
「今すぐでなければいいという問題でもありません」
「ですが、同意欄のない召喚陣が危険であることを示すには、最低限の修正原理が必要です」
俺は頷いた。
「同感です」
ミラさんが小さくうめいた。
「また二人が同時に危険な方向へ……」
「今回は危険な実験ではありません」
「本当に?」
「理論上の修正案です」
「紙の上だけですね?」
「はい」
少なくとも今日は。
俺は召喚陣の横に、新しい紙を置いた。題名を書く。勇者召喚陣に対する契約構造上の修正案。かなり長い。だが、正確さが重要だ。
「まず、召喚対象本人の同意欄」
俺は書く。
一、召喚対象本人の名前。
二、出自。
三、召喚目的。
四、召喚後の権利。
五、拒否権。
六、帰還権。
七、解除条件。
八、観測者。
九、記録保管先。
「召喚前に名前が分からない場合はどうしますか」
ロイさんが尋ねる。
「その時点で、本来は召喚すべきではありません」
俺は答えた。
「相手の名前も意思も分からないまま呼ぶのは危険です」
「緊急時でも?」
「緊急時でも、危険性は消えません」
ガルドさんが頷いた。
「急いでるからって、知らねえやつを拉致していいわけじゃねえな」
「はい」
マティアス司祭が少し苦しそうに言った。
「しかし、魔王災害や大規模魔物災害の時、王国や聖教国には他に手段がなかった場合もあります」
「それは分かります」
俺は司祭を見る。
「だから、過去の全てを単純に断罪するつもりはありません」
司祭は少し目を見開いた。
「ですが、今後も同じことをしていい理由にはならない」
「……はい」
「過去に手段がなかったなら、今から別の手段を作るべきです」
それは、俺自身にも返ってくる言葉だった。勇者召喚陣が不完全だった。危険だった。人の意思を奪った。なら、怒って終わりでは足りない。別の構造を作る必要がある。世界門。契約。観測者。帰還条件。まだ遠いが、方向は見えている。
レグナ卿は修正案を見ながら言った。
「この案は、召喚陣というより招待状ですな」
「招待状」
俺はその言葉をメモした。
「確かに近いです」
「相手に条件を提示し、受け入れるか拒否するかを選ばせる」
「はい」
「ただし、異世界へ招待状を届ける方法が必要になる」
「そこが問題です」
召喚ではなく、招待。かなり重要な違いだ。召喚は呼び寄せる。招待は意思を問う。勇者召喚陣を修正するなら、まず召喚前の通信が必要になる。異世界との事前接続。意思確認。条件提示。拒否可能性。それがなければ契約にならない。
「青の道標は、招待状ではなく警告でした」
リア殿下が言った。
「はい」
「水瀬葵さんは、次の誰かに、王都の陣を信じるなと残した」
「それも一種の通信です」
「時間を越えた通信」
「記録による通信」
記録は門である。また、その言葉に戻ってくる。水瀬葵さんは、異世界へ直接招待状を送れなかった。だが、次に来るかもしれない誰かへ、記録を残した。それは不完全な通信だ。時間を越えるだけで、世界を越えたわけではない。だが、それでも届いた。俺に。第七勇者にも届いていたかもしれない。
ロイさんが静かに言った。
「この修正案を王都へ提出しますか」
部屋が止まった。俺は少し考えた。提出すれば、王都は反応する。魔導院、王家、聖教国。勇者召喚陣に本人同意欄がない。釣り針に近い。契約構造として不完全。そんな指摘を、王都が素直に受け入れるとは思えない。最悪の場合、俺とリア殿下は危険視される。いや、すでに危険視されているが、さらにだ。
「今すぐ全文提出は危険です」
俺は言った。ミラさんが少し安心した顔をする。
「ユーマさんが慎重です」
「俺も学習します」
「本当に成長しています」
レグナ卿も頷いた。
「私も同意です。まずは内部検討資料として整理しましょう。王都へは、召喚陣に契約構造上の疑義あり、追加調査必要、程度に留める」
「それが妥当です」
リア殿下も頷いた。
「修正案は、王城地下図書館の私の記録に保管します。写しをユーマさん、レグナ卿、ロイ監察官、ルーベルギルドで持つべきです」
「複数保管ですね」
「はい。消えないように」
水瀬葵さんの記録と同じだ。重要な記録は、一か所に置いてはいけない。一か所に置けば、誰かが消せる。複数に残せば、簡単には消えない。記録を守る回路が必要なのだ。
「マティアス司祭」
俺は彼を見る。
「はい」
「聖教国にも写しを持たせるべきでしょうか」
司祭は少し驚いたようだった。
「私に聞くのですか」
「はい。これは聖教国にも関わる問題です」
「聖教国に渡せば、握り潰される可能性もあります」
「そうですね」
「それでも?」
「渡さなければ、聖教国は外から攻撃されたと受け取るかもしれません。渡した上で、他にも写しを残す方がいいと思います」
マティアス司祭はしばらく黙った。そして、静かに頭を下げた。
「では、私が一部を預かります。ただし、これは私個人の管理記録として始めます。正式提出は時期を見ます」
「ありがとうございます」
「礼を言われる立場ではありません」
またその言い方だった。ロイさんと同じ。制度側にいる人間が、少しずつ制度の中に別の記録を作る。それもまた、回路なのかもしれない。
会議の最後、俺たちは修正案の表題を変えた。リア殿下の提案だった。
「勇者召喚陣への修正案、では直接的すぎます」
「では?」
「世界間接続における同意契約の基礎要件」
俺はしばらくその表題を見た。
「良いですね」
「はい」
「かなり論文らしいです」
「論文?」
「俺の世界の研究報告書のようなものです」
「それは興味があります」
「今度説明します」
「はい」
ミラさんとセシルさんが同時にこちらを見た。
「今度、短時間でお願いします」
「はい」
「時間を決めます」
「はい」
完全に管理されている。だが、必要だ。
---
研究記録 No.021
対象:勇者召喚陣の契約構造再検証
比較資料:
一、ペン貸与契約。
二、ルーベル冒険者ギルド仮登録記録。
三、勇者召喚陣写し。
観察結果:
ペン貸与契約には、貸与者、借受者、対象、目的、条件、解除、自由意思、中止権が明記されていた。ギルド仮登録記録にも、本人申告、血液認証、規約説明、登録意思確認が存在する。
一方、勇者召喚陣には召喚対象本人の同意欄が確認できない。
承認構造として確認できたもの:王国承認。聖教国承認。魔導院承認。神託または神意承認に近い古式構造。ただし、召喚対象本人の同意は確認できず。
召喚対象の名前も、召喚前ではなく魂引き込み後に読み取り、固定する構造に見える。
仮説:
勇者召喚陣は、契約ではなく、異界魂探索、引き込み、同期、固定、帰還経路閉鎖を行う一方向装置。比喩としては「招待状」ではなく「釣り針」に近い。
神託が存在したとしても、神託と本人同意は別欄にすべき。本人の同意なき召喚は、契約構造として不完全であり、倫理的には誘拐に近い。
修正原理:
召喚ではなく招待。呼ぶ前に、条件を提示する。本人が拒否できる。受け入れる場合も、帰還条件、撤回権、観測者、記録保管先を明示する。
結論:
世界間接続に必要なのは、一方的召喚陣ではなく、同意契約構造を持つ世界門である。
作成資料:
「世界間接続における同意契約の基礎要件」
保管予定:
ユーマ研究記録。リア殿下個人記録。王国魔導院内部資料。王都監察局控え。ルーベル冒険者ギルド封印記録。マティアス司祭個人管理記録。
追記:
ペンを借りる契約より雑な構造で、人を異世界から呼んではならない。
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その夜、俺は安宿の机で、勇者召喚陣の写しを見ていた。
美しい魔法陣だ。それは間違いない。円環は整い、魔力流路は複雑で、古式刻印と現代術式が重なっている。技術としては高度。歴史もある。多くの魔導士が修復し、維持し、信じてきたのだろう。
だが、同意欄がない。その一点で、俺には不完全に見える。いや、不完全という言葉では足りない。危うい。人を呼ぶ術式なのに、人の意思がない。世界を越える技術なのに、帰る道がない。神託がある。王の承認がある。聖教国の印がある。魔導院の補修がある。でも、本人の名前は後から読む。本人の同意はない。それは、門ではない。招待でもない。釣り針。
自分で書いた比喩を見て、少し嫌な気持ちになった。だが、的外れではない。
俺は紙の端に、新しい一文を書いた。
――相手の名前を知らず、意思も聞かずに開くものは、門ではない。
そして、その下に続ける。
――門は、呼ぶ側だけで完成してはならない。通る者の意思があって初めて門になる。
炭筆を置いた。首元のペンダントに触れる。青い石は静かだ。
俺はこの世界に来た。死後に転生した。だから、水瀬葵さんとは違う。でも、もし俺が生きたまま呼ばれていたら。もし、何も知らずにこの召喚陣で引き込まれ、帰れないと知ったら。俺はどうしただろう。たぶん、怒った。今よりも、もっと。
水瀬葵さんは帰りたかった。そして、青の道標を残した。第七勇者はそれを読んだかもしれない。なら、次は俺たちが残す番だ。一方的な召喚ではなく、同意ある接続。帰れない檻ではなく、帰る条件を持つ門。そのための最初の資料が、今日できた。
まだ紙の上だけだ。だが、記録は門である。紙の上にしかないものが、いつか誰かの道標になる。
俺は研究記録の最後に、短く書いた。
――同意なき門は、門ではない。
窓の外には青月。少しずつ欠けていく光が、紙の上の召喚陣を淡く照らしていた。




