序章
船頭だけを乗せた高瀬船を、見るともなく見ながら三条小橋を渡る。通りの左右に並んだ宿や茶屋などの前を通り過ぎ、河原町通りに出てすぐ右手の角を曲がる。そこからさらに二軒先に、あの人が美味しいと言って食べていた最中屋がある。
店の前まで行き、近藤さんから頂いたお金をもう一度確認した。「買い物ついでに何か好きな物でも食べてきなさい」、そう言って握らせてくれたお金を、あの人のために使おうとしている自分がいた。近藤さんの気遣いには感謝しかない。だから、それに対しては申し訳ないと思うけれど、今の私には、あの人の喜ぶ顔が見たい気持ちの方が勝ってしまっていた。
「すみません、最中二つ下さい」
言ってから、付け加えるように一つは持って帰る事を伝えると、店主は手を休める事なく「旦那に?」と嫌味のない笑顔を見せた。旦那と言う言葉に照れてしまい、適当に笑って誤魔化した。
運ばれてきた最中を一つ取り、この為に用意してきた綺麗な手拭いでそれを優しく包む。もう一つの最中は、もちろん美味しく頂いた。
あの人は、今日も朝早くから稽古に勤しんでいる。戻ったら、最中をこっそり部屋まで届けよう。もちろん、温かいお茶も忘れずに持っていくつもりだ。あの人の笑顔を想像するだけで、頬が勝手に緩んでしまう。
どんなに急いでもあの人はまだ稽古中なのだけれど、気持ちばかりが逸り、自然と早足になって行く。そればかりではないけれど、舗装のされていない道には未だに慣れず、つまずいて転びそうになった。飛び出そうとする身体を両足で踏ん張って留め、ほっとしたのも束の間、たまたま目の前にいた綺麗な女性と目が合うなり口元に手を添えてくすりと笑われてしまった。とは言え嫌味に感じないのは、その笑い方が上品だからだろう。綺麗な人は笑い方まで上品なのかと、こんな時は、苦笑いでその場から逃れる他ない。
始めこそ、江戸時代と現代とでは全てが違いすぎて、文字通り毎日が必死だった。便利に慣れすぎた現代の人間がこの時代で生きるという事は、今までの固定観念を全てなかった事しなければ、体も心もついていけない。それくらい、時間の流れのすごさを痛感した。それでも今では、ほとんど支障なく生活ができている。つまずくくらいはご愛嬌というものだ。
郷に入っては郷に従え、誰が考えたことわざなのか、同感と言うか、そうせざるを得ないと言うか。
遠くの山々を見渡せば、今年もまた、早咲きの桜があちらこちらで咲いている。
季節は確実に巡っている。
今日はまだ、暖かい——




