21 《千》
急発進するジープ。瓦礫の散乱する道路、特大のゆるキャラから逃げるように走り出す。
ホールからややあって、まばらに住宅の立ち並んだ道は入り組んでいる。海に沿った市内の東部、それもまた九年前の〝災禍〟の爪跡。何件もの住宅が浸水し、そして取り壊されたゆえのまばらな住宅街。
急なスピードにハンドルを切るたび、車体が傾ぐ。ルームミラーに映る弩級のルビー色のまん丸はさっぱり小さくならなくて、アクセルを踏めども踏めども逃げおおせる気がしてこない。
助手席にはワルツ。維持費と燃費の悪さがご自慢のワゴンバスは、文化ホールへの道すがら例のスーパー錆化ブレスの余波でやられちまったらしい。
とはいえ、この道楽息子にすれば然したる損害でもないらしくて。ちまちまこの軽自動車に手間ひまかけてきた、ブルーカラーなヤスの身にもなって欲しいものだ。
俺の超絶テクニックに、スペック的に劣るジープは、すでにあっちこっちがボコボコだ。今や、ピカピカに磨き上げられていたパールホワイトの外観にその面影はない。
人命の救助という大役に一役買ってくれた傷だらけのジープ。それが勲章のようなものであったとしても、俺は声高に言ってやりたい。車体の隅々まできれいにしてやってくれ――、と。
低賃金労働者のヤスにすれば、痛い出費にはなるだろうが。
狭い後部座席には繭ちゃん先生と二人の少女、柏木李子ちゃんと、――天羽棗ちゃん。
性格というかなんというか、折り目正しい自己紹介をした彼女。天の川の天に、羽、そして果物の棗。それが彼女の名前だそうだ。
細っこい線に、やけに強い目力。存在感抜群で分かりにくいが、どうやら李子ちゃんよりもほんのちょっとだけ背が低い。何もこんな時にと思いつつ、そんな彼女の毅然とした姿に胸を撫で下ろす。
そしたら、ワルツは彼女を知っていたらしい。他愛のない世間話まじりに、労わりの声なんて掛けている。そしてようやく俺も思い出す、天羽病院の――天羽。確かワルツの萬井と同じこの町の名士、天萬宮の三家がひとつ。
棗ちゃんの強い目力、知った顔をまたひとつ見つけたそこには、今は柔らかい色が灯っている。
オールバック風おでこ全開スタイルに、お団子頭。打った右の額に裂傷を負っても、瓦礫の下敷に合いつつ、奇跡的に他はかすり傷程度だったのは不幸中の幸い。額にあてがわれたハンカチに滲む血の赤、痛々しさは目に余るが、どうやら出血は収まったらしい。
彼女は今、繭ちゃん先生に膝枕してもらっている。
気休めにもならないだろうが、何度目かの右左折で束の間ゆるキャラのルビー色が住宅の影に隠れた。そこからは、とりあえず道なりを行って、広い道路を目指す。
張りつめていた緊張がわずかに弛緩すると、忘れていた疲労に持っていかれる。車内をそんな沈黙が包み始めた矢先、突如キャッチーでハッピーに過ぎる着信音が響いた。
もたつきながら取り出したスマホを耳元にあてがう李子ちゃん。
「あのね、うん、えっと、だいじょうぶ、その、おかあさんは? うん、その、あのね」
なんとも的を得ない調子に、助けの手を差し伸べたのは繭ちゃん先生。
「もしもし柏木さんのお母様ですか、私、担任の黛です。落ち着いて聞いてください。柏木さんは無事です。お母様は……えっ、ホールに向かう途中で交通規制がかかって車を降りた? まず走るのをやめて、落ち着いてください。柏木さんは車で現在北中を目指しています。北中で落ち合いましょう。無理そうでしたら『北中の緊急連絡システム』の方に連絡ください」
やけに完成度の高いゴスロリ衣装に、真摯な表情。俺は後部ミラーで一部始終を見ながら感心していた。
――なんだか繭ちゃん先生、立派な大人の人みたいだ。
司令としては鼻が高い、なんて思っていたら、繭ちゃん先生はやけにデコレーションが過ぎる自分のスマホを取り出した。
「こんなとき用に各中学では緊急連絡システムを用意してるってのは、毎回の避難訓練のときに説明してるから、柏木さんも天羽さんも知ってるよね。生徒やその家族の避難先や健康状態等々の速やかな情報の共有の為に」
教え子の頷きをなんとなく見ながら、スマホをいじる繭ちゃん先生。間もなくして小さくガッツポーズを決めた。
「っしゃ! 取りあえず私のクラスは全員の無事を確認したわ。じゃあ、こっちも連絡しなくちゃだね」
言いながら器用なフリック操作。
「黛で、無事を確認。天羽さんと、柏木さん、それに七草さんは、大丈夫です、っと」
「先生……」呟いたのは棗ちゃん。
棗ちゃんが継ぐ前に、繭ちゃん先生はくすりと笑った。
「先生が大丈夫、って言ってるんだから大丈夫なの」
李子ちゃんと棗ちゃんは小さく、だがはっきりと頷いた。
ウチの副司令は頼りになる――、自然と俺の口元は緩んだ。
と。
「みんな無事で良かったねー、仁知果ちゃんだよ♪」
インカム越しに声。
いい年をして仁知果ちゃんもないだろ――、なぜだかかすり傷ひとつ負っていないのに、この面子の中で一番痛々しい思いをする俺。これはきっとあれだ。当人が負った傷より、見ている側のが痛々しく感じる例のあれだ。
しかもコイツは計算高いタイプ。同情票も甘んじて、いやむしろ望んで受け入れるタイプのヤツだ。きっとそうに違いない。
だのに……。
「なぁにが仁知果ちゃんだよ」
解っていつつもしっかり突っ込んでやる、お人よしにも程がある俺。とはいえ、一難去ってのこのタイミングだ。まあしょうがないだろう。なんとはなしに自分を慰める。
その後で、どうやら同情票を甘んじて受け入れるのは自分も同じらしい、なんて思ったらなおさらひとり痛々しくなった。
呟きからの嘆息に、助手席のワルツが怪訝な視線をよこす。目配せでインカムの存在を知らせた。
真っ直ぐ伸びるだけとなった県道を見据えたままで、俺は口を開く。
「で、俺らが無事ってのは、なんで知ってんの仁知果ちゃん?」
後部座席の三人へと、ワルツが口元に人差し指を立てて見せる。
繭ちゃん先生がこくりと頷き、両隣の二人も倣うのをルームミラーで確認しながら、花無仁知果の言葉を待つ。
「くふふー、まあ種明かしはなんてことないんだけどー。感謝してよぉ、本来ならカグツチの実戦配備なんてまず不可能だったんだがらー。実直な鏑木の行動は読めてたけど、施設の管理コードはほとんどが真玄の支配下にあったからねー。それをアイツが泡食ってる間とはいえ、目を盗んでコードを解除したげたのよぉ、このアタシがー。じゃなかったらー真玄が伏せてる最新鋭のパワードスーツを、みすみす防衛相の監視役に使わせるなんて不可能だったんだからー。苦労したんだからねー、もっとアタシを褒め、讃え、敬ったっていいのよー。なんなら今日という日をなんらかの記念日として制定したっていーのよー」
「ああ、確かに記念日だろうさ、悪い意味でな。本土での戦時行為なんて大戦中ですらなかったろうに。まあお前がさっきの、カグツチのモニター越しに俺らの動向を監視下に置いてたってのは分かったよ。しかし覗き趣味もあったとはな」
「失礼しちゃうなー、アタシはただ人より興味の範疇が広いだけよ。それを趣味という言葉で片付けるなんて、この花無仁知果に対する冒涜だわー」
憂いを帯びた花無仁知果の声。わざとらしいまでに。
だから俺は、なおさら素直に感謝の言葉を告げられずに、「……で、杏ちゃんは?」先を促す。
思えば花無仁知果もヒナビた雛菱博士も、真玄とは別の展望を描いているらしいというだけで俺の味方かどうかは不明なままだ。助けてもらったとはいえ、素直に尻尾を振るわけにもいくまい……。
そんなことをぼんやりと、しかし気を引き締めて継がれる言葉を待っていると、
「がんばってるわよー、アプリちゃん。真玄の滅裂な指揮下でもどーにか凌いでる」
彼女はあっさりと言った。
「……は?」俺は唖然とした。
花無仁知果と雛菱博士の手札を真玄は知らされていなかった。土壇場で開示された切り札は真玄にとってサプライズなんかでなく、完全な不意打ちだった。そのやりとりはインカム越しに俺も理解できた。
しかし、それなら杏ちゃんの兵装を十分に活かせるノウハウもまた、真玄は知らないことになる。なのに、今この瞬間、杏ちゃんのフォローをしているのは彼女でも雛菱博士でもなく、真玄だと、全くの素人だと花無仁知果は言ってのけたのだ。
「お前何やってんだよっ‼」
我を忘れて俺は叫んでいた。
ハンドルが、ジープの車体がわずかにぶれる。
車内の視線が刺さるのを感じながらも、それを気に掛ける余裕もなく俺は叫ぶ。
「花無仁知果っ! お前が今すべきことはこんなことじゃないだろっ‼」
だが。
「こんなことよ」
静かに、しかし彼女は再びあっさりと言った。
「アタシが今すべきことはあなたに、センジュくんに話をすることよ……」
トーンだとか、テンポだとかを変えたに過ぎない。ただそれだけに過ぎないと理解してはいても、彼女の言葉には魂だとか心臓だとかを鷲掴みにする魔力があった。
まるで悪魔の囁き。その先を聞いてはいけない――直観的な何かが鳴らす警鐘にも、俺は微動だに出来ずにいた。
そして彼女は告げた。
「……真実という名の話を」
枯れた緑色の前髪から覗く真紅、それが怪しく輝くのが見えた気がした。
ごくりと唾を飲み込む音。それが自分の発したものだと気付いたのは数瞬間を置いてのこと。同時に、もはや逃れられないのだと悟った。
まるで獣の鼻先にぶら下げられた獲物の心地。あとは相手の暴力に身を任せるだけといった心境の俺に、
「ここから先はナメローに話してもらった方がいいわねー」
鼻先を爪で掠めるようにして彼女はフェードアウト。
「ぼ、僕のことは覚えているね。ひ、雛菱です」
バトンを渡されて、どもり調子で現れたヒナビた博士、もとい雛菱嘗郎博士。
こちらは喧嘩自慢というわけじゃない。一遍殴り倒した相手を忘れるわけもない。だから、相手が雛菱博士なら逃げるのもわけなさそうな気がしてきた。粥まみれですむくらいならなんてこともない。
余裕綽々で待ち構える俺へと、
「は、半年前の話だ。ぼ、僕が彼女に会ったのは」
しかして雛菱博士は唐突に言った。
「か、彼女は銀髪の髪に、よく陽に焼けた小麦色の肌、額に数センチの切り傷状の線が入っていることくらいが特徴らしい特徴で、別段我々となんら変わりない風体をしていた」
雛菱博士の伝える女性の特徴に、俺は今朝港で見かけた少女を思い出す。『人類観察』と告げた少女の声。それはつい数分前にインカムを通して聞こえたものと同じだった。
「つ、ついでに言えば、その時の彼女は二十代前半といった容姿をしていた」
俺が見たのは紛れもない少女。それも杏ちゃんと年端も変わらぬ程の少女だった。あっさり告げられた『二十代前半』という言葉に、予想は的外れもいいとこだったと悟らされる。
だが、一つ一つの記憶を辿り、それを情報として口上するとき、どうやら雛菱博士のどもりも止まるらしいということもなんとなく悟った。おそらく強度のコミュニケーション障害、つまりは自分の感情を伝えることがひどく苦手らしいということなのだろう。
俺がプロファイリングを終える頃には、当の雛菱博士は滑らかに話していた。
「彼女曰く、今から五百年後、人類は両脳の完全なコントロールに成功し、それから人類は歴史上まさに謳歌の時代を築くことになるそうだが、それも三百年と続かないらしい」
なんだか話があらぬ方向に進み始めた。
完全に取り残された俺を置き去りに、雛菱博士は突き進む。
「なぜならその三百年後、現時代より八百年後、新人類の出現によって現人類は淘汰されるからだ。生命進化学に置いて、それは文明を持たざる者が持ち得る者によって淘汰されたように、ネアンデルタール人がクロマニョン人によって淘汰されたように、人類という種における宿命に他ならない。生まれながらにして、オーダーの違う新しき人類。それは同じ種としてのカテゴリにありながら、全く別の脳領域を構築した生き物だった。ヴァーチャルの世界と現実世界にグレーゾーンを敷いてその垣根をいとも簡単に行き来するだけじゃなく、ヴァーチャルと現実の境界を曖昧にする技術。脳領域、現実的な限界という概念を超越してしまった新人類に旧人類が抗うすべなどなかったろう。一瞬で新世界は創生されたはずだ。彼らにすれば脳という高次機能ですら、些少の価値もないものだった。例えば数学。現在ミレニアム懸賞問題と呼ばれる超難問ですら、問題と呼ぶに値しないものだった。表面上に存在する数字で形成された困難な数式を解きたいなら、別空間にある数字を借りてきて解決すればよいという考え方に似ている。いや、彼らは現にそう出来るのだ。最も美しく悪魔的な学問と呼ばれた数学はそうして完全に駆逐された。我々の概念で言うところの、そしてそれは人類史上『天才』と呼ばれる存在が消滅した瞬間でもある。脳の情報を共有し、補完し合うことにより、肉体を超えて新人類はひとつに繋がる。そこに貧富の差や人種差別は消失し、国籍や宗教の違いという概念も喪失した。まさに人類は、一にして全と呼ぶに相応しい存在へと至ったのだ」
決して後ろを振り返ることのない雛菱博士、その背中を俺は呼び止める。
「待ってくれ、博士。さっきからあんた何を言ってんだ?」
ハッとしたように、間を置いたあとでおずおずと、
「す、すまない。き、君にもわかるよう簡略化して伝えるよ」
どもり調子が戻ってきた。
「つ、つまり、超絶的な思考力と技術力を持つ新人類がやがて現れるんだ。新人類の概念によれば、現状の脳的な働きをもつ機能は一つのハードウェア的なものに保管され、一人であると同時にそれを共有することで人類全体の情報、思考を共有することが可能らしいんだ。脳のクラウド化……ともちょっと違うかもしれないが、そんな風にイメージしてもらえればいいかな」
「……あ、ああ」良くは解っていないが、そう言わないとその『新人類』とやらの説明が終わらない気がして、俺は応えた。
「そ、そうか。そ、それは良かった」
胸を撫で下ろしたような雛菱博士の声。そして継いだ。
「し、新人類は〝聳え立つひとつの魂〟と呼ぶもの――通称、〝モノリス〟に脳の情報を補完することにより、ひとつに繋がる。その頃には、およそ生殖機能としての使い道くらいにしか、肉体の価値もなくなったはずだ。新しい脳の保管ですら、我々には及びもしないが、〝モノリス〟をハードウェアのようなものであるとするなら、その増設程度のことに過ぎないということなのだろう。もはや肉体という概念に縛られる必要のなくなった新人類は、やがて精神だけで活動する方法へと至った。そして、最終的には宇宙との一体化を目指すことにしたらしい。それは別に変わったことではなくて、抽象的な世界の捉え方としては至極当然。人と象では時間の感覚が違うって聞いたことあるだろう? 地球上における毎日の生活に意味を見出すのは、それは人が現状のサイズだからだ。精神だけとなれば、そこには形状も体積の概念も無い。人の存在が星をも満たすほどの大きさとなったなら、時間の意味も、可能性の限界も変わってくる。さっきも少し触れたが、空間の領域を曖昧にし、ヴァーチャルで作り出した座標軸に立つということで実際の空間位置に立つということも可能だから、瞬間移動も、惑星間移動も容易い話。現人類にすれば遅々として進まぬ宇宙空間の索敵とそのすべての惑星の踏破も、肉体という概念に捉われない精神体としての活動を可能とした新人類ならでは。そして精神体なればこそ惑星自体との同化も可能だ」
さっぱりだったが、何とはなしに尋ねてみる。
「ひょっとして、さっきの銀色たちの瞬間移動も同じ原理なのか?」
ぱっと明るくなる雛菱博士の声。
「そうなんだ。新人類の技術の流用だよ。通称、『ヤタガラス』。現実とヴァーチャルを曖昧にする灰色空間のネットワークを構築するナノマシン。数千ミリ分の数千ミリにも満たない微生物サイズのそれを明香里市周囲千キロ圏内に散布してある。その範囲内においてはこちらの兵装も新人類側と同じ理論体系のもとで戦闘が可能。我々の側の灰色空間だよ。新人類が構築したネットワークを転用しただけじゃ、互換性の優先度的にシステムごと乗っ取られかねないからね。ヤタガラスの空間内においては瞬間移動の他、反物質兵器の使用も可能。そしてそこから発生した対消滅エネルギーは四次元的にただのデータへと変換され、チカエシ内のイザナミに転送、純粋な対消滅エネルギーとしてヒルコへと保存される仕組みだよ」
――彼女の話はどこ行った。
「半年前、僕の前に現れたその存在は自らを新人類と呼んだ。肉体を捨て、〝モノリス〟内に知識を集積することで思念の集合体となった彼女たちの技術は完璧だった。命の母たる地球にとって悪害にしかならない旧人類を排除し、その完璧な技術をもって地上を管理する。彼女たちの技術があれば、我々旧人類が試算した惑星の寿命ですら、覆すのも容易いことだった。だが、そこにきて想定外のことが起こったらしい」
幾許かの沈黙。そのわずかの間すら耐え切れずに俺は訊いた。
「何が起こったんだ?」
小さく唸ったあとで、雛菱博士が続けた。
「我らが故郷たる地球は、滅びの道を選んだそうだ」
――地球が滅んだ……?
俺の中で、胡散臭さが増していった。だとしたらそもそも……
「その新人類はどうしてこの時代にやってこられるってんだ?」
俺は当たり前の疑問を口にした。星が滅んだのなら、ソイツらだって滅んでいるはずだ。
「いうなれば、それこそが彼女たちの最大の技術であるのかもしれない」
雛菱博士は言った。なんというか、子供が宝物でも見せてくるような、あのゾンビ顔には似つかわしくない愉しさに満ちていた。
「灰色空間に満ちた世界は、即ち現実であると同時に非現実の世界なんだ。それは現実世界そのものを箱庭とした実験が行えるということ。事前に、時代時代にいくつかのルート、つまりは編集点を形成しておきさえすれば、失敗した現実を切り捨てて、新たな編集点から創り出したパラレルワールドに逃げ込めるって寸法だそうだ。つまり何度でも時間を巻き戻して、やり直しが効くってことらしい」
――まさかパラレルワールドとは……。
胡散臭さは全開だ。
「ちなみに人工的に作りだしたワームホールを利用してのタイムトラベルも精神体なればこそできる芸当だよ。肉体がなければ消滅のしようがないからね。僕が見た姿なんて、こちらの記憶情報を読み取って投影したヴィジョンを、物質の合成で創り出した人形に嵌め込んだ姿にすぎないってことだそうだ。先にも言った通り、理論体系に基づいた灰色空間の構築さえ出来れば、科学的に証明できることは概ね可能だからね」
科学と空想をごちゃまぜた話に、聞き慣れない単語は耳を素通りしていくだけ。
しかし、
「でも、それっておかしくないか? その灰色空間で満ちている時代で未来人が無双だってのはまだ解るけど、その灰色に満ちてない前時代、つまりこの世界にはそもそもタイムトラベようがないだろ?」
ちゃんと話は聞いていた俺が尋ねると、「え」と雛菱博士が泡を食ったような声を上げる。
『科学的な検証には、証拠、推論を経て結論に至らなければならない』――ワルツがそんなことを言っていたのを思い出したのは、ごにょごにょと濁す雛菱博士の声を聞きながら。
この問題の答えが解る人――、そう問われるたび机とにらめっこしていた学生時代。そんな冬の時代を思い返せば、ちょっとした優越感ってヤツだ。著名な科学者の推論の矛盾を指摘してみせた優等生にも似た心情で、ひとりドヤ顔。
とはいえ。
「そ、それは、その、最初から精神体自体のトラベルは、確かに無理だけど、ぶ、物体自体のトラベルは可能らしくて、灰色空間を形成するナノマシンを積んだ、カプセル? みたいな物を事前に未来から投下して、解放されたそれが、ある程度の期間を経て、この時代のフォーマット化に成功した、ということ、らしい」
尻切れトンボな説明を受けても、いちいち指摘する引き出しは持ち合わせていなくって。討論はあえなく終了。
幾許かの沈黙に、「そ、それについてはまたの機会に」痺れを切らした雛菱博士が講義を再開した。
「か、彼女たちは集合体にして思念体。当然、年齢なんて概念もない。今にして思えば、僕が初めて見た時の姿だって、一般的には『幸せ』というワードで形容された僕の記憶を読み取った上での、妻の姿を投影したものに過ぎないだろう……」
――奥さんいんの!?
さらりと告げられた言葉に、なんかもう敗北感。
「……も、もう別れたがね」
継がれた言葉に、ちょっとの安堵感。
そんな緊張の緩んだ学生に気付いたかどうかは別として、雛菱博士の言葉には厳しさが含まれていく。
「――〝モノリス〟を核に、思念体となった新人類は地球と同化することで全く新しい生命体として道を歩むことになる、はずだった」
俺は気持ち居住まいを正して、耳を傾ける。ヒナビタ風体をして、だがしかし現代における最高の頭脳、五指に入ると言われる雛菱博士の言葉に。
「しかしやがて訪れる地球の滅亡。それは彼女らが数限りない選択を重ねたとして、結末は変わらなかった。幾万回、幾億回の実験の果て、最終的に自死を選ぶ地球。最悪の結末。そしてそれこそは、彼女たちが新人類であるからこそに解明できない問題……」
なんでもござれな新人類が解けない『問題』なら、理解すら出来ないかもしれない。それでも俺は、神経を集中して雛菱博士の答えを待つ。
「……完全な効率化を求めて精神体となり、地球と同化した新人類は、地球の感情を読み取ることは出来ても理解することが出来なかったんだ。完全な効率化を求めるあまり、自分たちが感情を捨て去ったせいで」
繰り返されるワード、『感情』。
確かあの子もそれを探し求めていたはずだ。
「感情を捨てたがゆえに感情を理解できなかった彼女たちは、そしてこの時代へとやってきた。やがてヒトネットワークシステム学の創始者と呼ばれることになるらしい、人の感情をシステムとして研究する僕に会いに来たのだ、と。しかし、システム学専攻の自分では彼女らの話を理解することは出来ても、事実かどうかの判断は出来なかった。彼女たちは、ならば物理学者に会わせるがいいと言った。僕が親交のある物理学者は、学生時代から付き合いのあった真玄だけ。当時、時間を持て余していた真玄は軽いノリで付き合ってくれた。真玄にすればただの暇つぶし。だが、彼女たちは連れていくなり、真玄の研究室にあった適当な物をかき集めて、お茶漬けでもつくる手軽さで反物質を生成してみせたんだ。現実の物質と、ヴァーチャルの物質を組み合わせることでいとも簡単に。そして対消滅を起こし質量がエネルギーへと変換されてなお、消滅させずに安定化させ留め置くさまも僕たちの目の前で実践してみせた。真玄のお墨付き、彼女たちは紛れもなく本物だった。そして彼女たちは感情を知る代わりに、未知の技術を提供すると言った……」
雛菱博士は滔々と説明を続ける。
俺なりの解釈をしてみたところで、胡散臭さは相も変わらず。そもそもが、俺は理系脳じゃないのだから当たり前といえば当たり前なのだが。
と、そこまで思い及んで、俺の中で新たな疑問が浮かぶ。俺の素性を調べたのなら、その手の話にはずっと理解力のある人間が俺のすぐそばにいることくらい知り得ていて当然のはずだ。
助手席にちらと視線を向けると、ワルツが不審そうに眉根を寄せる。
――そう。理系脳というなら、俺じゃなくてワルツを指名すべきだ。なぜ、ワルツでなく俺なのか?
新たに浮かんだ疑問に、俺は少し居心地が悪くなる。
だが、そんな俺の心情なぞ無視して、雛菱博士はしゃべり続けていた。
「……彼女たちの提案に食いついた真玄は、対消滅エネルギーの生成法にその保存法、灰色空間を形成するナノマシンといった技術を次々と手に入れた。そのすべてが感情を得るための代価。しかし感情がないということは騙されるという概念もないということ。真玄に問われるままに精神体である自身のような存在を捕獲するためのすべをも、彼女たちは提供してみせた」
知能の高さゆえの無知。俺は絶句する。
「彼女たちを幽閉した真玄に、僕は異議を唱えた。だが真玄は言った。このままいけば現人類は滅ぼされるんだぞ、とね。それは多分正論だ。この時代において僕たちは手に入れちゃいけない技術を手に入れた。欲しいものを手に入れたならば、彼女たちは迷わずこの世界のリセットを行うだろう。パラレルワードを創り出したうえで。だから、手に入れた技術を流用して戦うしか自分たちの助かる道はない、とも真玄は言った。そして対消滅エネルギー保存のための装置と、新人類と戦える人類の尖兵を創り出すために、仁知果が呼ばれた。君も見ただろう、〝ミスリル〟と呼ばれた存在を。あれは、なんの気まぐれか七草杏ちゃんのような少女に擬態した、現在幽閉中の彼女たちのクローンだよ」
少し疲労の色を覗かせつつ雛菱博士は言った。
俺はその言葉に、想像を確信に変える。
「その子になら会ったことがある」――それもつい今朝の話だ。
驚きの声を雛菱博士が上げた。
「そうか、やはりこの町に残っていたのだな。……それは〝呼び水〟だ。新人類が思念の集合体と話したね。彼女たち、そう複数形で呼ぶ理由はまさしくそれだよ。問いかけに、彼女たちは自身が言うなれば子機ともいうべき〝モノリス〟を核とした六万七千三百二十七の思念の集合体と話していた。そしてそれは自由に切り離せるそうだ。君が見たのはおそらく、彼女たちの切り離した一部。推論に過ぎなかったが、自分たちの実験が失敗したなら、それを伝えるための存在が必要になるだろうとは我々も考えてはいた。そう、世界を滅ぼす存在を招き入れるための〝呼び水〟としてね。呼応して〝マーズ〟は現れた。この世界はもうすぐ滅びるだろう。だが、それだけの力を持っていてなお、なぜ早々と滅ぼしてしまわないのか? 星を傷つけたくないから――、と彼女たちは言っていた。もちろん、それもあるだろう。しかしそれだけじゃないはずだ。きっと新人類は、回収するつもりなのだろう。感情の取得、その成果のあるなしに関わらず、〝呼び水〟とその本体を。ならまだ可能性はあるのかもしれない」
雛菱博士は言い終えて深く息を吐いた。それは自分の立てた仮説の証明と、まだいくらか残るタイムリミットを知り得ての安堵のようでもあった。
それを聞いて、雛菱博士の話はもう終わりなのだと感じた。
だが、なぜそんな話を俺だけに敢えて伝えるのか、その理由は依然不明のまま。だからきっと俺にはそのままにしておくという選択肢もあったのだと思う。パンドラの箱を閉じたままにしておくという選択肢も。
その先を聞いてはいけない――頭の奥で、再び警鐘が鳴らされていた。
しかし。
「それで結局、あの怪獣はいったいなんなんだ?」
深層で告げられるそれを理解してなお、俺の口は言葉を紡いだ。
素直に反応する体、ハンドルを握る掌にじっとりとした汗が滲む。それが、物事の本質であることはきっと心のどこかでは解っていたのだ。
「あ、あれは……」再びどもる雛菱博士からバトンを継いだのは、やはり花無仁知果だった。
「あれは紛れもなく『火星』よ。正確にはその一部だけどねー。いくら文明の利器が違いすぎるとはいえ、膨大な質量を時間及び座標間移動させるには手間が掛かりすぎる。現人類を滅亡させるのにそれが適しているかどうかは別として、まずは地球から近い火星が尖兵として送られたってことだろーね。一部とはいえそれを圧縮して現在のサイズ、地球質量に換算して月の三分の一程度の質量を保っているモノ。そして、あれが何者かと訊かれれば、さっきから答えは出てるじゃない。精神体となった彼女たちは惑星との同化も可能、ナメローはさっきそう言ったはずだよー。つまり、〝モノリス〟を核とした何万、何十万の思念の集合体で形成されているモノ――」
勿体つけることもなく、花無仁知果は告げる。
「――アタシたちの未来のかたち、あれは新しき人類だよ」
俺は気付いていた。気付いていたのに気づかない振りをしていた。
花無仁知果が俺に伝えたかったこと。杏ちゃんが今その身を賭して戦っている敵の正体――それがつまり時代は違えども、俺たちと同じ『人類』であるということを。
もちろん杏ちゃんの知らない事実。決して杏ちゃんにだけは知らせるわけにはいかない真実。紛れもなく、それは大人が背負うべき罪。
「……なんで俺を巻き込んだ」ほとんど無意識のうちに絞り出した声。消えりそうな呟きは、隣のワルツにすら聞こえないほどの囁き。
それでも、
「必要なことだったからよ」
高性能なインカムはそんな微かな音の振動すら拾ってくれたらしい。彼女は続けた。
「現在、この星の科学のルールにおいてクローンを作ることは禁じられてる。つまりアタシは現代科学の禁忌を破ったんだ。そしてそれは真玄もナメローも同じこと。アタシたちはみんな、罪人なんだ。だからきっと誰かに、科学者以外の誰かに、抑止力になって欲しかったんだよ」
「――それが、俺だと?」
沈黙が流れる。
だが、やがて彼女は言った。
「本当は、それよりなにより、共犯者を求めていたのかもしれない」
「俺に……お前らと同じ、クソったれな大人になれってことか」
「あなたはアタシに似てる。センジュくんもアタシも本質は同じ、大人に成り切れてない大人なんだよ。だからこれはその為の儀式なのかもしれないね」
――そう。この日、まさにガキの俺は死んだのだ。
「花無仁知果、お前はいったい……」
ふっと一瞬笑ったような気がした。
そして。
「最初に言っておいたはずだよ。アタシはアナタの――〝死〟だってね」
少しだけ寂しそうに彼女は言った。




