運搬と、穏やかな日常の始まり
『軍無輜重則亡、無糧食則亡、無委積則亡』
軍に輜重無ければ則ち亡び、糧食無ければ則ち亡び、委積無ければ則ち亡ぶ。
――『孫子兵法』軍争篇
第1話:事故の理由は、神様の飼い猫でした
「そっち、もう少し上げられるか?」
「はい、いけます」
初夏の熱気がこもるアパートの階段。俺――時田シンジは、先輩作業員と二人で、巨大な無垢材の洋服タンスを運んでいた。
ギリギリすれ違える程度の狭い踊り場。壁に傷をつけないよう、慎重に足場を確保しながら一段ずつ下っていく。
腕の筋肉が軋み、額から汗が滴り落ちる。引っ越し業者の仕事は、要するに物理との戦いだ。重力と質量をどう制御し、安全に目的地へ運ぶか。そこには確かな技術と経験がいる。
俺の年齢は21歳。高校を卒業してからずっと、この引っ越し会社で働いている。両親は、俺が高校生の時に交通事故で他界した。一人っ子だった俺に残されたのは、そこそこ広い実家と、両親が掛けてくれていた多額の生命保険、そして決して少なくない遺産だった。
正直に言えば、必死に働かなくてもしばらくは生きていけるだけの金はあった。学力にもそれなりに自信はあったから、大学に進学しようと思えばできたはずだ。けれど、親の遺した金に寄りかかって無為に時間を過ごすのは、なんだか両親に申し訳が立たない気がした。
自分の力で稼ぎ、自分の足で立つ。
学歴がなくても働けて、自分の身体一つで勝負できる。それが引っ越し業者を選んだ理由だった。
真面目に働き、仕事はきっちりこなす。
ただ、俺には昔から一つの特徴があった。
「あれ? お前、そこにいたのか」
とにかく、影が薄いのだ。
息を潜めているわけでもないのに、周囲から認識されにくい。客からは作業員が一人少ないと勘違いされ、休憩中には先輩から存在を忘れられることもしょっちゅうだった。良く言えば自己主張がなく、悪く言えば存在感がない。それでも、自分の役割を淡々とこなすこの仕事は、俺の性に合っていた。
目立たず、騒がず、穏やかに生きていく。それが俺の望む人生の形だった。
「よし、次曲がるぞ。足元気をつけろよ」
「了解です――」
その時だった。
どこからか、一匹の白い猫が突然飛び出してきた。
慌てた様子で踊り場に開いていた小さな窓から飛び込んできたその影に、先輩がビクッと肩を跳ねさせる。
「うおっ!?」
目の前を横切った白い毛玉に驚いた動揺が、絶妙に保たれていた重心を狂わせた。
支えを失った巨大なタンスが、重力に従って一気に俺の方へと傾いてきた。
「っ——!」
咄嗟に腕に力を込めたが、階段という足場の悪さが致命的だった。
急激な重心の変化に耐えきれず、俺の身体はタンスごと後ろへ大きく煽られる。
踏みとどまる暇なんてなかった。
足が宙を掻き、フッと身体が浮き上がるような無重力感。
そのまま俺は、巨大な木の塊と一緒に階段の下へと転げ落ちていった。
鈍い衝撃。
視界が激しく揺れ、全身の骨が軋む嫌な音が響いた。
踊り場に叩きつけられたところで、視界が急速に暗転していく。
遠くで先輩の焦ったような声が聞こえた気がした。
(あぁ……なんだか、あっけないな)
そのまま、俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
* * *
次に目を覚ますと、どこまでも広がる真っ白な空間に立っていた。
そして、目の前には豪華なドレスを着た絶世の美女が立っていた。彼女は真面目な顔つきのまま、しかしどこか冷や汗をにじませて直立している。
「深く、お詫び申し上げます」
切羽詰まった様子で、彼女は声を震わせている。
その腕の中では、さっき階段で見かけたのと同じ白い猫が「にゃーん」と呑気に鳴いていた。
「……は?」
状況が全く飲み込めず、俺は間抜けな声を漏らした。
自分がどうなったのか、ここはどこなのか、目の前のドレスの女性は何をしているのか。一切の記憶と現実が結びつかない。
そんな俺の混乱をよそに、女性は慌てた様子で顔を引き締め、まくし立てるように話し始めた。
機構を説明すれば、彼女はこの世界――いえ、魂を管理する司祭神のひとりらしい。そして、その……この猫は彼女の飼い猫なのだが、不手際から本来あるはずのない地上へ迷い込んでしまい……。
女神の言葉を整理しながら、俺はやっと今の状況を理解し始めた。
つまり、神界から抜け出したこの猫のせいで俺の引っ越し作業にアクシデントが起き、不慮の事故で命を落としたということらしい。
完全に巻き添え、しかも管理ミスの被害者だった。
「お詫びと言ってはなんですが、あなたの死因を作ってしまった代償として、転生の機会と、魂への加護を授けさせていただきます。どうか、望む能力を――」
必死に取り繕うように提案してくる女神に、俺は少し息をついてから首を振った。
「いや……そういう大層な力はいいです」
「えっ?」
「のんびり、自分のペースで暮らせればそれで十分なんで」
「そ、それだけでいいんですか……? せめて、新しい人生を生き抜くための特別な力を!」
食い下がる女神に、俺はあの重いタンスに押し潰された痛みを思い出しながら、小さく答えた。
。「じゃあ……もう二度と、荷物を落として痛い思いをしないような力があれば十分です」
「荷物を、運ぶ力……?」
「ええ。俺、引っ越し屋だったので」
俺の言葉に、女神は引き締まった表情のまま、まっすぐに頷いた。
「わかりました……! あなたの今後の人生が物資に困らず、平穏なものになるよう、私から最高の『運搬』の祝福を授けさせていただきます……!」
視界が眩い光に包まれる。
こうして俺――時田シンジは、前世の記憶を持ったまま、見知らぬ異世界へと転生することになった。
授かった『運搬』のスキルが、常識を完全に破壊する規格外の代物だとは、この時の俺には知る由もなかった。




