閑話 エマと勇者の本
黒銀の友の瞳はわずかに潤んでいた。
そして、彼はそっと下界を覗いた。
───翌朝。
オブリオは双子の赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
まだ、窓の外には朝靄の残る寝室で泣き声のする方に目をやる。
妻のマルソーは泣いている赤ん坊を優しく胸に抱き寄せ、授乳を始めたところだった。
もう片方の赤ん坊はスヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。
その寝顔をオブリオは目尻を下げ見つめる。
幼子は青色の髪のエドモント、双子の兄。
どんなに泣き声が響いても微動だにしないその姿に、オブリオは思わず微笑む。
一方、授乳中の赤ん坊は銀髪の弟、エドワード。
彼は泣き止むと母の胸に頬を寄せ、安心したように目を閉じる。
マルソーは我が子をそっと抱きしめる。
双子は二卵性。
兄、エドモントは母親似。 弟は父親似。
幼子たちはどのように成長していくのだろうか。
オブリオとマルソーは日々の暮らしの中で、彼らの成長を楽しみにしていた。
しばらくして、寝室のすみで動きがあった。
"むくぅ”と身を起こしたのは銀髪の少女で八歳の娘。
───エマ。
髪は寝癖なのか爆発したように広がり、眠たげな銀色の瞳で両親をぼんやりと見つめる。
長い銀髪の間から欠伸を漏らし、両手を大きく伸ばして───
「はぁ──あ─」と、もう一度欠伸をする。
「おはようございます、とうちゃま……かあちゃま」
眠気がまだ覚めない様子のエマは、"ちょこん”とベッドの縁に座り込んだ。
「おはよう、エマ。あなたはもう、お姉さんになったのよ」
マルソーが柔らかく微笑みながら言った。
「可愛い弟たちがいるのだから、一人で身支度は整えられるわね?」
「うん……」
エマは大きな水玉柄のパジャマの長い袖から手を出した。
「んしょ」
彼女は声を漏らしながらベッドから降りる。
一緒に寝ていた白熊の縫いぐるみを脇に抱え、寝室を出ていった。
静寂の中───「はぁ──あ──」と、エマの欠伸。
──その瞬間。
ゴ……ォォ……
低く、深く、空気が軋む。
目に見えぬ波が押し寄せ、皿棚のグラスが震え始めた。
カタ、カタタ……
音もなく弾ける。
ガラス細工の蝶が羽根を散らすように砕けた。
「ごめんなしゃい!」
エマは自分が”何をしたのか”気づいていなかった───。
廊下から突然響いた大きな音に、オブリオとマルソーは顔を見合わせた。
続いて聴こえたのは、エマの小さな謝罪の声だった。
幼い子どもであっても、魔力の暴走は時に思わぬ影響を及ぼす──
それはかつて、『大魔導オヘソ・べロン』も幼少の折に見せた力であり、トランザニヤでは”天印の芽吹き”とも呼ばれていた──。
メイドには抱えていた縫い包みが廊下の花瓶に当たり、倒してしまったように映ったが───実は違ったのだ。
花瓶は棚の上から滑るように落ちた。
割れたのはエマが欠伸をした際に放った、異様な程の魔力に触れたからだった。
「高価な花瓶なのに……」
亜人のメイドが小声で呟くのが聴こえた。
だが、エマはすでに顔を洗っていた。
その音で目を覚ましたのは、寝ていた双子の兄エドモント。
黒い瞳を「パチッ」と開ける。
彼は泣くどころか笑顔を浮かべていた───。
◇ ◇
朝食後。
ダイニングルームでは、エマが弟のエドモントに言葉を教え込んでいた。
「ねーた……かぁか……とーうと……」
「ねーたじゃなくて、ねぇね!」
エドモントが覚えたばかりの言葉を繰り返すたび、エマは笑いながら訂正する。
彼の右拳が言葉を発するたびにかすかな光を放つ。
マルソーが双子の弟、エドワードに授乳していた。
それを終えると彼は鎖骨辺りに勢い良く吸い付く。
彼の小さな身体がほんの少しだが、光をまとった。
後ろで亜人のメイドは寝癖のエマの銀髪を手際良く梳き、綺麗なツインテールに仕上げた。
穏やかな空気の中、オブリオが静かに口を開く。
「……エマ」
その後すぐ───ダイニングテーブルに、眉間に皺を寄せる執事のイワンが紅茶を運ぶ。
「……少し聞いてくれ」
エマが父の声に目を向ける。
オブリオの顔は青ざめ瞳には涙が浮かんでいた。
言い淀むオブリオだが意を決し口を開いた。
「……弟……マグが………討ち死にしたんだ」
その言葉に紅茶のカップがエマの手から滑り落ちる。
受け皿が割れる音が響き、テーブルには紅茶があふれた──その時。
エマは叔父の笑顔がはっきりと浮かび、それが走馬灯のように駆け巡る。
───夜の寝室。
「エマが一番好きな物語だぞ!がっはははは!」
「叔父ちゃま、『トランザニヤ物語』、読んで読んで!」
「エマ、お前が好きなところを読んでやろう」
マグナスは微笑みながら分厚い本を捲る。
「そして、八咫鴉の勇者は、黒き魔獣を退けた……!」
「すごい!!叔父ちゃまが、勇者みたい!!」
「がっはははは……エマもいずれ、立派な勇者になるさ」
───あの夜の言葉が今も耳に残っている。
───叔父ちゃま────。
人気『作家』、J・Mによる物語で、エマは主人公『八咫鴉』の活躍に夢中になった。
時折、冗談を交えて笑い合ったあの時間はエマにとって宝物だった。
いつも厳格だったマグナスがエマにだけ見せた優しい笑顔。
そのすべてがエマにとってかけがえのない記憶だった。
エマの頬を涙が伝う。
それを止めることは、誰にもできなかった──。
「もう、一緒にお話できないの……?」
悲痛な声を漏らしたエマ。
大好きだった叔父の突然の死に、涙が堰を切ったようにあふれた。
声にならない嗚咽が喉を絡める。
彼女はこらえきれず大声で泣き出した。
「え────んっ! 叔父ちゃまっ! え────んっ!」
ゴゴゴゴゴ……
その瞬間、部屋の空気が震えた。
”パリィ───ンッ!”
紅茶のカップが床に落ちる。
だが、それだけではない。
バキバキ……!
テーブルの上に置かれた銀製の食器が軋みを上げる。
壁に掛けられた絵画が"ビリビリ”と揺れる。
「エマ様……?」
イワンが目を見開く。
エマの銀色の瞳がわずかに紅く輝いていた───。
それでもどこかで笑顔の叔父の声を探していた。
執事のイワンはハンカチを差し出しながらそっとつぶやく。
「姫様、鼻水をお拭きくださいませ……鼻水を……」
悲しみに包まれる朝は、静かに過ぎていった───。
気が向いたらブックマーク、
広告下の【☆☆☆☆☆】に★つけていただけると、ありがたいです。