黒薔薇とミツバチ
天界。
神々が辺境の国、トランザニヤの状況を注視していた時のこと。
物語はついに動き始めた。
◇(主人公のゴクトーが語り部をつとめます)◇
女将さんにもう一泊と銀貨を渡した。
結局、全然眠れず。
……ったく、朝っぱらからなんだったんだ?……。
『時の魔導具』を見た。
ボリボリと頭を掻いて欠伸をひとつ。
昨日のことを思い返し、夢だったのかな?と、思ったりもする。
……腹減ったな。
だが朝食までには、まだ時間がある。
眠気どころか、食欲まで湧いてくる。
ぶるっ 「ヘックション!やべ、鼻水」
くしゃみが洗面所に響く。
まだ、朝方は冷える。
「村の散策でもしようか」
誰もいない廊下で独り言ち、部屋に戻った。
冒険者になって始めて自分で買った、大切なローブを身の纏う。
これ、あったかいんだぜ。
それにな、大概の魔法ならこれ一枚でなんとかなるんだ。
へへ、いいだろ? なんてな。
誰に言う訳でもなく、お気に入りを羽織って宿屋を出る。
まだ朝靄が晴れてない。
辺りは薄暗く、東の空に橙が差し始めている。それはまるで大きな”まなこ”が瞼を開け、こちらを見つめるようだった。
牧場の柵越しに見えるのは牛や馬、鶏たちの姿。
夜明け前の冷たい空気を感じる。
「ひやっとするな」
吸い込む度、懐かしいようなどこか落ち着く気分になる。
土と砂利でできた道を踏みしめながら、村の中心に向かって歩く。
路地を進むと、木製の古びた看板がいくつか並んでいる。
結構な年齢の女性が住宅の前を箒で掃いている。
気さくな感じの物腰で、その女性が俺に声をかけてきた。
「おはよう。早いね、これからダンジョンかい?」
「おはようです。 いや散歩。 ししし」
生活感が漂う中、その女性と軽く挨拶を交わした。
気を良くした俺はずんずん歩く。
「素朴な光景を見るのは、久しぶりだ」
景色を眺望し、意気揚々とつぶやく。
それだけで少し心がやわらぐ。
気持ちの良い空気を吸って、さらに足を延ばす。
やがて小さな教会が目に入った。
その佇まいは簡素で飾り気がない。
それでも"教会”という場所が持つ、不思議な安心感があった。
育った孤児院の『コリン教会』もそうだった。
「コリンじゃないけど……懐かしいな」
ポツリと落とす。
あの頃はシスターの温かさが”唯一”のより所だった。
思い出すのは孤児院時代のこと。
教会の鐘が日暮を知らせる頃に、頼まれた採取から帰ってきた。
孤児院の仲間と薬草の仕分けを済ませ、おやつが来るのを待っていた。
シスターの焼いてくれるクッキーが、俺は大好きだった。
『ゴクトー君、まだ、お祈り中よ。ふふ。そんなに頬ばると、喉に詰まるわよ。まだ、たくさんあるからゆっくり、お食べなさい。 神様に感謝するのよ……』
夢中で食べてるの見て、シスターはそう言って笑ってたっけ。
カリっとした食感で、卵と香草の香りが鼻に抜ける。
甘みが口の中にトロッと広がり、最高の贅沢だったんだ。
シスターのあの笑顔が頭に浮かぶ。
美人なんだ。
でも、結局、俺はシスターを泣かせてしまった。
師匠と出会って、教会を出ることにしたから。
教会でのこれまでのこと。そりゃ頭をよぎったさ。
でも、それ以上に心は、もう師匠との冒険の旅に胸を弾ませていたんだよ。
その頃は考えられなかったな。
「シスターの気持ちなんて……」
なぜか声に出てしまう。
出発の日。
シスターの瞳にはうっすら涙が浮かんでいた。
『行ってしまうのね……冒険者が危険な職業なのは、わかってるつもり……
ゴクトー君が、いつまでも無事で生きていてくれることを、ここで祈ってるわ』
シスターの別れの言葉だった。
冒険者になるために、それを振り切って俺は旅立った。
「元気にしてるかな?シスター……孤児院を出て、もう十年は経つな…」
思わず口から漏れ出た。
胸の奥がギュッと締め付けられ、立ち止まり群青色の空を見上げた。
静かに上がる朝日が十字の黒い影を落とす。
威厳のある教会のシンボルを目にふと、感傷的になる自分を振り払う。
朝焼けが村のメンインストリートの石畳に反射し、俺の影を伸ばす。
歩く度、キュッ、キュッと、朝露で滑る靴が音を鳴らす。
「ん?」
しばらく歩くと視点の先に赤い点が見えた。
「なんだ……?」
近づいてみる。そこには、酒場の入り口で持たれかかっている女性が一人。
「スーピー…スーピー…」
熟睡して寝息を立てていた。
うっわ酒臭い。 酔い潰れたのか?
思いながらもじっとその女性を見た。
紅い帽子。紅いジャケット。紅いスカート。
全身を"紅”で包んだその姿は、明らかに村人ではない。
彼女の装備は『冒険者』のそれ。一目瞭然だ。
ただ、問題ありだ……。
俺は周囲に目を配り、人が居ないか確認する。
ヨシ、誰も居ないな。
ほっと息をつく。
こんな姿で眠りこけているとは、かなり油断し過ぎだろ。
(*熟睡する女性冒険者のイラスト)
片膝を立てる彼女のーー黒い薔薇柄の下着が、まるでこちらに微笑むように笑った気がした。
緊張で額に汗が滲む。
いや、ちょっと待てっ!
内心思いながらもクラクラと眩暈がした。
動悸がして予感がしたよ。
あ、いつものやつだって。
「鼓動でるな!」
言いながら思わず胸を押さえた。
身体が浮いたような感覚。 ふわっと視界が歪む。
そしてーー俺は自分の”癖”の世界に入り込んだ。
【妄想スイッチ:オン】
──ここから妄想です──
『黒い薔薇』が覗いている。
(*ゴクトーの妄想上の魔物)
見つめられた瞬間、「!!!」まさかーー
自分がミツバチになってしまうなんて、いったい何が、そこまでに至るのか〜ー。
背中には小さな羽。
額には二本の触覚。
尻には“チクリ”の針がある。
あれ? これって……
まさか……! 「バイオハザード」か?
「くそっ ならば……」
ブーン
翅を素早く動かし飛び立つ。
甘い香りに誘われる。まるで花のバイキングのよう。
黒薔薇にとまる。
「これがミツバチの特権だ」と、つぶやいたーー。
ゴゴゴゴゴ……
大地が揺れる。 地震か?
その瞬間ーー黒薔薇の棘が俺に刺さった。
まるで『ミツバチへの逆襲』でも、始まったかのように。
「っく、次はもっと……美味しい花を…… 探す……ぞ…」
【妄想スイッチ:オフ】
──現実に戻りました──
黒薔薇は『妄想図鑑」に吸い込まれ、消えるように収まった。
俺は人の姿に戻り我に返った。
意識も徐々に戻ってくる。
「蜂になった?……なんだったんだ、あの黒薔薇?」
思わずつぶやく。
やっぱり妄想は危険だな、と改めて痛感した。
だが、現実に戻った俺の目はまだその『黒薔薇がらの下着』にピタリのまま。
顔が熱くなるのがわかる。
「……ったく、世話が焼けるな」
目をそらし、羽織っていたローブを彼女にそっとかける。
その瞬間ーー 「んん……?」
彼女がうっすら片目を開き、かすかに身じろぐ。
片膝も下げず、ただ顎を少し前に出しただけだった。
やべっ! 起きちまう。
そうっとだ、そうっと。
彼女はすぐにまた、深い眠りに戻った。
「ふぅ」
手が止まった俺はひとつ息をつく。
「これでよし、と」
気まずさを振り払うように──その場を離れた。
うー、寒いっ! 早く宿へ帰ろう。
風邪、引いちまう……。
誰に言う訳でもないが、そう思いながら宿へ向かって歩き出す。
冷たい風が全身を撫で、思わず肩をすくめながら歩いた。
「遠い記憶の隅……。どこか懐かしい匂いがする女性だな。風邪ひかないと……いいんだが……」
独り言ち、ちょっと口元が緩んだ。
***
宿に戻ると腹を満たさなきゃな、と食堂へ。
入った瞬間、賑やかな笑い声。
すでに冒険者たちが、朝食をとりながら会話してる。
思わず、聞き耳を立てる。
当然だ。
「ついに20階層!運良く宝箱も見つかったしな!」
「んでも、15階層がら20階層まで10日も、かかったんだぞな、もし」
「各階層ボスには、かなり手こずったが……」
「……状態異常の魔法を使う……魔物も多かった……」
「麻痺・毒・眠り …… 動けなくって、死ぬかと思ったぜ」
マジか。 やべーな。
俺は眉が動いたさ。
「彼女のおかげだ。今日も待ち合わせしてるから、彼女も来てくれるだろう...」
「真っ赤な装備が目立つし……凄いスタイルだし。ガハガハガハ」
「ちょっ!ビスタス、その笑い方……気持ち悪いからやめなよ……」
「ほっとけ!」
「お前ら程々に……至宝『七星の武器』を見つけるんじゃないのかよ」
「ああ、そうだったな。今日から25階層を目指すんだぞ!飯を食ったら各自準備。待ち合わせの時間にギルドだぞ。遅れるなよ!」
「「「「 おおぅ 」」」」
新しく出来たダンジョン攻略の話だ。
いい情報が聞けたな。
至宝『七星の武器』って、そんなお宝があるのか?
俺は思考を巡らせる。
なるほど、この『冒険者』たち、着実に成果を上げているようだ。
やっぱり、ダンジョンは魅力的なんだ。
俺も朝食を黙々と口に運ぶ。
テーブルの向こうで、地図を広げて議論する彼らの姿がなんだか、眩しかった。
羨ましく思いながら、食堂を出て部屋に戻った。
俺たちって、大丈夫なのかっ?
ふと、不安に駆られる。
彼らのパーティーは五人だった。 いや、それ以上かもしれない。
それでも戦力を増やすためーーまだ誰かと待ち合わせているらしい。
アカリとジュリと俺だけ……てか、たった三人でダンジョンに臨むことになるのか?
期待と不安。 入り混じった感情が渦を巻く。
*『アイテムボックス』を開き、現在の手持ちを確認。
まず目に入ったのは『毒消し』と『麻痺回復ポーション』。
どちらも残りは一本だけ。
これでは長い探索には心許ない。
そして、もう一つ───『眠り』と書かれたラベルが目にとまった。
眠り……? やべぇ敵がいたら……どうするよっ!
未知の状態異常だ。
過去の冒険では、一度も経験したことがないのさ。 師匠もいたし。
何がどうなるのか、具体的な効果さえ分からない。
頭に浮かんだのは師匠の言葉だ。
『ダンジョン攻略には時間がかかる。長い旅路に備え、油断せず準備を整えることがーー大切なんだ』
その忠告が今になって重くのしかかる。
とにかく準備だ。
あとで魔導具屋、薬屋にも寄らないとな。
それに食料も補充しなきゃだ。
そう思いながらも身体は正直だった。
この眠気、まずどうにかしないと……。
抗えずそのままベッドへ、毛布の中に身を沈める。
柔らかな起毛が全身を包み込む。
意識はあっという間に途切れた。
今だけは夢の中で休息をーー。
*補足
ー『アイテムボックス』ー
所持者が持ち運べる「鞄」。収納魔導具。
現実より高度な魔法的性質を持つことが多い。
小さく見えるが、内部は広さが現実の体積を超える。
いわば「空間の歪み」を利用した超小型の亜空間。
所持者がボックスを開閉するだけで、内部の収納物を取り出したり、追加でしまえたりできる。食料などは傷まず、そのままの状態で維持できる。




