第8話 萌芽 - 12.5.1595
雲一つない蒼い空。
寄ってたかって騒ぐ人々。
輪の中心で震える女、その手には……血に染まった刃。
女の前で横たわっているのは――
長く伸びた、赤い癖毛。
大きく見開かれた、灰色の瞳。
前頭部の左半分を占める大きなアザ。
胸元に広がる、紅。
頬に輝く一点の光には、誰も気付かない。
***
「――――っ!?」
がばっと起き上がった。いつもの自室の景色が広がる。
夢だ。これはいつも見る夢である。
実はこの場面の続きも夢に見るのだが、思い出せたことはない。知りたいという気持ちも大いにあるけれども、一方で知りたくない気持ちもないわけではない。
立ち上がって壁に掛かった鏡を見る。自分の顔は好きではない。だから前髪を垂らして隠れるようにしているのだが、それはそれで不気味だと言われることも多い。
あえて前髪を上げてみる。自分の顔にアザはない。それをして、改めて自分は殺人鬼とは無関係だと確認するのだ。
ぼんやりとどこを見ているのか捉えにくかったハルだったが、しばらく暮らしているうちにだんだんしっかり、はっきりとしてきた。喜怒哀楽もおとなしいなりに分かりやすくなった。価値観についてもよく喋るようになったが、自分以外の前では依然として虚ろな態度を取っている。
ハルはそれについて、“その方が相手にとって都合がいいから”という。こういう意味でも頭の回転が早くなった。勉強も自分を追い抜きそうなほどできていたが、そのことで自分が他人から とやかく言われることはなかった。
自分には結婚の話がまだ全くなかった。他の家の同じくらいの歳の奴らは皆相手が決まっており、早いところはもう婚礼が行われていたりしていた。ハルにも来なかったが、それは身元が分からないよそ者だからだろうと、ハルが自分で言っていた。
一方で、後妻の息子の方は既に候補を絞る段階まで進んでいた。それもかなり良いところの家ばかりだそうだ。特にうらやましいとは思っていない。ただ、自分にそのような話が来る予兆も何もないのが不思議だった。
今日はハルを連れていくなら外出しても良いと言われた。無論、単独行動は駄目だそうだ。親父からすればハルを盾にするのが都合良いのかもしれないが、他の付き人なしで行けるということが幸いだった。最近そろそろ親父によるハルの扱いが荒っぽくなってきた。これから少し、親父のことに気を付けなければいけないだろう。
***
いつも通り、目を覚ました。
ロブの誕生日から半年近く経った。年が明けるまでそう長くない。
あれからはご主人やその奥さんの誕生日のたびにパーティーが開かれたことくらいが大きな出来事だった。他は難しい勉強をしたり、貴族としての教養を身に付けるための簡単な稽古をしたり、間の時間はロブと駄弁ったりしていた。ざっくり言うとその繰り返しだ。
それでも、僕には意味があった。安定した日々が続く中、曖昧な自分自身のことを客観的に考えるうちに、徐々に定まってきたように実感した。昔のことは思い出せないままだったけれども、この家ではそれが別に必要とされていない。仕方がないから、思い出すことは諦め、この場所に適応するべく努めようと決めた。
ロブがご主人についてよく教えてくれたので、非常に助かった。僕が疑われており、優遇も罠かもしれないと言われたときは残念に思ったが、様子を窺っているとどうやら本当にそのようだ。
少しでも背くような素振りを見せないようにすれば大丈夫というので、意思を読まれないように、人前では最初の焦点がぼやけたままの自分であり続け、言うことは何でも聞いておくことにした。フリをするのはそれほど苦ではなかった。
貴族は幼い頃から婚約者を決められるらしい。これもロブが教えてくれた。そういうわけでご主人の下の子は話が進んでいると聞いたが、ロブには全然らしい。そこまで急ぐ話なのだろうかと訊くと、そうは思わない、と思った通りの返事だ。僕が他人によそ者扱いされることは承知しているので、それは別に構わないと割り切っている。
ご主人はロブのことは割と放任している。僕も誰かと一緒なら結構自由が利くけれども、何かねらいでもあるのだろうか。
今日はロブと外に行く。実はここに迷いこんだとき以来、家の敷地外に出るのは初めてだった。僕は実質的には護衛の役割だそうだ。だんだん特別扱いされなくなってきて解放された気分だが、同時に不安も芽生えてきた。ロブも気を付けた方がいいと言っていた。疑われるような所作は、避けなければならない。
お忍びとはいえ、この街の庶民にはまだ、ロブも僕も顔を知られていなかった。ロブはご主人にはそれほど似ていないし、僕が養子として存在することも公表されていない。だから、比較的質素な服を着て、冬なので防寒具を装備すれば、それだけで立派な変装になった。
僕の場合は顔が綺麗すぎて拉致されたらいけないからとかいう よく分からない理由で、顔の左半分に簡単な化粧をされた上で眼帯を着けられた。眼帯は変装用の偽物で、着けた左目からもしっかりと周りが見えた。
ロブはやけに不安げだった。どうしてそんな様子でいるのか訊いてみると、かつてこの街にいた殺人鬼のことを教えてくれた。そして、ロブが今朝も夢を見たことも。特徴を聞くと、ほとんどロブと一致していた。少し考えて、僕が先を歩き、その後ろで目立たないようにするのはどうかと提案した。ロブはこれに乗り、僕たちは街を散策することにした。
***
この街には、屋敷の中にあったような、緊迫した静寂はなかった。人が行き交い、そこら中で世間話をしたり、子供同士が走り回っていたりして、賑わっていた。見たところ人々の身分は様々で、思ったよりは治安は良さそうだ。
変装の効果はまずまず出ている。今のところ、自分もハルも変な目で見られたりしていない。いろいろ考えた結果、自分は後ろの髪は工夫して防寒着の中に突っ込み、前髪も渋々きっちり分けて、一応いつもと違う感じにだけしておいた。帽子まで被ると少し立派に見えてしまうので、それはやめた。
まず、小遣いを少しばかり持たされていたので、それで昼飯を食った。家で食う選りすぐりの食材で作られたとかいう飯も美味かったけど、気のせいだろうか、こちらの方が良い。
「ロブ、おかわりする分のお金ある?」
「ない」
「なんでだよ、それくらいあるでしょ」
「お前、食い過ぎだ」
「だって美味しいじゃん…」
ハルは今、大盛り三杯目を食っている。棒みたいにガリガリだし、普段は食が細かったから、この大食いぶりには あまりにも意外すぎた。
「家では上品にちょっとずつしか食わないくせに。それも戦略か?」
「いや、家ではあれでお腹いっぱいだけど」
「どういうことだよ…」
「家のも美味しいけど、こっちはいくらでもいける」
ちなみに自分は二杯食って腹いっぱいになった。
「でも、まあ、そんなにいきなり食ったら腹壊すぞ。我慢しとけ」
「……分かったよ」
ハルの腹のためだ。これくらいにしておいた方が良い。
店員に代金を渡して店を出た。当てがなかったので、とりあえず狭い路地に入らないように気を付けつつ、ぶらぶらと歩いた。
「ところでずっと気になっていたんだけど」
「おう」
「ロブってナイフとフォーク、いつも逆に持ってるよね?」
「あー、俺 左利きだからさ、あの方が使いやすいんだよ。直せってよく言われるけど」
ついでに言うと、殺人鬼も左利きだったと言われている。それは殺された人々が皆、向かって左側に致命傷を負っていたからだそうだ。
ところで、この街は主に二つの家が統治している。そのうち一つはクレメンス家なのだが、もう一つの家は、半年ほど前に凄惨な事件が起こり、跡継ぎのことでトラブルになっていると聞いた。
できすぎた偶然だとは思うが、事件が起こったのはハルが迷いこんできた直前らしい。当主が切りつけられ、原型を留めないほどにぐちゃぐちゃになっていたそうだ。その妹夫婦も別室で殺されており、そちらは刃物で一突きだけのようだが、現場の様子から同一犯だと言われている。
また、妹夫婦の一人娘が行方不明で、未だに発見されていない。犯人と並行して、彼女の捜索が今も続いている。ここ数年で、二件も大きな殺人事件が起こっている。
「物騒だね、平和そうで……」
「形だけルールと警備隊を作って、統治とか言って金をふん取るだけだからな、俺たちは。だから、どうしようもないんだよ」
「そうか……じゃあ、僕が来たことと、その事件とは…どういうことだろう。何かあるのかな?」
「うーん…関係者に行方不明の娘以外の子供はいなかったと思うけど、まあ、これも何かの縁だな」
「そうかもしれないね――あっ、ロブ、あそこに寄りたい」
ハルが指差しただいぶ先に、武器屋が見えた。あそこのことだろう。誰かに注目されて揶揄されたくないから、影のようにハルの後ろをついていく。
「あっ」
と、誰かと肩がぶつかった。ちゃんと前を見ていなかった。
「…ごめんなさい」
ぶつかった相手に正面を向けて、すぐに謝った。良さげなドレスを着た、同い年くらいの女の子だった。薄い色の金髪で、右が茶色、左が緑という変わった目をしていた。思いっきり顔を見られた。
「あ……う……」
かなり怯えていた。よほど人見知りなのか、それとも自分が…。
「――――!」
お化けでも見たかのように、足早に逃げていった。悪くは思っていないが、どことなく気になった。
「どうしたんだろう、あの娘」
「さあ……俺の顔見て思い出したんじゃ?」
走っていった方に目をやっても、もう見えなくなっていた。親父が交流している家の娘たちと違って、綺麗な瞳だった。
「……ロブ?」
「おっ、すまない」
目の前でハルが手を上下に動かしていた。思わずぼーっとしていた。
まもなく入った武器屋では、ハルは楽しそうに店主と喋っていた。自分はその傍らで、並べてある武器をいろいろ見ていた。
「――そっちの目は、どうしたんだい?」
「うんと小さい頃に怪我してしまったみたいで。覚えていないんですけどね」
「そうか…綺麗な顔しているのに、もったいないねぇ」
「ははっ、そんなことないですよ。おじさんは?」
「これは修行中の時のだね。こういうのもみんな、今となっては勲章だよ」
顔の目立つ傷のことを遠慮なく訊ねる店主も、頬に大きな古傷があった。お互いさま、ということだろう。
ここの武器屋だが、割と自分たちの近くで、弟子らしき男たちが武器を作っていた。かまどの熱で、暑苦しい。自分は髪型が崩れるので我慢したが、ハルはスカーフを脱いで、シャツの上の方のボタンを二つくらい外して、襟元を広げた。
か弱い女みたいな細長い首だった。この店に置いてある一番小さいナイフでもすっぱり刎ねられてしまいそうだ。そんなことがないように祈るが。
いや…うんと小さい頃に、そんなことがあったのだろうか。顔の左半分が若干くすんだ色になっているのは、化粧のせいである。でも、その首元の、横にシュッと入ったアレは何だろうか。最近の傷ではなさそうだった。
「ぼく、その首のは…」
代わりに店主が訊いてくれた。少しためらいがちなのは当たり前だろう。
「え?」
「その、向かって右の……そう、左肩の上を…」
ハルはその本物の傷痕らしき場所を注意深く触る。
「あっ……ここですか? 本当だ、ちょっとだけ膨らんでる…」
「それも覚えていない傷かい?」
「はい、多分……」
鏡で確認できないからだと思うが、ハルは本当に知らなかったようだ。家では襟のついた服をきっちり上まで留めている…というかそうしていないと叱られるので、自分も初めて見た。
ハルはあまり見せない方が良いと思ったのだろう、ボタンを留め直した。
「そこの彼とは友達かい?」
「あ、はい」
そこの彼、とは自分のことだ。
「ロブ」
ハルに呼ばれた。あまり他人と話したくなかったけれど、仕方がない。
「……こんにちは」
「君は何か気に入ったものはないかい? とても熱心に見ていたから」
「あ、いえ……」
この後は常連客だという男が来るまで、とりとめのない会話を三人で長く交わした。ハルのコミュニケーション能力には驚かされた。ずっと笑っていて、とても楽しそうだった。きっと家に帰れば元のぼやけたハルに戻るのであろう。
こいつにあの家は狭すぎる気がした。また親父に頼んで、この辺りをぶらついてみよう。また新たな発見があるかもしれない。自分も思ったより、変に思われていないみたいだ。
あと、二度も驚かしたくはないけれど、あの娘をまた見かけたい、というのも、ある。
***
料理が美味しかった。武器屋の店主と喋るのも楽しかったし、商品の武器も興味深かった。この街はいい。家とは違って、素の自分でいられる。
武器屋を出てからは散策を切り上げて、帰路に着いた。ロブは他人から見られることを恐れていたけれども、最後の方は顔を綻ばせて、僕と店主の会話に参加していた。その晩、近いうちにまた行こうと誘ってきたくらいだ。もちろん首を縦に振った。今度はどこに寄ろうか。それを考えるだけでもわくわくする。
と思いきや、週三回まで、決まった時間に帰ってくることを条件に外出を許可されたのだ。ロブにどんな交渉をしたのかと訊いたら、ご主人のところに行ったら向こうから言われたらしい。
「でもなあ、ますます親父の思惑が分からなくなってきたよ…」
「……下の子、今いくつだったっけ?」
「6つになったよ」
そういえば10月頃に大きなパーティーがあった。
「じゃあ、これからが大事とか?」
「そうだな。跡を継ぐための勉強やら稽古やら、本格的になるだろうな」
「きっとそれで忙しくなるから、こっちの面倒まで見れないとか……」
「どんなエリート人間になるのか、楽しみだぜ」
ロブは鼻で笑った。言いたいことは分かる。僕も同じことを考えているので、特に何も言わなかった。
「じゃあハル、次はいつ行きたい?」
「うーん……なら、明後日くらいに」
「よし、決まりだな」
ロブにも僕にも、外の世界は広く開けた、明るいものだった。身分の差も魔力の有無も、そこでは関係ない。ご主人が許す限りではあるけれども、何度でも赴いて、たくさんのことを知りたいと思った。忘れた記憶は、もしかすると僕自身にとっても要らないのかもしれない。
それから何度か、僕たちは出掛けた。変装の仕方はもう覚えたので、自分たちでやった。この日は前と違う道を歩いてみようということになり、そこにあった食堂でこれまた美味しい料理を食べた。また注意されそうだったので、ロブと同じ二杯目で止めておいた。
ちなみに、家で上品にちょっとずつしか食べないのは、家の料理が正直、自分の好みではないからである。念のため付け加えると、不味いとは思っていない。
食堂を出て、再び歩き始めると、とんだ偶然が起こった。
先日ロブとぶつかった女の子に、会ったのだ。