第3話 乾いた花瓶 - 6.7.1595
しばらく前や後ろをじろじろと見られた後、門番に乱暴に手を引かれ、少年は屋敷の玄関に連れて来られた。とても大きな屋敷だ。
「おい、ガキ。どうなろうと知らねぇからな」
大きな拳で門番がドンドンと叩くと、古い大きな扉は鈍い音を立ててゆっくりと開いた。
若いメイドが二人、少々驚いた様子だった。門番が玄関から訪ねてくることなど、そうそうない。それだけではない。その見知らぬ訪問者に、彼女たちも目を奪われた。
少年は目をぱっちりと開けて、不思議そうにメイドたちを見る。少年は少しだけ背が高く、中背の二人と目線がちょうど合っていた。
「あら……この子は?」
メイドの片方が少年の方を向いて門番に問いかけた。少し警戒しているようだった。
「こいつ、ちょっともったいない気がしてさ…一回ご主人にこいつを会わせたいのだが」
『ご主人様…ですか……!?』
突然のことに、二人は顔を見合わせる。
「ご主人…?」
少年も動揺している。こんな大きな家のご主人だと思うと、少し怖い。
「とても綺麗なお顔ね。お名前は?」
「あ…、その……」
少年は少し考えた後、首を小さく横に振った。
「覚えていないとか言い出すんだよ。どういうことやら…。まあ、小刀の一つでも持っていりゃあ面倒だと思ったが、なんにもなかったし怪しい奴じゃあないようだ」
それを聞いてメイドは肩をなで下ろしたが、名前のことが引っ掛かっているようだった。
「ぼく、こちらへおいでなさい」
「お洋服が汚いことになっているわ。早く着替えましょう」
「…はい」
よく分からないままに、少年は屋敷の奥へ連れていかれた。背後で扉の閉まる音がした。
***
あっという間に身なりを整えられてしまった。あれこれ為すがままにされて少々おせっかいだとも思ったが、身体はキレイになったし、良かれと思ってしてくれたのだろうと思い、口には出さなかった。
部屋の壁に鏡が備え付けられていたので見ようとしたところ、先程少年を迎え入れた二人よりも年上の、厳しそうな女性が入ってきた。傍らのメイドが、この屋敷のメイド長だと耳元で教えてくれた。
「迷い子は貴方かしら?」
「はい…僕です」
「ご主人様がお呼びですわ。行きましょう」
「……はい」
今度はこのメイド長に引っ張られて、少年は少し駆け足になりながら廊下を進んでいく。廊下に敷かれた鮮やかな絨毯、壁や天井に施された美しい装飾。
どれも華やかだったが、どこかそれだけでは言い切れぬものがあった。迷路のような廊下を何度も曲がりながら、その部屋の前に着いた。
「くれぐれも、無礼をはたらいてはなりませんよ」
「…分かりました」
自分は彼女にあまりよく思われていないようだ、ということが、上品な言葉や振る舞いの端々から見え隠れしていた。こんなにあっさりとご主人に会えるというのも不思議だったが、おとなしくしていればきっと大丈夫だろう。
メイド長がドアをノックする。向こう側から男の声がした。思っていたよりも若そうだった。
「さあ、お入りなさい」
彼女がガチャッとドアを開く。少年は押し込まれるような形で中に入った。
ドアが閉まる。ご主人は大量に書類が乗った机を前に脚を組んでいた。少年は背筋を伸ばした。
ご主人は比較的細身で、髪は短くしており、ひげもすっきりと剃られていた。40歳にもなっていないくらいだったが、由緒ある貴族の当主としての威厳を感じられた。それから……廊下を歩いているときのものと同じような、何かしら嫌味な感じもした。
「はじめまして、君がエイミーの言う迷い子だね?」
「はい」
少し大きな声が出てしまった。
「私はこのクレメンス侯爵家の当主、アルフレッドだ。君は――そうだ、君は自分の名前が分からないようだね」
「……はい」
「何か覚えていることは?」
「――1583年6月6日生まれです。それ以外は何も」
「そうか…つまり君は昨日から12歳だね?」
ご主人は立ち上がり、少年が突っ立っている前に屈んで、顔をまじまじと見つめた。こんな風に人に見られるのは疲れる。
「ほう……賢そうな顔をしているものだ…………しかし確か――いや、……」
少年を見つめながらぼそぼそと呟き、ご主人は一歩下がって不敵に笑った。
「……?」
「よし」
ご主人は少年の後ろに控えているメイド長――エイミーに向かって、顎を上げる仕草をして命令した。
「エイミー、“あれ”を持って来い」
「“あれ”…ですね。かしこまりました」
エイミーは退出した。一体これから何が起きるのだろうか。ご主人の威圧感で、少年には後ろを向く隙もなかった。隙を見せると何かされそうだと思った。早くここから逃げ出したかったが、だからといって他に行く当てがなかった。
まもなくエイミーが戻って来た。手にはペンと紙を持っていた。よく見ると、紙には細かい字で何か書いてあった。
傍らにある椅子に座らされ、手前に小さな机、その上にペンと紙を置かれた。
「さあ、解いてみなさい」
エイミーが言った。紙は問題用紙と解答用紙が一枚ずつで、問題用紙に書かれているのは、単語を答える簡単なものから難しい計算まで、さまざまな問題だった。
問題は最後になるにつれて難しくなっていた。少年は自分のことは何も覚えていなかったが、知識はしっかりとあったようで、全て解くことができた。
「……できました」
少年はペンを置き、エイミーにそっと解答用紙を差し出した。
ご主人がエイミーから少年の解答を受け取り、席についてじっくりと見る。全ての問題を解いたとはいえ、少年には答えが合っている実感がなかった。部屋の静けさが少年の不安をいっそう駆り立てた。
「君」
少年はびくっと肩をすくめた。
「……はい」
「凄いじゃないか。全問正解だ」
「え……?」
予想外の反応に、少年は目を見開いた。エイミーも口をぽっかり開けている。
ご主人に立たされる。机と椅子は撤収された。
「こんなにできる子は初めてだ。――なのに、本当に自分のことは覚えていないのだね? 誕生日以外は」
「はい……」
「君は良いところの子にも見えるが…身分なども分からないのだね?」
「はい」
ご主人が少年の目をじっと見て、念を押す。この空気をさっさと終わらせたい。
「じゃあ、君には――」
雇われるのだろう。それでいい。できれば人目に晒されにくい、目立たない雑務などがいい。最初から人を毛嫌いするのはよくないが、少なくともこのご主人とは距離を置きたいと思った。が、
「養子になってもらおう」
訳が分からなかった。息を吸って吐くのをゆっくり三度ほどしてから、意味は理解した。もう一度訊き返したかったが、そういう余裕はなかった。
「君の名前は…何にしようか?」
さっきは珍しい宝石を窓越しに見るような目だった。今やそれを手に入れて、自らの所有物として撫で回すようである。面倒なことになってしまった。
顔を綺麗だとかどうだとか言われても、自分の姿もまだ分からないのに――仮に本当にその通りだとしても、いずれにせよ過度な特別扱いは嬉しくない。
少年はご主人の机に置かれている書類に目をやった。聞いたこともない――というのも記憶のない少年には変な話ではあるが――難しい言葉ばかりで何のことが書かれているのか、さっぱり分からなかった。大人のものだから、分からなくて当然だが。
と……ふと、ある書類の見出しが目に留まった。
「は、る……?」
無意識に声に出た。その上に他の書類がいろいろと重なっていて、見出しは途中までしか見えなかった。
「そうだ」
ご主人は少年に隙を与えない。
「君の名前は、ハルだ。そうしよう」
ついに名前まで付けられてしまった。もう当分ここからは抜け出せないだろう。
ご主人はご満悦のようだ。諦めた方がいいかもしれない。何らかの拍子に記憶が戻ることを期待しつつ、それまではこの屋敷、この名前で暮らすしかないのだろう。
「かしこまりました――ご主人様」
ハルと名付けられた少年はご主人に微笑んだ。作り笑いだとは気付かれなかった。
***
より豪奢な服に着替えさせられた後、ハルは再びご主人の部屋に連れられた。
部屋には先程のご主人に加えてもう一人、ハルと同じくらいの背の少年がいた。赤い癖毛を長く伸ばし、後ろで束ねていた。前髪で顔の右半分が隠れぎみで、大きな灰色の左目がギョロっとハルの方に動き、ハルがびくっとしたのを見るとすぐに目を伏せた。
目鼻立ちはそこそこ整っているようだが、それよりも怖いという印象を強くもたらした。
ご主人がその少年の肩にポンと手を置いた。
「こいつはロバートという。私の息子で、来月で14になる。今日から君のお兄様だ。よろしく頼むよ」
「…………―――」
ご主人の息子という少年は下を向いて黙りこくっている。
「ほら、お前も挨拶しろ」
「……よろしく」
少しだけ視線を上げて、小さな声で言った。そして去り際に、ハルの耳元で囁いた。
「…“お兄様”とか、そういうのは要らない。ロブって呼んでくれ」
ドアはやや大きな音を立てた。ご主人の用事はそれだけだったようなので、ハルも後を追うように部屋を出て行った。