ロスト
「目」を、開けた。
ザーザーという激しい「音」が、「身体」に打ちつける「冷たさ」とともに聞こえていた。
寒い。
痛い。
これは、「雨」だ。
身体が凍え、むせかえる「土」の「におい」に耐え切れず、思わず起き上がった。「僕」はずぶ濡れになっていて、土で汚れた「服」が身体に貼りついて少し気持ち悪い。「僕」は「手」で、同じように「顔」に貼り付いていた短い「髪の毛」をかき上げた。
あたりは薄暗かったが、目が慣れると、だんだんはっきりと見えるようになった。
たくさんの大きな四角の「石」が並んでいる。中には十字の形のものもある。
ここは……「墓場」だ。
立ち上がり、「足」で土を踏む。何歩か歩くと、硬い感じがした。「僕」は、他よりも柔らかい土の上に倒れていたようだ。
周りを見渡すと、自分の倒れていたところだけ、「草」が生えていなかった。
では、ここには「僕」の――
いや、そんなことはない。「目」も「耳」も「鼻」も働いている。「手」も「足」も自由に動く。
「僕」の「身体」は、生きている。
そもそも、そもそもだ。どうして「僕」はこんな場所にいるのだろうか。
「何」があったのか。
いつ、どのようにして、ここに来たのか。
それとも、「誰か」が「僕」をここに連れてきたのか。
改めて、周囲を見回してみる。雨は依然として強いままである。
誰のものか分からない墓には、「名前」と二つの「数字」が刻まれていた。
すぐに思い出した。これらの「数字」は「生まれた日」――すなわち「誕生日」と「死んだ年」――「命日」だ。
ああ、自分にも「生まれた日」があったはずだ、と勘づいた矢先、足元の地面に何か書いてあるのを見つけた。「数字」だった。
6.6.1583
子供が書いたような字だった。「僕」の字ではなかったが、これが「僕」の「誕生日」であろうと理解した。根拠など気にしなかった。なぜ「僕」の字ではないのが分かるのかとか、どうして自分の誕生日を覚えていないかなどという理屈も……
あれ?
墓標に刻まれた「名前」を見て、自分の「名前」を地面で探してみる。しかし、どこにも見当たらない。
どこだろう。「僕」の「名前」は……
「僕」は、「誰」?
はっと、我に返った。自分の誕生日はおろか、名前すら自分自身で覚えていないなど、そんなことがあるだろうか。ないだろう。
どうして?
状況を整理して、冷静に考え直そう。「僕」は「墓場」に倒れていた。「雨」の「音」と「冷たさ」、「土」の「におい」で目を覚ました。そして、「僕」は――
両手で顔に触れると、口の周りが膨らんでいた。
これは「唇」である。
鼻の左右に柔らかい感触があった。
これは「頬」である。
目の少し上に毛が生えていた。
これは「眉」である。
これら以外にも、身体には場所によって名前がついている。
しかし、そういうことではない。「僕」というひとまとまりで一つ「名前」があるはずである。そこで引っかかってしまう。
とりあえず、ざっくり分けて二つ、気付いたことがある。一つは、「僕」はこの状況がおかしいということが分かること。自分のものと他人のものの区別もつくから、きっと全くの無知ではないのだろう。
そして、もう一つ。
「僕」は「僕」自身について、何もかもを覚えていないのだ。
このままでは、凍え死んでしまいそうだ。どこか雨をしのげる所へ行かなければならない。
早く、探さなければ。そう思った時、地面に書かれた「僕」の誕生日のすぐ横に、矢印が幾つも描かれているのが目に付いた。
「これは……?」
***
夜が明けつつある中、少年は雨宿りの場所を求めて彷徨う。時折吹く冷たい風が、容赦なく身体の熱を奪っていく。
ここは少年にとっては覚えていない――知らない場所だ。どこに何があるかなどもってのほかである。雨に濡れない場所であれば、どこでもいい。雨は未だ止まない。寒い。
とりあえず、墓場で見た矢印の通りに道を辿ることにした。誰にも会うことはなかった。危ないところかもしれないが、そこを目指して進むしかなかった。
道は墓場を出てから舗装されており、直線的で分かりやすく、少年の足は軽かった。
雨の降り方が少し緩やかになってきたころ、目の前に大きな館が見えてきた。重厚な門の前には、柄の悪そうな門番が立っていた。武装していて顔はよく見えないが、無精ひげを生やしていて、若くはなかった。
だるそうだ。そのうえ何かぶつぶつと呟いているのが、遠目から口の開閉で分かった。
嫌な予感もしたが、墓場の矢印は確かこの場所で終わっていた。仕方がない。何か怖いことをされそうになったらすぐに逃げよう。そう気を引き締めて、少年は門番のもとに近づいた。
「…ったく、ご主人は人使いが荒いぜ、オレだって人間だっつーの……」
愚痴をこぼす門番はお疲れのようだ。
「なんだぁ、このガキ……ん?」
「あの――」
門番は息を呑んだ。
「ここに、泊めていただけませんか?」
艶のある美しいブロンドの髪を短く切り揃え、二重で切れ長のまぶたを覆うまつげは長い。
ぱっちりと開かれた鮮やかな碧い瞳、
凛々しい眉、
高い鼻、
薄い唇、
細い首。
シャツから透けて見える白い肌。
肉の薄い身体。
少年は、雨に濡れた身体を小刻みに震わせながら、そう訊ねた。
「…………―――」
もう夜明けではあるが、少年にとっては、こう言うしかなかった。門番は困惑して、何も言えなかった。まだ薄暗かったが、先程よりも日が昇っていた。