第10話 天使は平穏を目指し続ける
王都から戻って一週間。
エミリア・アシュフォードは悩んでいた。
とても。
非常に。
真剣に。
「おかしいですわ……」
机に突っ伏しながら呟く。
目の前には『へいおんなみらいけいかくしょ』。
もはや愛用のノートだった。
開く。
確認する。
そして閉じる。
もう一度開く。
「やっぱりおかしいですわ……」
何度見ても変わらない。
攻略対象との遭遇率が異常だった。
セドリック。
ノア。
ルーク。
レオナルド。
全員と接触済み。
本来の物語より圧倒的に早い。
そして。
誰も彼も距離が近い。
「なぜですの?」
本気で分からなかった。
◇◇◇
だが。
もっと大きな問題があった。
未来が変わっている。
それである。
セドリックは原作より柔らかい。
ノアは原作ほど孤独ではない。
レオナルドは原作より年相応。
そして。
収穫祭の火災事件。
存在しなかった出来事。
「うぅ……」
頭を抱える。
前世知識は武器だった。
未来を知っている。
危険を知っている。
だから回避できる。
そう思っていた。
しかし。
未来が変われば。
その武器は少しずつ役に立たなくなる。
「これでは先が読めませんわ」
不安だった。
正直に言えば怖かった。
◇◇◇
その日の午後。
珍しく父が部屋を訪ねてきた。
「エミリア」
「はい?」
子爵は少し困った顔をしている。
「相談があるんだ」
「なんでしょう」
「最近、領都で変な噂が広がっていてな」
エミリアは首を傾げた。
「うわさ?」
「ああ」
父は苦笑する。
「うちの娘が天使だという噂だ」
「……」
エミリアは無言になった。
知っている。
昔から言われている。
だが。
「まだ続いていたのですの?」
「むしろ広がっている」
「なぜですの?」
「火事の時の件もある」
エミリアは遠い目をした。
あれか。
あの迷子の少女の件か。
少し手伝っただけなのに。
「それだけじゃない」
父は笑う。
「領民たちは知っているんだ」
「?」
「お前が昔から困っている人を放っておけないことを」
エミリアは何も言えなかった。
◇◇◇
夕方。
庭園を歩く。
考え事をしたい時の習慣だった。
風が心地良い。
花も綺麗だ。
平和だった。
だからこそ。
ふと考える。
「わたくしは何をしたいのでしょう」
平穏な人生。
もちろん望んでいる。
危険な目にも遭いたくない。
死にたくない。
事件にも巻き込まれたくない。
それは変わらない。
けれど。
ノアを助けたこと。
後悔しているか。
していない。
セドリックに手を差し伸べたこと。
後悔しているか。
していない。
迷子の少女を助けたこと。
後悔しているか。
していない。
「……」
小さく息を吐く。
結局。
何度やり直しても同じだろう。
見捨てられない。
困っている人を放っておけない。
そういう性格なのだ。
◇◇◇
その時だった。
「エミリアお嬢様!」
使用人が慌てて駆けてくる。
「どうしましたの?」
「お手紙です!」
「……またですの?」
嫌な予感しかしない。
使用人は笑顔だった。
「王都からです!」
絶対に嫌な予感しかしない。
◇◇◇
恐る恐る受け取る。
封蝋を見る。
そして。
固まった。
「……」
「お嬢様?」
「……」
王家の紋章だった。
静寂。
数秒。
いや十秒。
エミリアは現実逃避した。
だが現実は変わらない。
「……マリア」
「はい」
「これ、王家ですわよね?」
「はい」
「見間違いではなく?」
「はい」
「そうですの」
終わった。
そう思った。
◇◇◇
震える手で開封する。
中には綺麗な文字。
短い文章。
『先日はありがとう』
『また話したい』
『もし良ければ返事をください』
レオナルド・アルヴェイン
エミリアは天を仰いだ。
「なぜですのーーー!」
屋敷中に響いた。
使用人たちが心配して集まってくる。
マリアが慌てる。
父まで飛んでくる。
小さな騒ぎになった。
◇◇◇
その夜。
ベッドの中。
エミリアは手紙を見つめていた。
窓から月明かりが差し込む。
静かな夜。
「……」
しばらく黙る。
そして。
ふっと笑った。
「本当に変わっておりますわね」
原作ではありえない。
王太子からの手紙。
しかもただ話したいから。
そんな展開はなかった。
未来は変わった。
確実に。
良い方向なのか。
悪い方向なのか。
まだ分からない。
けれど。
「まあ」
エミリアは手紙を閉じる。
「なんとかなるでしょう」
少しだけ前向きな声だった。
前世知識だけに頼れなくなった。
未来も分からなくなった。
それでも。
家族がいて。
友達がいて。
助けたいと思える人たちがいる。
だから進める気がした。
平穏を目指す気持ちは変わらない。
だが。
以前より少しだけ。
世界を好きになっていた。
◇◇◇
そしてその頃。
王都では。
「返事、来るかな」
レオナルドが窓の外を見ていた。
公爵家では。
「エミリアなら何と書くだろう」
セドリックが手紙を読み返していた。
小さな家では。
「もっと勉強しよう」
ノアが魔導書を開いていた。
騎士団本部では。
「次に会ったら何を話そうかな」
ルークが笑っていた。
誰もまだ気づいていない。
平穏を目指してフラグを折り続けた少女が。
いつの間にか。
たくさんの人の未来を変えていたことに。
これはまだ序章。
天使と呼ばれた子爵令嬢の物語は、ここから少しずつ大きく動き始める。
そしてエミリアはまだ知らない。
彼女が折ったはずの運命のフラグが。
全く別の形で育ち始めていることを。
――第一章 天使は運命を知る 完。




