第8話: 静かにさせろ
笑い声が聞こえた。
それ自体が、五ヶ月前には考えられないことだった。
エミリアが手を叩いている。マティアスが揺り籠の中で声を上げている。「あー」とも「うー」とも聞こえる、六ヶ月の赤ん坊の歓声。
私は膝の上で三拍子を叩いていた。エミリアがそれを真似して、小さな掌で自分の膝を叩く。リズムはずれている。でもずれ方が可愛くて、エミリア自身がそれを面白がって笑う。マティアスは姉の笑い声に呼応して声を出す。
子供部屋が——初めて、子供の部屋らしい音に満ちていた。
ルーカスは窓辺にいた。本を開いてはいるが、ページをめくっていない。耳を傾けているのだろう。この子は加わらない。でも離れもしない。この部屋にいることを選んでいる。
窓の向こうでは、秋の風が庭木の葉を揺らしていた。着任から七ヶ月。季節が二つ過ぎた。
エミリアが特に大きな声で笑った時——廊下から足音が近づいてきた。
ヒルデの足音ではない。あの人の靴音は規則的で硬い。これは——もっと重い。速い。怒りを含んだ足取り。
扉が開いた。
「何の騒ぎだ」
エドワード・ヴェルナー。
子供部屋に足を踏み入れたのは、着任初日以来だった。七ヶ月間、一度も来なかった。子供の名前を間違え、観察記録を読まず、養育状況を聞こうともしなかったこの人が——笑い声に引き寄せられて来た。
笑い声を聞いたのではない。騒音を聞いたのだ。
エミリアの手が止まった。笑い声が凍った。三歳の体が、父親の声を聞いて硬直している。マティアスも泣き止んだ——泣いていたのではない、笑っていたのだが、突然の低い声に驚いて黙った。
「静かにさせろ。階下まで聞こえている」
灰色の瞳が部屋を見回した。開け放たれた窓。揺り籠のそばに座る私。膝の上の手。エミリアの止まった手。
何も見ていない。子供たちの変化を——頬に肉がついたマティアスの顔も、言葉を話すようになったエミリアの目も、窓辺で本を読む振りをしているルーカスの姿も——何一つ見ていなかった。
「エドワード様。失礼ですが、これは騒ぎではございません」
声が震えなかったのは、前世で何度も保護者対応をしてきたからだ。怒っている保護者の前で声を震わせたら負ける。穏やかに、でも明確に。
「騒ぎではない? 子供が叫び、手を叩いている。これが騒ぎでなければ何だ」
「発達支援でございます」
言った。
この世界にはない言葉を。前世の保育学の用語を。
エドワード様の眉が寄った。聞き慣れない言葉に対する、不快ではなく困惑の表情。
「……何だと?」
「子供が手を叩くのは遊びではありません。リズムに合わせて体を動かすことは、言葉の発達を促します。エミリア様の言葉が増えたのは——」
「言葉が増えた?」
エドワード様が私を遮った。遮り方に迷いがなかった。この人は、エミリアが言葉を話すようになったことを知らなかったのだ。五ヶ月前は「まま」しか言えなかった子が、今は短い文を組み立てている。それを知らなかった。知ろうとしなかった。
「エミリアは三歳です。この時期に言葉が急速に増えるのは、周囲の働きかけ次第です。手拍子も、歌も——」
「歌?」
背後から声がした。
ヒルデだった。いつの間に来たのか。扉の外に立っている。教鞭を右手に持ち、背筋を伸ばして。エドワード様の声が階下に響いたのだろう。駆けつけたのか、それとも——様子を見に来たのか。
「メルツ嬢。歌は禁じたはずです」
「歌は歌っておりません。手拍子を——」
「遊びであることに変わりはありません」
ヒルデが部屋に入ってきた。エドワード様の隣に立った。物理的にも、立場としても。
「エドワード様。私も同意見です。遊びに教育的価値はございません。養育係が子供を騒がせることは、公爵家の家訓にも反します」
二対一。
エドワード様とヒルデが並んで立っている。片方は子供に無関心な父親、もう片方は三十年の実績を持つ教育のプロ。この二人に「発達支援です」と言っても、通じない。通じるはずがない。この世界には「発達支援」という概念がない。
エミリアが私の後ろに隠れた。小さな手が背中の布を掴んでいる。マティアスは揺り籠の中で唇を震わせている——泣く直前の顔だ。
「……失礼いたしました。以後、音が大きくならないよう気をつけます」
引き下がった。ヒルデに歌を止められたあの日と同じだ。——いや、あの時より悔しい。あの時はヒルデ一人だった。今はエドワード様がいる。この家の主人が「静かにさせろ」と命じた。それは家訓ではなく、命令だ。
エドワード様が踵を返した。子供たちを一度も見なかった。
「管理できないなら、養育係を替える。母が連れてきた者だが、結果が出ないなら用はない」
扉が閉まった。
「管理」。この人にとって、子供は管理するものだ。育てるのではなく、黙らせるのでもなく、管理する。静かにしていれば管理できている。騒いでいれば管理できていない。
結果——「結果が出ないなら用はない」。この人が求める結果とは何だ。子供が静かにしていること。行儀よく座っていること。名前を呼ばれたら返事をすること。それが「結果」だとしたら、私がやっていることの全てはこの人の求める結果とは正反対だ。
ヒルデがまだ部屋にいた。
教鞭を持つ手が微かに揺れたように見えた。気のせいかもしれない。
「メルツ嬢。今後は静かにお願いします」
それだけ言って、ヒルデも踵を返した。
廊下に出て——三歩。四歩。五歩。
足音が止まった。
振り返ったのだと思う。私の位置からは見えなかった。でも足音が一瞬だけ止まって、それからまた歩き始めた。
あの人は何を聞いたのだろう。エドワード様が去った後の子供部屋から、何も聞こえなかったはずだ。笑い声は凍りついていた。エミリアは私の後ろで小さくなっていた。
——いや。
もしかしたら、ヒルデが振り返ったのは、さっきまで聞こえていた笑い声のことを考えたからかもしれない。子供たちが笑っていた。手を叩いて、声を上げて、この部屋が初めて子供の部屋らしかった、あの数分間のことを。
三十年の教育で、笑い声を聞いたことがなかったのだろうか。
分からない。ヒルデの足音は廊下の奥に消えた。
エミリアが私の背中から離れない。
「大丈夫だよ。もう行ったよ」
「……おとうさま、こわい」
エミリアが初めて父をそう呼んだ。「お父様」ではない。平仮名の「おとうさま」。恐怖の対象として。
「大丈夫。怒っていたのはお父様であって、エミリアに怒ったんじゃないよ」
嘘だ。エドワード様は子供たちの音を「騒ぎ」と呼んだ。子供たちの存在を否定したのだ。でも三歳にそれを言えるはずがない。
ルーカスが窓辺から動かない。本を閉じてもいない。開いてもいない。ただ座っている。五ヶ月前の虚ろな目とは違う。今の目には光がある。でもその光は——静かな怒りに似ていた。
この子は全部聞いていた。父の「管理」という言葉も。「用はない」という言葉も。
マティアスが泣き始めた。さっき笑っていた口から、甲高い泣き声が上がった。赤ん坊は空気の変化を全身で感じる。さっきまで温かかった空気が、一瞬で冷たくなったことを、この小さな体が知っている。
揺り籠に駆け寄って、マティアスを抱き上げた。背中をさすりながら、エミリアの頭をもう片方の手で撫でた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
大丈夫ではなかった。「養育係を替える」とエドワード様は言った。イルマ様が招いてくれた養育係——私がここにいられるのは、イルマ様の口添えがあるからだ。エドワード様が本気で替えると言えば、私はこの子たちの前からいなくなる。
そうなったら、この子たちはどうなる。エミリアの夜泣きが戻る。マティアスの離乳食が止まる。ルーカスの指先が、もう二度とリズムを刻まなくなる。
——させない。
やり方を変えるしかない。音を出さない方法を考える。エドワード様に「静か」を提供しながら、子供たちの発達を止めない方法を。
前世の保育園でもあった。「うるさい」と苦情を入れる近隣住民への対応。防音対策。活動時間の調整。窓を閉める。声量を落とす。——本質を変えずに、外側を変える。
それでも足りなかったら。
ノートを見せよう。五ヶ月分の観察記録。一日も欠かさず書き続けた、この子たちの成長の全記録を。数字で、事実で、子供がどれだけ変わったかを示す。
エドワード様が求める「結果」と、私が見ている「結果」は違う。でもいつか——このノートが橋渡しをする。そう信じるしかなかった。
エミリアがようやく私の背中から離れた。目が赤い。泣いてはいない。泣くのを堪えていた。
「……フィオナ。またやる?」
手拍子のことだ。
「……うん。やろうね。でも今度は、もう少し小さい音で」
エミリアが頷いた。小さく。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「養育係を替える」——エドワードのこの一言を書いた時、自分の手が止まりました。五ヶ月間の成長を一切見ていない父親が、「管理できないなら替える」と言い放つ。この人は子供が嫌いなのではない。子供を「見ていない」のです。見ていないから、笑い声が騒音にしか聞こえない。
ヒルデが振り返った瞬間は、この話で最も大切な一秒です。足音が一瞬止まった。それだけ。でもあの一瞬に、三十年の信条が初めて揺れた可能性がある。確証はありません。フィオナの位置からは見えなかった。だからこそ読者の想像の余地を残したかった。
エミリアの「またやる?」で救われた気持ちになりました。怖い思いをした三歳の子が、それでも手拍子をまたやりたいと言う。子供は大人が思うより強い。そして脆い。その両方を持っている。
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