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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


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第28話: 椅子を投げる子

 三日目の午後、道の両脇の杉の梢の色が一段深くなった。乾いたわだちの平たい層を離れて足の裏の感触が湿った土の匂いの濃い方へ沈んだ。


 肩の革鞄の紐の下に残った三日分の熱の粒が首筋の産毛の根元でゆっくりと冷め始めていた。




 森の切れ目に木の立て札が立っていた。日に焼けて端の木目が白くけた板の上に墨で三つの文字が書かれていた。


 グリューネヴァルト。


 異世界の舌の上で森と森の重なった古い地名。イルマ様の紹介状の一行目、インクの滲みの最後の一文字の場所だった。


 立て札の向こう、緩い下り坂の先に集落が見えた。藁葺きの屋根が八軒か九軒。低い井戸の横で日に焼けた女が一人、手ぬぐいで首筋を拭っていた。指の節の赤銅色が西日の中で鈍く光った。王都の白い肌の侍女たちの手の甲とはまったく別の人の手の色だった。




 集落のいちばん奥、木立の手前に板張りの小さな平屋があった。入り口の横の長いひさしの下に白墨はくぼくの擦れた丸い文字が一行書かれていた。


 ——「みんなの、学びや」


 王都の学園の青銅の扁額へんがくの重さとはまったく違う手の軽さの文字だった。最後の「や」の右下のはねの角が擦れて消えかけていた。


 三日分の街道の豆の皮が革靴の縁の内側にじんと響いた。




 学び舎の扉は半分だけ開いていた。


 奥から声が聞こえた。若く少し張った、焦りに擦れた縁の男の声。


 「トビアス——やめなさい。トビアス、頼むから座って——」


 続いて木の椅子の脚の擦れる音。下の層でもう一つ鋭い音が床板を打った。年下の子の短い悲鳴。


 「——うるせえ! 関係ねえだろ!」


 高く尖った少年の声。八歳くらいの、変声の手前の硬い層の奥から押し出された声だった。


 革鞄の紐の掌の中の温度が一度低くなった。私は扉の半分の境のところに立った。




 奥の薄暗い光の中に粗末な木の机が六脚。端の一脚だけが倒れていた。まだ埃の粒が散る前の位置のままだった。


 手前の床板の上に赤毛の少年が立っていた。ぼさぼさの日に焼けた赤い髪。膝のズボンの擦れた布の穴の下で薄い絆創膏の紙の縁の黄色い粘着の端がめくれていた。


 右手にはもう一脚の椅子が握られていた。脚の片方は既に半寸ほど床から浮いていた。半袖の下の日焼けの肘の内側が振りかぶりの形に入り始めていた。


 壁際で年下の子供たちが三人、肩をすくめていた。


 ——助けを求めている。


 前世の指先のいちばん古い層のところから判断が二拍先に立ち上がってきた。




 少年の斜め左に若い男が立っていた。日に深く焼けた肌。亜麻色の乱れた短い髪。襟の白い布の端に白墨の粉の薄い筋が三本、横に流れていた。


 男の右手は少年の肘の外側へ半分伸ばされたまま止まっていた。


 ——止めるか。押さえるか。離すか。


 三つの選択肢のどれも次の一拍の間に決めきれていなかった。


 深い緑の瞳の奥に一瞬、別の色が通った。怒りでも困惑でもない。もっと古い層の——悲しみの縁のひと擦れだった。


 ——この方は過去に止められなかった子供がいる。


 前世の保育士の耳の奥でそう聞こえた。




 「……失礼いたします」


 扉の内側の薄暗い光の手前に革鞄を静かに置いた。


 男が振り返った。深い緑の瞳の外側の層に朝日の薄い反射のような明るい驚きが一粒生まれた。下の層にはまだ焦りが残っていた。


 「……ど、どなた」


 「メルツと申します。イルマ・ヴェルナー奥様の紹介状を預かってまいりました」


 私の声は子供の耳の薄い層の下までは届かないように、大人の側へわずかに寄せた。


 男の眉の端の日焼けの深い縁が一度跳ねた。跳ねた先で男は少年の腕の外側から右手を静かに引いた。


 「……レオン・グリューネです。ここの教師の」


 「教師」の音のところでレオン様の左の靴の爪先の位置が半寸、私の方へ傾いた。




 赤毛の少年が顔をこちらへ向けた。左の頬に乾いた土の粒が二つ。褐色の大きな瞳がまっすぐに見た。


 「……あんた、だれ」


 椅子の握りはまだ緩んでいなかった。


 私は膝を折った。腰の重さの全部を靴底に預けた。五年前の公爵邸の最初の子供部屋の、この高さ。三年半、同じ高さを子供たちの目の前に置き続けてきた。


 「メルツ。メルツ・フィオナよ。今日からこの集落でお世話になるの」


 「メルツ? ……変な名前」


 下唇の左の角が一度引きった。中指の第二関節の白さが半拍緩んだ。


 「あなたのお名前は?」


 「……トビアス」


 「トビアス様」


 「——様なんてつけんな。気持ち悪い」


 眉の外側の角が上がった。振りかぶりの形が半分戻った。戻った腕の下の層で別の小さな震えが一拍走った。


 ——怒っているのではない。


 前世の指先の三千日分の観察の記憶が、静かに判断を置いた。


 ——この子は注目を求めている。誰にも本気で目を合わせてもらえていない。だから椅子を投げる。


 椅子の音は「助けて」の、この子が今話せるいちばん大きな言葉だった。




 「……トビアス」


 様を外した。外した先で八歳の瞳のいちばん奥に一拍、水分の薄い膜が生まれた。膜はまぶたの縁には上がらなかった。上がる前に歯が一度噛み合わされた。


 「椅子を一度、床に戻してくださる?」


 「やだ」


 「……そう。なら持っていて」


 右手の掌を椅子の座面のいちばん手前の角にひらりと添えた。握りは取らなかった。ただ添えた。


 「——な、なんだよ」


 「軽いのね、この椅子」


 「軽いから何だよ」


 「投げられるから軽いんじゃない。軽いから投げられてしまうの」


 最後の「の」の終わりでトビアスの手の甲の筋の盛り上がりが半寸沈んだ。


 「——何言ってんの、あんた」


 「先生はね、軽い椅子が好きなの。運びやすいから」


 掌を離した。立ち上がる膝の速さは子供の瞳の瞬きの速さに合わせた。


 椅子の握りはゆっくりと下がった。下がりきる一拍手前で少年は自分の靴の爪先を一度睨にらんだ。睨んだ先で脚の四本の床への当たり方は半拍、静かに戻った。擦れの音は鳴らなかった。




 「……なんで」


 「なんで、って?」


 「なんで怒んねえんだよ」


 「怒る必要がないから」


 「椅子投げたんだぞ!」


 「ええ。だから次は床に置いて」


 短い二つの言葉の往復。二拍目の終わりに、赤毛の前髪の下の眉の内側の付け根に、五年前の春の最初の子供部屋のルーカス様の虚ろな瞳の外側の薄い膜と同じ質の、水分の予備のひと粒が生まれた。


 粒は瞼の縁には上がらなかった。上がる前にトビアスの頭の右の耳の奥から別の小さな音が聞こえた。


 小さな息の音。女の子の息。




 トビアスの右肩の向こう、机のいちばん奥の列の影の中。


 小さな赤毛の女の子が立っていた。トビアスと同じ赤毛、ただずっと柔らかい。肩の手前で小さな両手の指が二本ずつ、ぎゅっと握られていた。指の第二関節の白さの下にトビアスのシャツの裾が挟まれていた。


 瞳は灰色がかった深い緑。口は閉じていた。唇の縁の薄い産毛の先で息の小さな一筋がひらりと出入りしていた。


 ——声を出さない。


 前世の保育園の裏庭の砂場の端で三十日間、一言も発しなかった小さな背中の記憶が、私の喉の下の層で一度立ち上がった。


 選択性緘黙せんたくせいかんもく。前世の教科書の黄ばんだページの三つ目の項目の見出しの文字。


 この子は話せないのではない。話せる。ただ今、ここでは話さないと決めている。




 「……この子は」


 声は「は」のところで半拍止まった。


 トビアスの左手が瞬時に動いた。妹の指の挟み込んだ場所の外側を広く掌で覆った。


 「——手、出すな」


 八歳のいちばん素直な兄の構えの形。椅子の振りかぶりの震えとは別の種類の硬さが声の下の層に入っていた。


 「……出しませんわ」


 半歩、後ろへ引いた。


 「お名前は?」


 トビアスは答えなかった。女の子の灰緑の瞳の内側の深い層で一度、光が揺れた。唇の縁の産毛の一本がほんの半拍震えた。震えた先で声は出なかった。


 レオン様が半歩近づいた。最初の焦りの擦れの音とは違う、底の届いた重さの足音だった。


 「……ドロテアです。トビアスの妹。四歳。声を出さないのです。もう二年近く」


 「出さないのです」の「の」で、深い緑の瞳の奥の古い層の悲しみのひと擦れが、もう一度ほんの半拍通った。


 ——この方はこの兄妹をずっと一人で抱えている。もう一つ前に失った別の子供の冬の重さを、この二年、毎朝、教室の光の中で思い出している。




 もう一度膝を折った。高さはトビアスの目ではなくドロテア様の目に合わせた。合わせた先で灰緑の瞳がほんの半拍、私の翡翠色の瞳の外側の層をのぞいた。


 「トビアス。先生はね、ドロテア様にもトビアスにも小さなお友達にも何もしないわ。ただ明日から同じ部屋にいるだけ。怖がらなくていいの」


 「……怖がってねえよ」


 「そうね」


 「先生って、なんだよ」


 「子供にものを教える人のこと」


 「教える? 何を」


 「お歌。お絵描き。数えかぞえうた。文字はレオン先生に教えてもらえばいい」


 「——歌なんか覚えてどうすんだよ」


 上唇の右の角の乾いた皮膚の一枚が一度捲れた。捲れた先でトビアスは右手の椅子をゆっくりと床に置いた。置いた椅子の脚の四本の音はほとんど鳴らなかった。


 「何にもならないかもしれない。けれどお歌が一つ覚えられたら、ドロテア様があなたの隣で足を揺らすかもしれないわ」


 トビアスは何も答えなかった。答えない口の下の喉のいちばん下の層で一度、小さな水分の音がした。


 ——飲み込んだ。


 今朝の街道の乾いた土の、轍のいちばん深い溝の底に昨日の私が拾わないまま残した嘘の欠片と、よく似た硬さをしていた。




 「……俺、帰る」


 トビアスは妹の指の挟み込みを一度、掌の下からそっと外した。外した掌をそのまま妹の肩の薄い布の上に斜めに差した。


 「行くぞ」


 ドロテア様は頷かなかった。頷く代わりにシャツの裾の布の一筋のしわのいちばん深い谷に、指をもう一度深く預けた。


 兄の半歩分の歩みに合わせ、妹の小さな足が同じ速さで一歩進んだ。


 机の列の脇を抜ける時、灰緑の瞳がもう一度、私の方を見た。見た瞳の奥のいちばん底で、声の代わりに指一本分のひらりの明るい色が生まれた。生まれた色は私の瞳の内側の深い層に、一粒、静かに落ちた。


 扉が閉じた。二組分の小さな足音が坂の下の井戸の方へ、二拍ずつ遠ざかっていった。




 教室の空気が一度、静かに落ちた。


 レオン様がふう、と短く息を吐いた。一日分の疲労の長さの息だった。


 「……驚かせてしまいましたね」


 「いいえ」


 「あの子はいつもああなのです。昨日は石を投げました。今日は椅子で済んだ」


 「済んだ」の音で右手の指が白墨の粉の筋の上を一度擦こすった。白い粉の端が床板の木目の上にひらりと散った。


 「いつからですか」


 「——僕が着任してすぐです。半年くらい前」


 「椅子の前は」


 「石。その前は他の子の髪を引っ張った」


 「その前は」


 レオン様は半拍黙った。深い緑の瞳が粗末な木の壁板の節目の一つへ向けられた。


 「……母上が病で寝た直後」


 「ありがとうございます」


 「何のお礼ですか」


 「教えてくださったこと」


 「僕はあの子をどう扱えばいいのか、わからないのです」


 「わからない」の音で革鞄の紐の掌の中の温度が一粒分、静かに変わった。


 ——この方は「わからない」を「わかる」の隣に置く人だ。




 「……レオン様」


 「は、はい」


 「明日からお手伝いをさせてください」


 「——手伝い?」


 「教材の整理。お掃除。子供の見守り」


 「報酬は出せませんよ。僕の給金も遅配なので」


 「軒下をお借りできれば、それで充分です。食事は井戸の脇のお婆様にお願いしてみますわ」


 深い緑の瞳にもう一度、朝日のような明るい驚きが生まれた。今度の粒の下の層に焦りはなかった。


 「……正気ですか」


 「正気ですわ」


 「こんな辺境に奥様の紹介状を持ってきていただいた方が軒下ですか」


 「軒下で構いません」


 レオン様は右手を一度、額に当てた。白墨の粉の筋の一本が額の日焼けの縁に横一直線につながった。


 「……変なお方ですね」


 「よく言われますわ」


 薄く笑った。笑った先の頬の筋の動きが、三日分の街道の乾きの下の層にふと届いた。どこの夜の宿のはりの影の下でも届かなかった場所だった。




 西日が傾いた。扉の隙間から森の杉の梢の赤く染まり始めた先端が差し込んだ。光の中、乾いた板床の木目のいちばん深い溝の底に、トビアスの椅子の脚の擦れの痕の黒い短い線が残っていた。


 革鞄を拾った。紐の端の温度はもう、王都の朝の石畳の冷気とは別の、森の夕方の湿った土の温度に置き換わっていた。


 ——明日の朝、最初にすることは。トビアスの目の高さで椅子の置き方をもう一度尋ねること。そしてドロテア様の灰緑の瞳に落ちた指一本分の明るい色の場所に、歌の低い短い一節をそっと置いてみること。


 前世の保育士の三千日分の古い引き出しの奥の柔らかい音の一節を、今夜、藁葺きの軒下で声の下の層から引き出す準備を始めよう。


 子守歌ではなく、目覚めの歌を。




 扉を出た時、坂の下の井戸の縁の女はもういなくなっていた。水面の西日の赤い反射に、赤毛の二つ分の人影の残像がひらり、ひらりと揺れていた。


 静かな水面に三日分の街道の疲労が一度、ゆっくりと沈んだ。沈んだ先で、明日の赤毛の少年の飲み込んだもののところに指一本分の翡翠色の光をそっと置きに行く覚悟が、一つ立ち上がった。


 ——ここでも私の仕事は見える仕事になるのかもしれない。また見えない仕事に沈むのかもしれない。どちらでも構わない。


 次の一歩は軒下の薄い影のいちばん深い方へ進んだ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第二十八話「椅子を投げる子」は、第三アーク「承」の一話目、辺境グリューネヴァルトへの到着を書きました。公爵邸の青銅の扁額の重さとは違う、白墨の擦れた「みんなの、学びや」——手の軽さの文字を、新天地の第一印象として置きました。


 トビアスの椅子は、「助けて」の、今、この子が話せる、いちばん大きな言葉として描きました。フィオナが怒らない理由は、前世の保育士の二行の判断——この子は注目を求めている、誰にも本気で目を合わせてもらえていない——に尽きます。軽い椅子、運びやすい椅子、の短い往復は、「怒る/叱る」の文法から「見る/聞く」の文法へ、この子の足元の板を、ひと枚、ずらす試みです。


 ドロテア様は、今日は声を持ちません。灰緑の瞳の、指一本分の、ひらりの明るい色だけを、フィオナの翡翠色の瞳の中に、一粒、落としました。次話の歌遊びの最初の音が、この子の唇の産毛の震えに届くまでの時間を、静かに、置いていきます。


 Arc 2で「見えない仕事」として抑えた専門性の灯りが、辺境では「必要とされる場所」を得る——この裏返しを、レオン様の「わからない」と、フィオナの「軒下で構いません」の二つで、静かに結びました。


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