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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


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第18.5話: 幕間:さすが我が息子

 硝子ガラスの底に、琥珀こはくが揺れていた。


 書斎の机に、葡萄酒の瓶と、脚の細い杯。蝋燭は一本。炎の先が、窓のさんの微かな夜風に、低く、傾いた。初夏の夜は、冷えない。それなのに、背筋の奥の一本だけが、冷たかった。


 エドワードは、杯を傾けた。渋みと香りが、舌に広がる。今日の広間の拍手が、舌の奥に、まだ残っているような気がした。


 ——さすが、我が息子。


 声に出さず、唇の中で転がしてみた。壇上で発した自分の声が、書斎の石壁に、もう一度、反射するようだった。ヴェルナー家の血は争えん。父祖から続く、鍛錬の伝統。言葉は、どれも、正しい位置に嵌まっていた。客席の誰一人、疑わなかった。


 嘘は、ついていない。




 杯を、もう一度、傾ける。


 琥珀の液面が、蝋燭の炎を、小さく映し返した。映された炎の、すぐ横に——


 葡萄色の布の、袖口そでぐちが、一瞬、過った。


 杯を、机に置いた。音が、少し、固かった。


 気のせいだ、と思った。酒の映り込みに、人の袖が映るはずがない。壁際の、柱の半分に隠れた列。あの列に、自分は視線を向けなかった。向けなかったのだから、記憶にあるはずがない。


 正しい理屈は、胃の底の、別の何かを、押し返してはくれなかった。




 式次第に、登壇の項目は入っていなかった。それでも自分は、拍手の鳴り止まないうちに立ち上がり、壇の階段を大股で上がって、息子の肩に腕を回し、朗々と発した。


 ——なぜ、駆け上がった。


 問いは、書斎の空気の中で一瞬だけ立ち上がって、すぐに、机の影に沈んだ。息子の成果は、ヴェルナー家の成果であり、当主の成果である。問いを差し挟む隙間は、ない。父祖がそう生きた。自分もそう生きる。


 それ以上の問いは、不要だった。




 不要だったはずの問いの外側を、葡萄色の袖口が、もう一度、かすめた。


 舌打ちを、小さくした。蝋燭の炎が、その音に揺れた。


 あの女は、広間で、泣いたか。泣かなかったか。——知らない。視線を向けなかったから、知らない。知らないことを、今、ここで、なぜ、確認しようとしているのか。それも、分からなかった。


 壇上で、ルーカスは、「ある時、私のそばにいてくださった方」と言った。名前は、出さなかった。気に留めなかったことに、今、気づきそうになって、杯の縁を、指でなぞった。


 三年、とあの子は言った。その三年の、どの朝を、自分は、どの書類に向かって過ごしていたか。——記憶をたどる気には、ならなかった。たどり始めれば、終わらない。終わらないものには、触れない。それが、十二年、この家を回してきた一本の柱だった。




 ——名前を、呼ばなかった。


 その一文だけは、書斎の空気の中で、形を、作ってしまった。炎を、長く、見つめた。見つめている間、一文は、揺れていた。揺れながら、消えず、ただ、そこに、あった。


 重さを、測りたくはなかった。測り始めれば、寝台に行けなくなる。寝台に行けない夜を、ヴェルナーの当主は、持たない。父祖も、持たなかった。


 忘れよう、と、思った。忘れる、という動詞を、意志として、握った。握った瞬間、その動詞が、いかに力を要するかを、指の関節が、知った。




 杯の中の、残りを、一息に、あおった。


 液面が消えた底に、もう、葡萄色の袖は、映らなかった。映らない底を、エドワードは、しばらく、見つめていた。見つめていれば、映らないことが、忘れたことと、同じ意味になるような気が、した。


 机の上の、杯と、瓶と、一本の蝋燭。壁際の席も、壇上の十歳の半秒の視線も——この部屋の、どこにも、なかった。


 ないことに、した。


 窓の外で、初夏の夜風が、葉を、一度、鳴らした。エドワードは、その音に、顔を上げなかった。蝋燭の炎だけを、静かに、見つめ続けた。

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