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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——前世保育士の令嬢が追放された朝、公爵家の子供が全員いなくなりました  作者: 歩人


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第18話: さすが我が息子

 広間の天井の高さが、音を四方から押し返してきた。


 大理石の柱と青銅の燭台しょくだい、王家の紋章。その全てが招待客の話し声を吸い込まずに上へ上へと反響させていた。


 この高さの中で、十歳の声は届くだろうか。




 婚約披露の夜から、四ヶ月が過ぎていた。


 王都の学園の正面広間せいめんひろまが初夏の光で満たされていた。年に一度の年次教育展覧会。家庭教師制度の、いちばん表の舞台だった。


 広間の左手、壁際の列。そこが養育係や侍女の席だった。正面席からは半分、柱の陰に隠れる位置。私はその列の端から二番目に腰を下ろしていた。


 借りた葡萄色のドレス。襟の刺繍ししゅうはイルマ様の差し回しでぎりぎり間に合ったものだった。イルマ様ご自身は今日はお越しになれなかった。今朝、離れの寝台の縁でマルタの手を借りて半身を起こし、「わたくしの代わりにルーカスを見届けておやりなさい」と息の細い声で命じられた。


 今日の広間の光が、あの方の枕元には届かない。届けてくるのが、私の役目だった。




 正面席にエドワード様がいらっしゃった。前列の中央に近い席。青灰色の正装の襟が照明の下で硬く光っていた。隣の席にハウザー伯爵家ご一団が並んでいる。その中に栗色の髪を結い上げた若いご令嬢——クリスティーナ様というお名前を廊下の噂でもう何度も耳にしていた。


 一度、正面席の方角で扇が小さく動いた。ご令嬢の白い指先がエドワード様の袖にほんの一瞬触れた。エドワード様は顔を動かさず、ただ口角だけを形式の分だけ上げた。


 書面の上の婚約者には横顔の一つも向けないお方が、今日は扇の動きにだけ口角を返していた。




 「——次は、ヴェルナー公爵家ご嫡男、ルーカス・ヴェルナー様」


 司会の声が広間の空気を一段切り替えた。


 壇の脇の階段から、ルーカスが上がってきた。十歳の燕尾服えんびふくは四ヶ月前よりもまた袖口が短くなっていた。黒い布地の中で頬だけが白く壇上の光を弾いていた。


 両手は体の横に真っ直ぐに垂れていた。握ってはいなかった。震えてもいなかった。


 この四ヶ月、毎朝の子供部屋の片隅で私はその手の形を見てきた。石板に鉛筆で線を引く前にいつもルーカスは両手を一度、体の横で真っ直ぐに下ろした。「こわくなったら手をさげる、ひとつだけおぼえておきます」と本人が決めたやり方だった。今日その形が壇上でそのまま現れていた。




 ルーカスが演台の前に立った。広間がほんの一瞬ざわついた。招待客の何人かが扇の下で隣の者に何かを囁いた。「あの子が、あのヴェルナーの長男か」「以前は一言も話せなかったと聞くが」——貴族社会の記憶は、そういう過去には残酷なほど長い。


 ルーカスはその視線を一度、広間全体に向けた。目が止まった。壇上から左手の壁際、養育係の列の端から二番目。ほんの一瞬、燭台の揺れの中で私の葡萄色の袖と目が合った。


 見つけた、と私の中でその思いが静かに着地した。昨夜、子供部屋の窓辺で「せんせい、どこにおられますか」と尋ねた時、私は「壁際の端から二番目」と答えた。その答えを十歳の記憶は一晩持ち続けた。




 ルーカスは一度、体の横で両手を真っ直ぐに下ろした。それから口を開いた。


 「私は七歳の頃、一言も話すことができませんでした」


 最初の一文が広間の天井に届いた。届いた、と私の耳ははっきり確認した。広間の薄いざわつきが一秒で鎮まった。


 「両親が話しかけてくださっても、『ち、ち……』と二音繰り返すことしかできなかった。声を出すことが私にとって危ないことだったのです」


 ルーカスの声は低くはなかった。でも落ち着いていた。文の切れ目がはっきりと聴き手の耳の中に間を作っていた。「ち、ち」という二音はわざと少し短く発する。過去の自分を軽蔑ではなく丁寧さで置き直す発音を、この子は昨日四回練習していた。


 「ある時、私のそばにいてくださった方が、私に歌を教えてくださいました。言葉ではなくはくだけの短い歌でした」


 歌、という言葉で広間の前列の一人の老婦人が扇を止めた。


 「言葉を口からまっすぐ出そうとすると喉がこわばります。けれど歌の拍に乗せると、音は別の道を通っていくのです。その道が私の喉の閉じていた部分を少しずつ緩めてくれました」


 ルーカスはここで一度、息を継いだ。


 「三年、かかりました」


 三年という二音節を、ルーカスはゆっくり置いた。


 「毎日、毎朝。手拍子から短い文へ。短い文から長い文へ。その間ずっと、私のそばには同じ拍を刻んでくださる方がいてくださいました」


 この子は私の名前を今日出さない。私が昨夜「名前は出さなくていいのよ」と言ったから。「名前を出せば先生の立場がかえって苦しくなる」と、十歳は私より早くそのことを見抜いていた。




 「今、私はこの演台の上に立っています。両手を真っ直ぐに下ろして立っています」


 ルーカスは両手をもう一度、体の横で真っ直ぐに下ろす所作をした。壇上の所作というより子供部屋の朝の所作だった。


 「この両手が震えていないことを、私は驚きを持って確かめています。三年前の私には考えられなかったことです」


 広間の誰かが息を呑んだ音がした。


 「声が届くということは、言葉を並べるということだけではありません。聞いてくださる方がそこにいてくださるということでした」


 壇上のルーカスの目が一瞬、正面席の方に動いた。エドワード様の顔の少し上、広間の奥の壁に視線が滑った。父の顔を避けたわけではなかった。父の顔だけを見つめるのをやめた、という動きだった。


 「私は弁論の結び《むすび》を、一つのお願いで閉じたいと思います。子供に言葉が届くまでに時間がかかる日があります。声が出てこない日があります。その日のその子のそばに、どうか拍を刻んでくださる大人がいてくださいますように」


 壇上から、ルーカスは深く礼をした。




 広間が一秒、動かなかった。それから最前列の老婦人が扇を膝に置いた。音を立てずに。それが最初の拍手だった。


 そこからは雪崩なだれだった。拍手が広間全体に広がった。隣の養育係の女性が手巾しゅきんを目に当てながら、震える手で拍手していた。


 私は拍手をできなかった。両手を膝の上で握っていた。握って、握って、握って。掌の中で爪が薄い布越しに皮膚を押した。


 広間の天井が拍手の音をはね返していた。その音の中で私の耳は三年前の子供部屋の音を聞いていた。


 「ち、ち……」という七歳の閉じた喉の二音。

 「せ……ん、せい」という八歳の無意識の二音節。

 「きれい」という八歳の冬の、初めての三音節。


 その全てが今日の拍手の三年分の下敷きになっていた。誰も聞こえていない下敷き。


 泣くまいと思った。これまでにすでに二度、鉄則は折れている。今日、三度目の鉄則違反だけは避けたかった。ここは広間だ。壁際の席でも誰かの目はある。


 葡萄色のドレスの袖口を指が握り込んだ。息を、深く、浅く、深く。それでも目の奥が熱かった。


 この子の三年が今、この広間の天井に届いた。


 涙は落ちた。一粒。袖口の布の上に、音もなく。拭う仕草すら私にはできなかった。




 拍手が鳴り止まないうちに、エドワード様が正面席から立ち上がった。ざわめきがまた別の形で広間に走った。登壇は弁論大会の式次第には入っていない動きだった。


 エドワード様は大股で壇の階段を上がられ、ルーカスが演台の前から半歩、脇に寄った。壇上で片腕がルーカスの肩に回された。


 「さすが、我が息子」


 広間に向けて朗々と響いた声だった。


 「ヴェルナー家の血は争えん」


 拍手が一段大きくなった。正面席のハウザー伯爵家ご一団からは、クリスティーナ様が扇を高く上げて形式の微笑みを壇上に向けておられた。


 壁際の私の席の方角には、エドワード様の視線は一度も向かなかった。書面の上の婚約者の名前を、この方は今日の広間に持ってこなかった。持ってくる理由を持っていない方だった。


 壇上のルーカスの肩が一度だけ、父の腕の下で薄く跳ねた。息をこらえた跳ね方だった。




 エドワード様は壇を下りる前に、もう一度、広間全体に向けて口を開かれた。


 「私は息子に厳格に接してまいりました。幼少期の吃音は、我が家の父祖から続く鍛錬の伝統の中で克服されたのです」


 嘘ではなかった。嘘をつかない言い方だけで真実を自分の側に寄せていた。「鍛錬の伝統」という単語一つで、三年分の別の誰かの仕事が公爵家の名の中に吸い込まれた。


 広間の大人たちは疑わなかった。拍手がもう一段、重みを増した。


 エドワード様は満足げに頷かれ、ルーカスの肩を軽く叩いて壇を下りられた。ルーカスは演台の前で、もう一度、広間全体に短く礼をした。


 礼の最中に、十歳の目がほんの一瞬、壁際の席の方向に動いた。その一瞬の角度を私は知っていた。毎朝、子供部屋でこの子が私の顔を探す時のあの角度だった。


 視線が合った。ルーカスは合わせた視線をすぐに広間全体に戻した。合わせていた時間は半秒にも満たなかった。その半秒の中で、十歳が私に「ここにある全て」を手渡した。


 エドワード様の「さすが我が息子」が広間を満たしていた。クリスティーナ様の扇が正面席で揺れていた。拍手の音が天井で反響していた。でも、壇上の十歳と壁際の私の間の半秒の視線だけが、今日の広間で本当のことを知っていた。




 式が終わって、広間の招待客が談笑のために立ち上がった時、私は壁際の席から音を立てずに出た。廊下の角を曲がって柱の陰に身を寄せた。手巾を目の下に当てた。


 三年分の子供部屋の朝と夜が、廊下の柱の陰で一度に溢れた。


 「——フィオナ様」


 柱の陰に、マルタの声が静かに近づいた。マルタは何も言わず、予備の手巾を私の手にもう一枚握らせた。新しい手巾の、洗ったばかりの麻の匂いが鼻先に届いた。


 「イルマ様からお預かりしておりました。『フィオナが広間で一度だけ泣くだろう』と。預けておいた、とのことでございました」


 見抜かれていた。半年前、離れの寝台でイルマ様は私の「残る覚悟」を静かに受け取ってくださった。あの方は今日の広間の、私の袖口の一粒の涙まで、寝台の枕元から見通しておられた。


 マルタは廊下の奥で一度深く頭を下げて、広間の方へ戻っていった。




 目の下を拭い終えた頃、廊下の反対側から足音が聞こえた。痩せぎすの背中。灰色の髪を厳しくまとめた、いつもの姿。ヒルデだった。


 普段ならば目を合わせず通り過ぎる距離だった。今日は——ほんの一歩、足が遅くなった。視線が一瞬、私の方に向いた。目が合った。ヒルデは何も言わなかった。でも、その一瞬の視線の中に、昨年の夏、マティアスの畑の前で「遊ばせているのですか」と問いにした時のあの語尾の揺れが、もう一度流れていた。


 ヒルデは口の中で何かを薄く動かした。声にはならなかった。それから視線を前に戻して廊下の奥へ歩いていった。教鞭を今日は手に持っていなかった。広間では持っていた。廊下では、もう手元から姿を消していた。


 三十年の信条が一拍、遅れる。




 公爵邸に戻ったのは夕刻だった。子供部屋の戸を開けると、エミリアが栗色のリボンと藤色のリボンを両方髪に結んで立っていた。藤色は今日の私のドレスに合わせた、あの子なりの気遣いだった。


 「せんせい、おかえり。にいには?」


 マティアスが、両手で星のスプーンを握って、戸口を覗き込んだ。


 「お父様と、離れの方に。イルマ様に、ご報告に行かれましたよ」


 マティアスは少し唇を尖らせて姉の袖を引っ張り、寝台の方へ戻っていった。今夜のルーカスは離れで祖母に壇上の報告をしている。エドワード様の隣で。子供部屋の中に三人目の寝台だけが、まだからだった。




 自分の部屋に戻って机に向かった。三冊目のノートを開いた。ペンを止めた。


 今日の広間のことをどの単語で記録すればいいのか分からなかった。机の上にペンを置いた。代わりに引き出しの奥から、茶色い、表紙のまっさらな四冊目のノートを取り出した。いつか買っておいたものだった。


 四冊目の最初のページを開いた。ペンを取った。一行目を書いた。


 《この子の三年は、この子だけのものです。誰かの血の話ではありません。》


 三行目は書かなかった。その代わりにページを一枚、そっと閉じた。四冊目は今日から始まる。




 窓の外で、初夏の夜風が桜に似た木の葉を小さく鳴らしていた。あの木の花が咲いた春が一年前。あの春にルーカスは「せんせい」と呼んだ。


 その一年後の今日、壇上の十歳は私の名前を出さずにお願いを結びに置いた。出さないことで差し出された何かがあった。


 ペンをもう一度取った。一行目の後ろに小さく書き足した。


 《そして、これからの私の仕事は、見えないままでいい。》


 見えない仕事。その言葉の輪郭は昨年までと少しだけ違っていた。昨年は「見えない」に悲しみの縁取りがあった。今年は悲しみの縁取りの上に、もう一層、薄い金色の線が重なっていた。


 見えなくても、見ている子がいる。半秒の視線でそれを今日、教えられた。




 翌朝、朝食の鐘が鳴る前に、ルーカスが子供部屋に戻ってきた。黒い燕尾服は脱いで、普段の麻のシャツ姿になっていた。


 「おはようございます、せんせい」


 戸口でルーカスは一度、体の横で両手を真っ直ぐに下ろした。昨日の壇上の所作。今朝は子供部屋の朝の所作に戻っていた。


 マティアスが寝台の中から飛び出して兄の足に抱きついた。エミリアがリボンを握ってルーカスの袖を引いた。三人の子供部屋の朝が戻ってきた。広間の天井の高さは、この部屋には入ってこない。


 ルーカスは私の方にもう一度視線を上げた。


 「せんせい、きょうのこえは、まだちゃんと出ますか」


 昨日のスピーチで声を使いすぎていないか、という十歳の気遣いだった。


 「大丈夫よ。……私の声は、しばらく大丈夫」


 ルーカスは頷いて弟と姉の方へ戻っていった。朝食の鐘が廊下の遠くで鳴った。


 四冊目のノートの最初のページを、私はまだ閉じたままにしていた。二行目の「見えないままで、いい」という言葉が今朝の子供部屋の光の中で、昨夜よりも少しだけ静かに馴染んでいた。


 星のスプーンの音が朝食の食卓の方で、コトン、と小さく鳴った。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この十八話で書きたかったのは、「功績を横取りされる瞬間」を、怒りの話としてではなく、見えない仕事の話として描くことでした。エドワードは嘘をついていません。「鍛錬の伝統で克服された」という言い方は、真実のほんの一部を公爵家の側に寄せただけです。でも、その「寄せ方」の中に、三年分の別の誰かの時間が、音もなく吸い込まれていきます。こういう吸い込まれ方に、人生で何度か出会う方は、少なくないと思います。


 フィオナの三度目の「泣かない鉄則」違反は、今回は、届いたから出た涙でした。名前が呼ばれることよりも、壇上の十歳との半秒の視線が、ずっと、重かった。四冊目のノートの一行目は、「見えないままで、いい」——自己卑下ではなく、選び取った仕事の形でした。


 次回、見えない仕事に、もう一人、小さく気づいてくれる場面がやってきます。ヒルデが、フィオナのノートを手に取る夜です。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。


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