第10話: きれい
膝が笑った。
エミリアを寝台に寝かせ、立ち上がろうとした時だった。体が言うことを聞かない。膝の力が抜けて、寝台の縁に手をついてようやく体を支えた。
着任から十一ヶ月。冬の底。窓の外では雪が音もなく降っている。
一日が終わる。いや、正確には終わらない。エミリアの夜泣きはあと一刻ほどで始まるだろう。百八十夜はとうに過ぎた。約束の数は果たした。それでも、十日に一度ほど、すすり泣きの夜が戻ってくる。完全にゼロにはならない。
マティアスは離乳食を食べ終えて揺り籠で眠っている。最近は夜中に目を覚ますことが減った。でも朝の授乳は私がやらなければ誰もやらない。
ルーカスのリズム練習は毎晩続けている。三拍子、二拍子、四拍子。あの子の指は正確にリズムを追う。先週、初めて手拍子に切り替えた——毛布を叩くのではなく、自分の掌で。音が変わった。小さいが、確かに「叩く」意志のある音になった。
でも声は出ない。まだ一音も。
立ち上がった。膝が震えている。前世の保育園でも、一人担任の年があった。体力の限界が来るのは、決まって冬だ。風邪をひく余裕もない。子供が三人いて、大人は私一人。マルタは食事を運んでくれるが、子供の世話はできない。ヒルデは教育係であって養育は管轄外。エドワード様は言うまでもない。
イルマ様の体は花瓶事件の後さらに弱っていた。離れの居室から出てこなくなった。マルタが週に一度、私の報告を伝えてくれている。それだけが、あの方との繋がりだった。
体が重い。肩が凝って、首の後ろが硬い。最後にまともに眠ったのはいつだろう。エミリアの夜泣きに付き添い、マティアスの朝の授乳をし、日中は三人の世話と観察記録と、ヒルデの目を避けての手拍子練習。夜が来ればまた夜泣きが始まる。
輪だ。終わりがない輪の中を走り続けている。
扉を叩く音がした。
マルタだった。夕食の盆を持っている。——いや、夕食はもう済んだ。これは私の分だ。
「マルタ様、もう食事は——」
マルタが首を横に振った。盆の上には温かいスープと、焼きたてのパンと、蜂蜜を塗った薄切りのりんごが載っていた。
「食べていないでしょう」
マルタの声は低い。いつも静かだ。でも今夜は——少しだけ、強い。
「子供たちの食事は作りましたが、私は——」
「だから、です」
盆を差し出された。拒む力が残っていなかった。
受け取った。スープの湯気が顔に当たった瞬間、目の奥が熱くなった。温かいものが染みる。体が冷えていたことに、温かいスープを持って初めて気づいた。
マルタは何も言わずに立っていた。私がスープを一口飲むのを確認してから、一礼して去っていった。
パンを千切って口に入れた。味がした。当たり前のことだが、ここ数日は食事の味が分からなくなっていた。疲れすぎると味覚が鈍る。前世でも覚えがある。新人の年、インフルエンザの季節に同僚が三人倒れて一人で回した週があった。あの時も味がしなくなった。
りんごの蜂蜜が舌の上で溶けた。甘い。こんなに甘いものを口にしたのは、いつ以来だろう。
マルタはいつもこうだ。何も聞かない。何も言わない。ただ必要なものを、必要な時に、黙って届ける。獣脂も麦粉もそうだった。そして今夜は、温かいスープとりんご。この人がいなかったら、私はとうに倒れていたかもしれない。
感謝を伝えたかったが、マルタはもう廊下の向こうに消えていた。いつかちゃんと、この人にお礼を言わなければ。
エミリアのすすり泣きが始まった。今夜は泣く夜だ。
寝台の横に座り、手を差し出した。もう数え切れないほど繰り返した動作。エミリアの手が私の手首を掴み、自分の胸に引き寄せる。「ここ」とは言わなくなった。言わなくても、手が覚えている。
すすり泣きが十分ほど続いて、呼吸が深くなり、指の力が緩んだ。眠った。
立ち上がる。膝がまた笑う。毎晩のことだ。
マティアスの揺り籠を確認する。眠っている。呼吸は安定。
ルーカスの寝台に目をやった。
空だった。
毛布は畳まれていない。起きたばかりだ。どこに——
子供部屋の扉が薄く開いていた。廊下に光が漏れている。蝋燭の光ではない。——月明かりだ。
廊下に出た。
ルーカスが廊下の窓の前に立っていた。
窓は小さいが、今夜は雲が切れて月が出ている。冬の月は高い。廊下の石壁に白い光が差し込んで、七歳の少年の横顔を照らしていた。
こちらに気づいた。
そして——手招きをした。
ルーカスが、私を呼んでいる。声ではなく、手で。「こっちに来て」と。
近づいた。廊下の石が素足に冷たい。ルーカスの隣に立った。少年の肩は私の胸の高さほど。一年前より背が伸びていた。この子はいつの間にこんなに大きくなったのだろう。寝間着の袖が手首まで届いていない。——新しい服を仕立てなければ。
ルーカスが窓の外を指さした。
見上げた。
冬の夜空だった。雪が止み、雲が割れて、満天の星が広がっていた。
王都の屋根の向こう、遠くの森の稜線の上に、無数の光が散らばっている。冬の星は近い。空気が澄んで、手を伸ばせば届きそうなほど明るい。天の川が白い帯になって、空を横切っていた。
息を呑んだ。
前世で最後に星を見たのはいつだろう。保育園の終業後、駐車場で車に乗り込む時に見上げた冬の空。あの時も、星が近かった。
この世界の星は、あの時と同じだ。同じ光が、同じ距離から、同じ私を照らしている。
隣で、ルーカスが口を開いた。
唇が震えていた。喉が動いた。声を出そうとしている。
「……き」
音が出た。
「……きれ……」
途切れた。喉が詰まった。でも——もう一度。
「……きれ、い」
きれい。
二音節。七歳の少年が、十一ヶ月の沈黙を破って発した最初の言葉が——「きれい」だった。
誰かに助けを求める言葉ではなかった。痛みを訴える言葉でもなかった。「母上」でも「父上」でも「助けて」でもなかった。
ただ——星が美しいと思って、隣にいる人に伝えたかった。それだけのことを、この子は十一ヶ月かけて、ようやく声にした。
声を出すのが怖かったはずだ。出そうとするたびに喉が詰まり、言葉が途切れ、それを誰にも受け止めてもらえなかった過去がある。だから声を捨てた。それなのに——星がきれいだから、と。この人に伝えたいから、と。恐怖を越えてまで言いたかったのが、「きれい」だった。
涙が出た。
子供の前では泣かない。それは前世からの鉄則だった。着任初日のマティアスの一滴の時も堪えた。エミリアが「ここ」と言った夜も堪えた。マティアスが笑った日も堪えた。
でも今夜は——堪えられなかった。
声を殺した。音を出さないように。唇を噛んで、涙だけを流した。冬の月明かりの中で、頬を伝う涙が光った。
ルーカスが私を見ていた。茶色の瞳に、星の光が映っている。
泣いている大人を、じっと見ていた。怯えてはいなかった。不安そうでもなかった。ただ、見ていた。
そして——小さな手が伸びてきて、私の指先に触れた。
握ったのではない。触れた。あの夜のエミリアと同じだ。「ここにいるよ」の代わりに、指先で伝える。この子たちはいつもそうだ。声が出ない分だけ、手が、指が、雄弁になる。
声は出なかった。出す必要がなかった。冷えた廊下の空気の中で、ルーカスの指先だけが温かかった。あの子の中に、温度が戻り始めている。
窓の外では、冬の星がただ静かに光っていた。
二人の影が、月明かりの廊下に並んで伸びていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「きれい」がルーカスの最初の言葉になることは、最初から決めていました。「痛い」でも「助けて」でもなく、「きれい」。誰かに助けを求めるためではなく、美しいと思ったことを隣の人に伝えるために、十一ヶ月ぶりに声を出す。その選択に、この子の全てが詰まっていると思っています。
フィオナの「泣かない鉄則」が初めて破れた夜でもあります。着任初日から何度も何度も堪えてきた涙が、「きれい」の三文字で決壊する。書きながら、自分も泣いていました。保育士にとって、子供の最初の言葉に立ち会うことは——何年やっても慣れない奇跡なのだと思います。
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