第1話: 書き置きの朝
あの朝のことを話すには、五年前に戻らなければならない。
けれどその前に——あの子たちが何をしたのか、後で聞いたままに書き留めておきたい。
ここから先は、後日、ルーカスとエミリアとハンスから聞いた話だ。私はあの場にいなかった。
早朝五時。王都ヴェルデンの公爵邸の正門に、三つの小さな影が立っていた。
十二歳のルーカスが、五歳のマティアスを背負っている。
背中のマティアスは半分眠っていて、ルーカスの首に小さな腕を回したまま、ことりとも動かない。冷えた空気に吐く息だけが白い。
八歳のエミリアがルーカスの外套の裾をぎゅっと握っていた。目は真っ赤で、まぶたがうっすらと腫れていた。けれど涙はもう枯れていたそうだ。唇を引き結んで、まっすぐ前を見ていたという。
三人はヴェルナー公爵家の子供たちだ。
父親は公爵嫡男のエドワード。一週間前、五年間仕えた養育係との婚約を破棄し、別の令嬢を迎え入れた男だった。
三人の足元に、それぞれ荷物が置いてあった。
ルーカスの革鞄には着替えと水筒、それから折り畳んだ地図。街道沿いの宿場町に印がつけてあり、二日分の小遣いを巾着にまとめていたそうだ。後で聞いたところ、私が去った翌日からルーカスは密かに準備を始めていたらしい——行先はマルタに聞き出していた。あの寡黙な侍女がどこまで話したのか、ルーカスは多くを語らなかったが、マルタが「グリューネヴァルト」という地名と、街道の方角だけは教えてくれたのだという。
エミリアの巾着袋には、私があげたリボンが入っていたそうだ——亡くなった母上の形見の布と同じ色の、栗色のリボン。マティアスは——マティアスだけは何も持っていなかった。代わりに、小さな手に木のスプーンを握りしめていた。
星の形に彫った、おほしさまのスプーン。三年前、離乳食を卒業した日に私があげたものだ。あの子がお粥を初めて完食した夜、嬉しくて台所で彫った不格好なスプーン。まだ持っていたのかと——後でルーカスから聞いた時、涙が止まらなかった。
ルーカスの外套のポケットには、もうひとつ大事なものが入っていた。父親の書斎の机に置いてきた書き置きの下書きだ。ルーカスは何度も書き直したらしい。反故紙の裏にはインクの染みがいくつも残っていて——一度は「お母様の分まで先生が僕たちを」と書きかけて、消した跡があったという。
なぜ清書を残して下書きを持ち出したのか。後で訊いたが、ルーカスは少し黙ってから「捨てられなかった」とだけ言った。何度も書き直した言葉の一つひとつに、父親に伝えたいことが滲んでいたのだろう。伝えきれなかった言葉を捨てるのは——十二歳の少年には、まだできなかったのだ。
最終的に机に残した清書は、たった三行だったという。
——父上へ。僕たちはフィオナ先生のところに行きます。探さないでください。ルーカス。
「——若様?」
門番のハンスが、詰所の扉を開けて固まった。
二十年この門を守ってきた老兵だ。戦場で剣を突きつけられても動じない男が、三人の子供を見て声を震わせたのだと、後にハンス自身が語った。
「こんな時間に……どちらへいらっしゃるのですか」
ハンスの目が三人の格好を見る。旅支度というには心もとない。マティアスの外套は裾を引きずっていて、エミリアの靴は履き慣れない革靴だった。ルーカスだけが、しっかりとした足取りで門の前に立っていたという。
——若様の顔は子供ではなかった。ハンスはそう語った。
「ハンスさん」
ルーカスの声は静かだったそうだ。
三年前まで、一言も話せなかった少年の声だ。吃音が酷くて、自分の名前すら言えなかった。それが今——門番の老兵に、まっすぐ語りかけている。
「門を開けてください」
「それは……若様、旦那様にお伝えしなくては——」
「父上には書き置きを残しました」
ルーカスが顔を上げた。
東の空がわずかに白み始めていて、少年の瞳にその光が映っていたという。
「僕たちはフィオナ先生を選びます」
ハンスは動けなかったそうだ。
この五年間、毎朝、私が子供たちと庭に出るのをハンスは門番の詰所から見ていた。歌を歌いながら散歩する私と、その手にぶら下がる三人の子供を。先週、私が荷物をまとめて門を出ていく背中も——見ていたのだ。
エミリアがルーカスの外套から手を離し、一歩前に出た。
「ハンスさん」
八歳の声が、霧の中に響く。
「お願い。わたしたちを、行かせて」
エミリアの目はもう赤くなかったそうだ。泣き終わった後の、透き通った目をしていたという。
けれどその声は——わずかに裏返っていた。巾着袋を胸に抱く指先が白くなるほど震えていて、革靴の踵がこつこつと石畳を鳴らしていたのは、足が震えていたからだとハンスは気づいていたそうだ。その中の栗色のリボンは、エミリアが三歳の誕生日にフィオナ先生からもらったものだとハンスは知っていた——あの日、庭でリボン結びを教わって、何度も何度もほどけて、最後にやっと結べた時、エミリアが飛び跳ねていたのを詰所から見ていたからだ。
八歳の少女に、覚悟という言葉を使わせてしまったことが——私には、申し訳なくてたまらない。
マティアスが、ルーカスの背中でもぞりと動いた。
半分眠っていた目を擦って、きょろきょろと周りを見回す。
「……にいに。ここ、どこ?」
「門だよ。今から出発する」
「おでかけ? せんせいのとこ、いく?」
「うん。行くよ」
マティアスはぱちりと目を見開いたそうだ。それから、ルーカスの背中の上で自分の足を見下ろした。
靴紐が結んであった。
自分で結んだ靴紐だ。何度も失敗して、何度も私と練習して、ようやく一人で結べるようになった。私が公爵邸を出る最後の日に、初めて成功した靴紐。
「——どこにでも、じぶんのあしでいけるって」
マティアスが言った。
「フィオナせんせいが、いったもん」
ハンスの膝が折れた。
二十年門を守り、戦場でも泣かなかった老兵が、五歳の声に膝をついた。石畳に手をつき、嗚咽を堪えるように肩を震わせていたという。後にエミリアが教えてくれた——ハンスの涙が石畳に落ちて、小さな染みを作ったのだと。
マティアスは不思議そうに首を傾げた。「どうしたの、おじいちゃん」と。
ハンスは顔を上げ、震える手でマティアスの外套の裾を直した。引きずっていた裾を丁寧に折り込み、冷えないようにルーカスの背中に押し入れたそうだ。
それから——門を開けた。
鉄の門扉が軋む音が、朝の静寂に響いた。ハンスはただ一言、「お気をつけて」とだけ言ったそうだ。それから詰所に戻り、椅子に座ったまま一時間動かなかった。報告すべきだと分かっていた——だがあの三人の背中を見て、自分が止めてはならないと思った、と後にハンスは語った。詰所の壁に掛かった当番表の横に、私が子供たちと歌う時に使っていた歌詞の紙切れが一枚、画鋲で留めてあった。ハンスがいつ、なぜそれを拾ったのかは誰も知らない。
朝食の鐘が鳴って、ようやく執事に報告したという。
その一時間が、三人に猶予を与えてくれた。
三つの小さな影が、霧の中に歩いていく。
石畳を踏む革靴の音。マティアスの寝息。エミリアが一度だけ振り返り、屋敷の最上階——子供部屋の窓を見上げたそうだ。灯りは消えていた。もう、あの部屋には戻らない。
ルーカスの足取りは確かだった。マティアスを背負い、エミリアの手を引き、十二歳の少年は一度も振り返らなかったという。
王都の大通りを抜け、北門を出れば街道に出る。
グリューネヴァルトまで、馬車で三日。子供の足なら——もっとかかる。
それでも三人は歩き出した。
同じ朝——早朝五時。
私は辺境の街グリューネヴァルトで目を覚ましていた。
冷たい寝台。質素な部屋。漆喰の壁にひびが走り、窓枠は木が歪んでいる。宿の女将が申し訳なさそうに案内してくれた、一番安い部屋だった。
窓の外にはまだ暗い森が広がっている。
公爵邸を出て五日目の朝だった。
体が覚えている。五年間、毎朝五時に起きる体になっていた。子供たちの一日が始まる前に起きて、保育計画を確認して、マティアスの朝食の仕込みをして——
もうその必要はないのに、目が勝手に開く。
起き上がると、指先がかじかんでいた。辺境の秋は王都より早く冬が来る。暖炉に薪をくべようとして、やめた。節約しなくてはいけない。もう公爵家の養育係ではないのだから。
持参金はわずかだ。メルツ伯爵家は没落寸前で、持たせてもらえたのは最低限の金貨だけだった。宿代を払えば、あと一月持つかどうか。
なぜこの辺境を選んだのか——イルマ様がくださった紹介状があったからだ。「グリューネヴァルトに、教育を志す若者がいます」と短く書かれた一通。婚約破棄が決まる前から用意されていたのか、それとも——あの方は、こうなることを予見していたのか。今はまだ分からない。
窓を開けると、冷えた空気が頬を打った。
深い森の稜線に沿った細い朝焼け。王都では見られない景色だった。
——前世でも、こんな朝があった。保育園の窓から見た、四月の朝焼け。入園式の朝、張り詰めた気持ちで新しいクラスの準備をしていた時。あの時も窓を開けて深呼吸した。
……あの子たちは今頃、どうしているだろう。
ルーカスはちゃんと朝食を食べただろうか。あの子は放っておくと本ばかり読んで、食事を抜く。エミリアは昨夜、泣かずに眠れただろうか。雷の夜でなければいいのだけれど。マティアスの着替えは——あの子は自分で着替えられるけれど、裏表を間違える癖がある。直してあげる人がいるだろうか。
こういうことが、記録を読まなければ分からない。
着替えの癖も、食事の好みも、夜泣きが起こる条件も——全て観察記録ノートに書いてある。五年分、三冊。子供部屋の棚に残してきた。最後のページには、それぞれの子への申し送り事項を書き足した。「ルーカスは考え過ぎて食事を忘れます。声をかけてください」「エミリアの夜泣きは雷の三十分前に始まります。窓を閉め、右手を握ってください」「マティアスは星の形の食べ物なら何でも食べます」——次の養育係が読んでくれることを祈って。
……読む人がいれば、の話だ。
いけない。
もう、私の子供たちではない。
五日前、公爵邸を出る朝のことを思い出す。荷物をまとめたのは夜中だった。子供たちが寝静まってから、一人で。
マルタだけが玄関にいた。まるで分かっていたかのように——寡黙な侍女が、静かに立っていた。小さな包みを差し出した。中には旅用の干し肉と、エミリアが描いた絵が一枚。家族の絵だった。エミリアとルーカスとマティアスと——私。四人が手をつないでいる絵。あの子の世界に、父親はいなかった。
その絵は今、寝台の枕の下にある。
「所詮、子守係にすぎない女だった」
一週間前のエドワード様——公爵嫡男であり、あの子たちの父親であり、そして私の元婚約者の声が蘇る。
子守係。そうだ、この世界には「保育」という言葉がない。子供を育てることと、子供の世話をすることの違いを説明する言葉が存在しない。だから子守と呼ばれた。
でも私は知っている。前世の記憶が、体の奥底に刻んだものがある。子供を見る目——それは気づく力だ。ルーカスが音楽に反応することに気づいたから歌遊びを始められた。エミリアの夜泣きに雷のパターンがあることに気づいたから対処できた。マティアスが自分で育てた野菜なら食べることに気づいたから偏食を克服できた。
子守は世話をする。保育士は気づく。その違いを、この世界の誰にも説明できなかった。
エドワード様にとっての婚約は取引だった。母上のイルマ様が三年前にまとめてくださったもので、あの子たちの養育を続ける口実として——私も承知で受け入れた。この子たちのためなら、都合のいい女でいい。そう思っていた。
けれど新しい婚約者クリスティーナ様が現れた途端、取引は終わった。用済み。それだけのことだ。
指先で目元を押さえた。
泣かない。子供の前で泣かないと決めていた。もう子供の前にいないのだから泣いてもいいはずなのに——まだ泣けない。この五年間で、泣き方を忘れてしまったのかもしれない。
百八十夜、エミリアの枕元で歌い続けた夜も泣かなかった。花瓶が割れてエドワード様に叱責された日も、ヒルデ様に「遊びは堕落」と面前で嘲笑された日も——一度も。
子供の前で泣く大人は、子供を不安にさせる。それは前世で叩き込まれた鉄則だった。
でも今、子供はいない。それなのに泣けない自分が、少しだけ怖かった。
枕の下に手を差し入れて、エミリアの絵を引き出した。
四人が手をつないでいる。クレヨンの線は拙いのに、四人とも笑っている。エミリアが黄色で塗った私の髪が、画用紙からはみ出していた。
——そうだ。前世でもこういう絵をもらった。卒園児が描いてくれた、園庭で遊ぶ絵。「せんせい、だいすき」と片仮名で書かれた手紙。あの時は「また会えるよ」と笑って手を振れた。
もう——次はない。
指先が震えた。絵を胸に押し当てた。声は出なかった。
涙は一滴も落ちなかった。けれど、胸の奥の何かが軋んだ。五年分の感情が——ひび割れた壁の向こうで、静かに揺れていた。
窓の外で、小鳥が一羽、鳴いた。
百八十夜のうちの、一番最初の夜を思い出す。エミリアの枕元で歌った子守歌の旋律が、口の中に蘇った。思わず口ずさみかけて——やめた。歌う相手が、ここにはいない。
森の朝が始まっていく。静かで、冷たくて、けれどどこか——優しい朝だった。
この時、私はまだ知らなかった。
あの子たちが門を出たことを。
三人が、私を選んでくれたことを。
この物語を語るには、五年前に戻らなければならない。
崩壊したヴェルナー公爵家に、一人の養育係がやってきた春の朝——全ては、あの日から始まった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「前世保育士の令嬢」という設定は、保育園で働く友人の話がきっかけでした。「子供の成長って、記録に残さないと親すら気づかないことがたくさんある」——その言葉が、のちに出てくる観察記録ノートという小道具につながっています。
冒頭の門のシーンは、この物語で一番最初に浮かんだ場面です。三人の子供が自分の意思で歩き出す朝。マティアスの靴紐を書いている時、不覚にも泣きました。あの靴紐にはこの先たくさんの意味が乗っていくので、覚えていてもらえると嬉しいです。
ここから五年前に遡って、フィオナが何をしてきたのかを丁寧に描いていきます。全四十八話、お付き合いいただけたら幸いです。
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