第二十話 海の大男亭の店主はなかなか素敵な腕の持ち主でした。
切りつけられた腹部の手当てを終え、エレナの主発言と裏庭の林檎の話題をそれとなく濁したわたしは魔法学園に行く前には答えをだすと言って、彼女の瞳から逃げた。
わたしは天使で。エレナは人間で。彼女と主従関係を結んでしまえば、必ずおいて逝かれるわたしが悲しむのは目に見えているではないか。彼女とは同じ時を生きれないし、百年も生きないような種族と約束を交わすほどわたしは強くはない。
わたしが堕天してしまえばそれも叶うのだろうとは思うが、全てを捨て去れるほど彼女を愛しているわけでもないからその方法もない。する気もないが。
********
使い込まれて味の出てる扉を開け放ち、酒場で待っているだろう人たちを順番に眺める。部屋を出る前に見た顔の腫れた男は何故か豪快なおじさんに良いようにこき使われているのか、ただひたすらに皿を磨いていた。その様子にはわたしに見せていた態度は欠片もなく、まるで憑き物でも落ちたかのようだ。
目を丸くしてそれを見つめていたわたしとエレナに気がついた男はひぃっ、と短く悲鳴を上げぺこぺこ頭を下げてきた。もちろん皿からは手を離していたために無事である。
その変わりように驚くもこの酒場の主である男が立派なあごひげを撫でながら、わたしの方へと向かってきた。
「悪いな嬢ちゃん。あいつも悪いやつじゃなとは思うんだが。近頃性格が豹変する噂があったから気ぃつけてたんだが、この有り様だ」
「……いえ。それよりもその噂? が聞きたいです」
「あたぼうよ。嬢ちゃんたちは巻き込まれた手前知る権利があるな。まあ、飯でも食いながら話そうじゃないか」
「失礼ですが料理は貴方が?」
「そうだ。過激な嬢ちゃんには想像もつかないだろうが俺はこの“海の大男亭”の主人でな昼は定食屋、夜は酒場をやってるから料理には覚えがあるぜ?」
過激な嬢ちゃん、とはエレナを差しているのか?
成人男性の顔が腫れ上がるまで殴った所行をさしているのだろうか。定食屋と酒場の主と名乗った男は顎に走る古傷を触りながら座るよう声をかけてきた。
「おら坊主も嬢ちゃんたちも座れ。オメェは俺の隣だな」
男の指示に従うように大きなテーブルへと席につけば、あの少年も気まずそうに離れた場所にいたようで。声の大きな男に促され、ようやくこちらへとやってきた。皿磨きをしていた手負いの男は念のために酒場の店主の隣へと座らされ、なんとも居心地が悪そうである。
「まあ食べながらでいいから聞いてくれ。俺は海の大男亭の店主、バラッツァ・カラーチだ。これでも腕には自信があるがな今はしがない酒場店主だ」
おそらくは潮焼けしたであろう、赤黒い顔をこれ以上ないぐらいに笑顔を浮かべる男を見つめる。
「なんか海賊っぽい風体ですね、店主殿は」
エレナが引きつったように呟くとバラッツァはカッと目を見開き、ガハハと大口を開けて笑い始める。
なんかいきなり過ぎてこちらはついていけない。一体どうリアクションを取ればいいのか分からずにわたしと少年は目を見合わせる。エレナは半眼だし、手負いの男はおろおろしてるだけだし。
確かにこの店主は海賊っぽい身なりではある。店の名前も“海”の名が冠されているし、露出した皮膚はどこも赤黒く、顎には日常生活ではおそらく出来ないだろう古傷もある。魔法の恩恵を受ける街には浮いてしまう身なりだし、魔法使いと言われるよりも海賊と言われたほうが十人が十人頷くと思われる人だ。
どうもやりにくそうな人ではあるが悪人というわけでもなさそうな雰囲気で、ますます反応に困る。何とも言えずに沈黙すること数秒、ようやく笑いが収まった男は楽しそうに話し始める。
「そうかぁ! 過激な嬢ちゃんには分かるか。俺は何年か前までは海賊業をやっててな、足を駄目にしてからここに落ち着いたわけだ、とまあ昔語りはここまでにして......黒髪の嬢ちゃんには本当に悪いことをしたな」
「謝罪はすでに受けました。それよりも先程の噂の件が聞きたいのですが」
元海賊の店主に頭を下げられるも、すでに謝罪を受けていたためにわたしの中では不問となっていた。エレナが実力行使で報復した件もあるためにこの件はなかったことにしたい。むしろエレナがやりすぎで過剰防衛な気すらしてくる。
「……そうだな。噂ってなここ数ヶ月のことでな。
普段大人しい性格の奴が突然荒っぽくなったりする、そんな噂が広まっててな。俺も実物を見るのは初めてなんだが」
「そんな噂、ペレスフォード領に入ってきてません。本当なんですか」
「嬢ちゃんたちは隣の領地から遊びに来たのか?」
「ええ、まあ」
いきなり人の性格が豹変する、そんな噂があるのかとエレナに視線で問えば首を横に振られる。少なくともペレスフォードの領地では聞かない類の噂らしい。
もしかして堕天使絡みの件なのだろうか。堕天した者たちのなかには魔法を極めた堕天使がいたりもするから、可能性としては高くはないが皆無でもなさそうであるが。
「でも既にその人は元に戻っているんですよね?」
「あぁ。目が覚めた途端に気弱な男になりやがった。おそらくは本来の性格に戻ったんだろうとは思うが」
バラッツァの言葉にエレナにボコられた男を見るが、やはり先程の雰囲気の欠片もない。わたしの視線に耐えられないのか青白い顔で右往左往している所をみると、喧嘩はともかくとして刃物を振りまわすような人間にはまるで見えない。
「……ふぅむ。もしかしたら操作系か精神系の魔法の干渉でも受けていたのかもしれませんね」
「嬢ちゃんは魔法に詳しいのか? 見たところ良いとこのお嬢ちゃんにしか見えないが」
「趣味で調べてたらそれなりには」
わたしがこのさき潜入することになる魔法学園の生徒が目の前にいるために、はっきりとは答えられずになんとか誤魔化す。まだあの少年が信用するに値する人物か分からないために隠しておくが。まあいずれ分かることだ。あと十日もしないうちに。
バラッツァの隣に縮こまるように座る男の顔色や気配を読みとる限り、この男自身の魔力も並みより下ぐらいで自分で魔法をかけられそうな力量はなさそうである。
「そこの手負い男性、名前は?」
「はいぃっ! マルクス・ジェイドです」
わたしが名前を聞けば悲鳴混じりに名乗られる。わたし自身は彼に何もしてないのにこの怯えよう。まるでわたしが彼を殴った張本人のような反応に少し傷つく。
まあ元の人格が気弱で大人しい人ならば見た目は可憐な少女に顔が腫れるまで殴られ、見知らぬ人間に囲まれ詰問されればそんな反応にはなるとは思うが。
「そう。マルクス・ジェイド、貴方は自分が豹変する前の記憶はありますか?」
「あまり、覚えてなくて……恋人と大通りを歩いていて女の子にぶつかられて。
そこから記憶がなくて気がついたら顔は痛いし、知らない店に転がっていました」
顔の腫れた男改めマルクスは記憶がないとき、つまりは騒ぎを大きくしわたしに刃物をかざした記憶がない。バラッツァが投げたテーブルにぶつかった記憶もなければ、少年に絡んだ記憶もない。とすれば魔法の干渉により操られたか、自我がないまま本能のままに行動したか。誰がどのような目的でそうしたのかは分からないが、おそらくはそのどちらかだろう。
「女の子……人口の半分は女だし、何とも言えないですね」
「ただ血のように紅い瞳の子だった、気がします」
「ずいぶんと曖昧ですね。何の参考にもなりませんわ」
「まあまあ落ち着いてエレナ。少年は彼に絡まれる前に何か変わったことに、可笑しなことに気がつかなかったですか?」
マルクスの記憶があやふやで不明瞭なので少年に問うた。今更だがわたしとエレナは何故記憶のないマルクスが少年にいちゃもん? 絡んでいたのかを知らないのだ。事の前後に何か不審な点があれば原因も特定出来るかもしれない、そんな期待を抱いて少年が口を開くのを待つ。
「特には。大通りを歩いていたらマルクスさんの恋人に急に腕を引っ張られて……
それを僕がナンパしたと思ったのかマルクスさんにナンパしただろ、と言われたんです」
「少年はマルクスさんの恋人とは顔見知り立ったんですか?」
「いえ。名前も知らない、初対面の人で。何故か向こうは僕の名前を知ってましたけど」
「貴方が忘れただけでその女性とは面識があったのではないですか?」
「そんなことないですよっ。僕はつい最近留学のためにこっちに来たばかりですからそもそも知り合いもそんなにいないですし」
「エレナ、あんまり少年を苛めないであげてください」
「ですがリディア様! 貴女は理不尽に巻き込まれたお立場です。浅くはない傷を負われたのです。許すなら私が切り刻んで家畜の餌にしてやりたいぐらいです」
「エレナ。わたしはそんなことは望まないです」
誰を、とは言わなかったがエレナなら魔法で操られていたマルクスも、同じくただ巻き込まれたはずの少年も二人揃って手にかけそうだったので制止の言葉をかける。意外と短気な彼女の一面に驚くも、結局何一つ原因と呼べるものが分からずに首を傾げる。
「少年ってば実は有名人ですか?」
「そんなわけないです。僕は至って普通の学生です」
「ならマルクスさんの恋人が少年に名前を知っていたのは変ですね? マルクスさんと少年は互いに面識がないんですよね?」
「「はい」」
「マルクスさんと恋人と少年は互いに面識がない。のに関わらずにマルクスさんの恋人は少年の名を知っていた……
うーん。分からないですね。というかマルクスさんの恋人は一体どちらへ行ったんです?」
わたしの疑問はマルクスの消えた恋人に向いた。誰もが気になりつつも避けていた話題にあえて触れれば、皆一様に口をつぐむ。
「……マルクスさんがナイフを持ち出して、すぐにどこかへ行きました」
消え入りそうな声で少年が話すが、マルクスの手前かなり言いにくそうにしていた。いや、話すよう仕向けたわたしが言えることではないが。
先程の少年の言葉通りならマルクスの恋人は彼が突然豹変してしまったために驚いて逃げてしまったのだろうか?すぐにどこかへ行ったって所は気になるが、本人に話を聞けない以上分かりようもない。
「そうですか。話を聞きたかったのですけど、いないのなら諦めるほかないですね」
「何故マルクス・ジェイドは錆びたナイフなんて持っていたのです? 普段から持っているようには見えませんが」
「それは……
信じられないかもしれませんが、私はナイフなんて持ったことなどないんです」
「ですが現に貴方はリディア様へとナイフを向けました。それも錆びているナイフを! リディア様が変な病にかかっても貴方は知らぬ存ぜぬで通す気ですか」
エレナの声は思いのほか酒場に響いた。その言葉に辺りは静まりかえるがわたしとしてもその辺はあんまり心配はしていない。彼女がそう言ってもわたしは天使だし、簡単には人間の病気になどかかったりはしない。むしろ発症しても林檎パワーで何とかする。今は人の姿でも本質的には天使なため、やはりその辺りは平気だろうとは思うが。
エレナの鋭い言葉に意識のない間にしてしまったことを思い知ったマルクスはうろたえ、冷や汗を浮かべる。
今の所体調は悪くはない(少しクラクラはするけど)、のでここは皆の気を逸らすために口を開いた。
「そもそもあのナイフはどこいったんでしょうね?」
助け船を出すつもりで誰にともなく呟けば誰もがそう言えば、と返した。わたしはバラッツァが投げたテーブルに気をとられてしまったので、マルクスさんが握っていたナイフの行方を知らない。吹っ飛んだときにでも手から離れてなくなってしまったのだろうか。
「……特にはあの場に残ってはいなかったはずです。店主殿が投げたテーブル以外は」
「ですね。血の付いたナイフなんて落ちてたら目立つのに、見あたらなかったです」
気になることはたくさんあるが、ここで話していても手詰まりなので暗くなりかけた雰囲気を払拭するようにバラッツがおどけるように言った。
「おうおう。ならそこまでにして、飯でも食うか。いい加減冷めちまうし」
「そうですね。エレナもバラッツァさんの料理をいただきましょう? わたしもお腹が空きましたし」
「わかりました。リディア様がそう言われるのなら」
彼女の同意を得ようと空腹だと告げれば、不承不承といった表情で頷いた。どうやら今回のわたしの負傷でずいぶんと気が立っていたらしい。表面にあんまり出ないだけに、うちに抱えたものが見えずに怖い。それらがわたしに向いたわけではないのにだ。これだからエレナを怒らせるべきではないのだ。
「おら。俺の料理はうめぇぞ、遠慮せずにたらふく食えよ」
気まずい空気を払拭するようにバラッツァが明るく言えば、わたしもわざとらしく乗るように場を盛り上げるべく、未知なる料理へと手を伸ばした。