第十話 異なる歴史に違和感を覚えました。
エレナ式ミッチリギッシリ学習の手始めの回。リディアは本を読むのは好きですが、エレナが選ぶ本はすべてが分厚いので萎えてます。
気まずさMAXの朝食が終わった後にエレナとのミッチリギッシリ学習がついに始まりを告げた。朝食時に沈んだ様子で林檎を食べるわたしを不憫に思ったのかエレナは優しい声音で宥めるように言葉を発する。
「……リディア様。どうかお気になさらないでください。私はリディア様のことを怒ってはいませんので」
集中出来るように手狭な個室に移動した後でエレナが最初にそう言ってきた。その声音通りすでに不問としたのかわたしを気遣うような視線に思わずまばたきをして、エレナの顔を眺める。
「リディア様。兄様の事をランセさんに聞いたそうですね」
朝食が終わってすぐにエレナは席を立ったのだが、いつの間にランセにそう聞いたのだろう。その時のわたしはどうやってエレナとの勉強会を過ごすかばかり考えていたので全く気付かなかった。驚いてただ固まるわたしを見て彼女は苦笑を浮かべる。
「すべては兄様を護るためにこの屋敷があるのです。庭も悪しきものを寄せないようにと古今東西の魔除けとなる植物ばかり植えて。兄様はランセさんという御友人に恵まれたからこそ、今のペレスフォード候爵として兄様があります。ランセさんがご自分の将来を棒に振ってまで兄様に仕えることを選ばれたときに私も決意しました。兄様のためにメイドとなり、影ながらもお手伝いするこの道を」
その当時はまだ幼かったエレナは何処にでもいる候爵令嬢だった。婚約者もいて、何年後かは嫁ぐことが決まっていたただのお嬢様で。大好きな兄が人には言えぬ体質を生まれ持ったと、知ってしまった少女は決意したのだ。
ドレスの代わりにメイドのお仕着せをまとい、兄の身の周りを世話できるように。
スプーンより重いものを持ったことはないけれど、フォークの代わりにナイフを持って兄を守れるように。
「私には兄様と違って、魔法の才能はありませんでした。だから魔法の代わりに自分の身体をただひたすらに鍛えて、何とか護衛とまで言えるようになりました。おかけで何も知らない貴族には兄妹揃って“変わり者”扱いですけどね」
なるほど。そういった経緯があるからペレスフォード兄妹は変わり者と称されるに至ったのか。だからこそエレナは足音を立てずに歩けたし、特別な訓練を積んだから出来た技だったんだ。昨日の疑問が解決出来てスッキリするも、別の疑問が浮かぶ。
「エレナはセルジュの為に手を汚すことになっても、その決意は変わらない?」
真剣な表情で問いかければエレナは迷わずにわたしに告げた。
「もちろんです。それに既に私の手は汚れています。たった一人の兄を、家族を守るために私は武器を持ちました」
「ならわたしと同じ。わたしも大切な人を守るために戦うことを選んだから。わたしも汚れています」
お揃い、と囁くように告げれば彼女の翡翠の瞳がわずかに見開かれる。その瞳は揺れ、何かを堪えるように唇をきゅっと噛み締めていた。血にまみれる道を選んだ彼女は誰よりも愛情ぶかい人間なのだろう。他を排除して、大切な身内だけを救う彼女はわたしたち天使と似ている。
天使は神の御使いなのだから、最上は創造主である神だが、天使にとって手を汚してまで守りたいと願うのは身近に在る天使だけだ。
わたしはそう思っている。
「だからね、わたしの大切な人を守れるように、人の事を教えてください」
「…………はい。精一杯、努めさせてもらいます」
優しい授業とは思わないでくださいね、と言い置いてものすごい量の本で建てられた塔とエレナを交互に見つめる。音を立てて積み上げられたソレは一冊が分厚く塔となる様は凄まじい、の一言に尽きる。
まさか。コレ全部読めと?
なんかマナー本とか、料理、裁縫の本とかあるけど?魔法学園には必要ない分野が混じってるような気がするんだけど。エレナを怒らせると厄介だと身を持って体験したわたしには彼女に『ここまでする必要あるの?』とは言えず、積み上げられていく本たちを黙って眺めていた。
天界でもあまり事務仕事が得意ではなかったため、今のわたしにはかなりの高いハードルである事が想像に難くない。まだ本が足りないのかエレナは再び資料となる本を取りに行った。一人残されたわたしは視界を埋めつくさんばかりの物体を見つめる。
ほんとどーするんだこの本たち。
椅子に座ってるわたしよりも高く積み上げられているし。拷問器具網羅~ベスト百種!とか、異性の落し方詳しく教えます!~な変な本もあるし。エレナはわたしに何をさせる気なのか。まったくもって不安だ。エレナが新たな本を持ってくる、その僅かな時間でこれから訪れるだろうエレナ式ミッチリギッシリ学習会を思った。
どちらかと言ったらわたしは体力派だろうから、多分読むのに時間がかかる。ものすごくかかる。絶対に。てか、天使が人間の生活環境なんてこと、教わるのわたしぐらいだろうな。ミカエル様だったらどうするんだろ、と現実逃避をしていたわたしは机に広げられたテーブルクロスに描かれた一枚の地図が目に入り、何となく見つめた。
じっと食い入るように地図を眺めているととある名が地図上にはあった。どうにもその地名には疑問を覚える。もやもやとした何かを持て余していると、学習会に使う資料を更に探し出してきたエレナはでん、と本の塔を増築した後に、わたしが見ているその地名を覗き込む。
「ああ。これは私たち人間の暮らしている地上の地図ですね。じっと見つめられているようですが何かおかしなところがありましたか?」
「あれ? 人間には伝わってないんですかね?」
「何がですか?」
「えと。この地図だと、ここ。不可侵領域ってなってるけど、何かあったんですか?」
ツツー、とテーブルクロスを指ですべらせ、とある位置で止める。天界から地上界へと降りてくる時もこんなものは見たことがない。その場所は確か海以外何も存在していなかったはずだ。なのに。この地図にはそれが載っている。何故なのだろう。
「そこはですね。遠い昔に海に沈んでしまった都市で、魔法の始まりの地とも言われているんです。魔法で今日まで栄えたこのクロノティアと不可侵領域とされる“イードラント”はかつては陸続きであったそうですが何らかの理由で滅んでしまったと。クロノティアとは同郷ですから沈んでしまった都市もこうやって、記録に残しているんです」
「魔法の始まりの地。ここがそう、なんですね」
やはり地上界と天界では伝わる情報が異なるようだ。この場所は天界では“堕天使の生まれた地”として忌むべき場所と伝わっているのに。それに地上界では“イードラント”が滅んだ理由さえ定かではないなんて。
ミカエル様は特にこの時代の事を話すのを嫌がっていたから、わたしも無理には聞かなかったけれど。これはもしかしてわたしも知らない、天界の闇の部分なのかもしれない。今はまだ確かな情報がないから何とも判断つけがたいが。
晴れぬ疑問を抱えながらわたしはエレナが差し出す重厚な表紙のページをめくった。
少し地名が出てきたので。
後に乙女ゲームの舞台となる魔法学園は、魔法王国であるクロノティアにあります。もちろんペレスフォード領もクロノティアに存在してます。
魔法学園から南西の方向に位置し、王都よりは近いイメージで。
不可侵領域となっているイードラントは周囲を海で囲まれた、陸の孤島。だけど何千年前に海に沈んだかつての魔法大国。なので実際には海しかないが、地図上にはちゃんと存在している。どの国も近づくことが出来ない土地となっています。