かくなすべしと罪過を悔い
私の身体が役立ちますよう
せめて愛しいあなたの為に
いのち捧げたあなたの為に
その挺身を識ったから、聖女はきっと、愛を捧げた。
街外れの、屋根の崩れた襤褸小屋。
吹きすさぶ風を辛うじて防ぐだけの目張りがカタカタと音を立てる中、聖女はくたびれた黒衣を纏い、錠前に鍵を挿す。
「――ただいま」
風の音だけが寂しく響き、誰すらも答えない殺風景の中、聖女はそう告げるとカーテンの締め切られた奥の部屋に歩を進める。
――聖女。
いや正確には「嘗て聖女と呼ばれた者」とでも評すべきか。
今の彼女は、自身でもそう呼ばれる事を善しとしないだろうし、既に他国と化した嘗ての故国に、罪人として追われている身でもある。
棄てられた聖堂に身を寄せ、祈りを捧げていただけの一介の孤児が、奇跡の乙女と持て囃されるまま、身も丈も弁えず一国の主となった、去りし日の驕傲。
しかし戦争の放棄を掲げ、非武装を謳い武器を棄てた彼の国を待ち受けていたものは、自明の如く他国による蹂躙でしかなかった。
紛い物の奇跡を信じた哀れな民草は、その戦争で大半が死に絶え、或いは虜囚となって流浪の身を強いられているという。
――だとすれば寧ろ、彼らからしてみれば魔女か、或いは悪魔と呼ぶのが相応しいのかもしれない。恐らくは彼女自身も、そう希っている。
* *
「――ただいま、ララト」
二度目の声に、しかしやはり返事は無い。承知しているとばかりに頷いた聖女は、揺り籠の中で眠る黒い塊に微笑んで見せた。
それは瓢箪の様にあどけない、小柄な悪魔だった。――嘗てどうしようもない愚女を守る為に傷つき、倒れていった哀れな悪魔。隆々だった筋肉も、見上げるだけの背丈も見る影も無く、ただ外貌に不釣合いな深い傷が、あちこちに刻まれている。
「今日もお夕飯を取ってきたよ。一緒に食べようね」
相変わらず目を閉じたままの悪魔を他所に、聖女はいそいそと夕餉の準備にとりかかる。
すり鉢で薬草を煎じ、ボトルに入れ液体と混ぜ合わせる。最後にそれを口に含んだ聖女は、悪魔の口を優しく開けると、口移しで流し込む。――悪魔の喉仏が微かに動くのが、辛うじて彼が生きているであろう事実を教えてくれた。
* *
――奇跡の正体は悪魔だった。
それを聖女が識ったのは、焼け落ちる宮殿の中、貞操が奪われんとする正に刹那。自分が罵り、命を奪った筈の悪魔が、遺言と共に盾となり、そうして散った爾後だった。
手を触れた瞬間に流れ込んできたものは、走馬灯の様に過る悪魔の記憶。その風景は遥か昔にまで遡り――、やがて聖女は、自分に降りかかる災厄の全てが、彼の手によって防がれていたのだと、ようやっと知るに至る。
何処からか届く、食べ物に金貨。使い古しのお洋服。自分たちを追い出そうとする貴族や、迫り来る敵国を追い返し続けたのは――、神ならぬ、たった一人の悪魔だったのだという事実。
その真実を知らず、ただ僥倖に日々を歩むことを神の愛だと信じ込んだ嘗ての自身を、聖女は信じ得ぬ暗愚であったと今は恥じる。
冷静に考えれば分かる筈だった。なにせ悪魔がやって来るまでは、自分が棒切れを構え戦い、他の孤児たちを守っていたのだ。――だのになんだってあんな思い上がりを。
聖女は悪魔の口に流動食を流し込みながら、幾度も幾度も自身に問う。しかしあれからもう数年が過ぎたにも関わらず、悪魔が目覚める気配は微塵も無い。
* *
「あら?」
それから半刻。俄に背後で響く音に、聖女は眉をひそめて振り返る。――どうやら客人が来たらしい。それも歓迎するに足らない、寧ろ招かれざる客が。
すっくと立ち上がった聖女は、拳を握りしめて前を見据える。その身体は、寸時に黒い瘴気によって包まれた。
どうやらあの日の接触を境に、悪魔の力の幾ばくかは、聖女の身体に乗り移ったらしい。鈍黒い染みが徐々に身体を侵すのと引き換えに、今の聖女は人智ならざる力を手にしていた。
「――どうも、失礼します」
飽くまでも平静を装う男の声は、しかし分かりやすい程に血の気を帯びている。教会から遣わされた審問官か、或いは単なる賞金稼ぎか。
「はい、どなたでしょうか」
表情を取り繕いドアを開ける聖女の前で、どうやら前者であったろう男は笑顔を向ける。肥え太った身体に、脂ぎった面構え。――名士たる聖職者に相応しい外貌の持ち主。
「いえいえ、敬虔なる神の子羊から話を聞いたものですから。――郊外に妙齢の女性が一人、慎ましやかに暮らしていると」
そう言いながら舐め回す様に聖女の肢体を見回す男は、柔和な笑顔の終わりに、些かの下卑を滲ませた。
「あらそうでしたか。――立ち話も何ですから、どうぞ中へ」
聖女も聖女で、敢えて気のある様な素振りを見せながら、男を小屋に招き入れる。
聖女は既に知っていた。いや、思い出したとでも言うべきか。
自身の身体が、男の好色な視線に晒され、そういう意味合いの価値を持っているという事実に。
「こんな場所でお一人暮らしとは、大変な事もございましょう」
――お茶をお持ちします。そう告げた聖女の背後に立った男は、待ちすらもせずに、荒い息遣いで腰に手を回す。
「――いえいえ、それなりに暮らしは出来ておりますので」
「ところがご婦人――、貴女を魔女だと呼ぶ不埒な輩もおりますもので」
案の定、言うことを聞かなければ、いつだって裁判に掛けられるのだぞと、男は聖職者だからこその睨みを効かせてくる。
――ああ。こんなものが頼った神の、遺した子羊か。
同じような光景を何度も目にするうち、聖女の瞳には、神の名を騙る鉄面皮な狼たちへの、侮蔑と憎悪が濁り渦巻いていた。
「あらあら、不埒ではなくそのお噂、事実でしてよ」
そしてくすりと笑った聖女は、男の腕を一瞬で握りつぶした。悲鳴を上げる間も無くねじ切られた首は、明後日の方向を向いてぴくぴくと泡を吹く。
「――そう、魔女でしょうとも。こんな女が、魔女以外であってたまるか」
ぼそりと独り言ちた聖女は、男の遺骸から金目のものを抜き取ると、血を啜ってから肉を食む。
まったく自分は酷い女だ。嘗てはこうして、たった一人に全ての穢れを預け置いて、素知らぬ顔で聖女を演じていたのだ。――だったら次は、自分の身体も汚さなければ、自分で自分を許し得ない。
* *
そうして全てを片付けた聖女は、立ち上がって鏡を見ると、精一杯の笑顔を作ってみせる。――ああ、だけれども。彼が目を覚ました時、彼が好きだった自分で居られる様にと願いを込めて。
悪魔の元に戻り、もう一度顔を覗き込んだ聖女は「ごめんねララト。また次の場所に行かなきゃなの」と額にキスをして、布切れの中に彼を抱いた。
――ララト。悪魔の記憶から漏れ出て来た彼の名を、聖女は何度も反芻する。次こそは、次こそは。私があなたを幸せにしてみせる。そう胸の奥で誓いながら。