第八夜-8
☆13
M=C支部地下の無機質な廊下を、足音ひとつ立てずに歩きながら、青尉は思っていた。黄ぃ兄が無理してるのは一目瞭然だ――ばれてないって思ってんだろうなぁ・・・黄ぃ兄って、俺とか朱兄よりずっと意地っ張りだから・・・。
下手に心配などしようものなら、いやいや大丈夫だよ心配しなくて無理なんてしてないから、と笑いながら、言外に『これ以上無用なことを言うな』と釘を刺されて終わることだろう。朱将のように『余計な心配すんな』と、刺々しくも分かり易く言ってくれた方がまだマシだと思う。
だからこそ、俺がしっかりして頑張らなくては――と青尉は思うのだった。――勝手に撃沈して、助けられるばかりだった分、今度は俺が兄貴を助けるんだ。
「電子機器と火器を優先的に破壊して。それさえなければあとはどうにでもなる。――次を右。」
連れてこられる間にルートを記憶していたらしい。黄佐の的確な指示は沢木に口を挟ませることなく飛ばされ、青尉はそれを背に神経を集中させた。匂う――曲がり角の向こうから、市販の鉛筆の芯の最硬度である9Hよりも、さらに硬いシャーシンの気配がする。ここにきて初めて知ったが、これほど硬いシャーシンは視界の中に収めないと支配下に置けないらしい。
青尉は歩くスピードを速めた。
相手の方が速く曲がり角から顔を出し――不用意だなぁ、見えない範囲に踏み込む時はもっと慎重に行かねぇと。――目の前に青尉の接近を見て、銃を持つ手が震えた。後続が引き鉄を引こうとした時には、すでにすべての火器がその構造から炭素を抜き取られ、使い物にならなくなっている。
そして、青尉が右手を振るう。硬いシャーシンを出来うるだけ柔らかくし、鞭状に。決して致命傷を与えないように、しかし鳩尾、こめかみ、顎など急所は正確に狙って殴り飛ばす。
「ひぃっ・・・!」
次々倒れていく仲間を前に、最後列にいた数人が逃げ出した――が、誰が逃がすと思っているのか。青尉が逃走する背中を指差すと、命令に応じてシャーシンが走る。そしてその足元を掬い上げた。派手に転んだところへすかさず追撃を加え、沈黙に追いやる。そうして、たったの数十秒と数えぬ内に、全員を昏倒させた。
ひゅう、と黄佐が口笛を鳴らした。「さっすが青尉、あっという間だねぇ。とはいえ、油断は禁物だからね。索敵状況はどう?」
青尉は粉上にした黒炭を周囲にまき散らし、壁以外に流れを阻害するものが無いか確認した。それはまるで、巨人が透明な腕をすっと伸ばして辺りを撫でているようだった。もちろん、黒炭に触覚は通じていないのだが、流れていくかいかないかの判断が付く。
「・・・オールグリーン。少なくとも、非常階段までは。」
「オーケー、それじゃ、さくっと進攻しよう。」
言いながら、黄佐はまったく警戒を怠らないで、曲がり角に差し掛かるたびに一旦止まって確認を取る。別にそれは青尉を信用していないのではなく、あらゆる可能性を疑っているからだった。
ハンドサインを交わしつつ、着実に、素早く、2人(と青尉の黒炭に引きずられる2人、すなわち計4人)は、非常階段を上り切った。
階段の最後は蓋で塞がれていて、どうやら1階の床に出るらしいとは分かった。黄佐がほんの1ミリほど蓋を持ち上げ、その隙間から青尉が炭素を流し込み――流れが阻害されることを感知した。黄佐に目で伝えると、黄佐は即座に頷いた。――やれ、と。
青尉が右手を軽く握る。炭素の変質、続けざまの変形。薄く長く、布状に伸ばし、そこにいた人たちを問答無用で絡め取る。何が起きたのか、理解できた人はいなかったことだろう。中には――1人か2人くらいは――刀堂青尉が脱走した、という情報からこの黒い物体が黒炭であると気付けたかもしれない。だがそれが一体何になるというのだろう。気付いたところで、もはや指1本も動かせない状態だというのに。
完全に動きを止めたと察知してから、黄佐はゆっくり蓋を上げた。少しだけ上げて前方と左右を確認し、青尉に合図を出す。黄佐の脇をすり抜けて、青尉が蓋を完全に押し開け、素早く背後を確認。
「・・・クリア。大丈夫だ。」
「了解。」
上がると、そこは台所だった。ごくごく普通の、CMで見るモデルルームのようなキッチンである。
「ほんっと、普通の家に偽装してんだねー、M=Cさんって。まぁどうだっていいんだけれど。」
黄佐がひとりごちるのを横目に、青尉は拘束したユウレカの連中をひとまとめにし、炭素を完全に固定して、自身の支配下から切り離した。こうしておけば、意識的に拘束し続ける必要がなくなる。
「黄ぃ兄、こっからどうする?」
「勝手口から出よう。」家の裏手に面した窓から外を見つつ、黄佐ははっきりと告げた。「見た感じ、まだユウレカの援軍は到着してないようだし。お誂え向きに、すぐそこは山だ。目測20メートルってとこかな。山に入っちゃえば、たとえ援軍が来たとしても逃げやすい。」
「了解。それじゃあ――」
「俺が先に行くよ。索敵と、万一の時の対処はよろしく。」
「分かった。」
青尉は勝手口のドアノブをひねり、これまでと同様、粒子状にした炭素を外へ放った。家の周囲から、山の木々の中まで、シャーシンの粉を流していく――「――? 待った、黄ぃ兄。何か変。」
そう言うと、黄佐が緊張感を纏った。「どんな風に?」
「山ん中・・・シャーシンの流れ方が変。誰も、いないように見えるのに・・・明らかに、人がいるみたいなんだ。」
「相手方の能力かな。」低く呟いて「どれぐらいの人数か、想像つく?」
青尉は慎重にシャーシンを操作した。いるかいないか、と探る大雑把な索敵から、どれほどいるか、という高精度の索敵に。巨人の腕で薙ぎ払うのでなく、指でそっとなぞっていくように。そして、流れが分割される瞬間を細かく拾い上げていく。
「・・・たぶん、10人くらい?」
「なるほど。うーん、どうしよっかなー。」黄佐は口をつぐみ、考えに没頭した――10人前後、ポイント14からの援軍かな。確かあそこには能力者が3人ほど含まれてたはず・・・。表から出てってもいいけれど、それだと何かと不便そうな感じはするんだよね、色々と。畑ばっかで見通し良くって狙われやすい地形だし、なにより畑を荒らすような事態は避けたいところだからなぁ。やっぱり能力者がいようといまいと、先手必勝でさくっと倒して逃げるが勝ち、か――結論を出しかけた、その時だった。
青尉は唐突に、強い耳鳴りと頭痛に襲われた。
「うっ、っ!」
「青尉っ?」
黄佐の声がかなり遠くに聞こえる。周りの景色が一瞬で遠のいて、視界が暗闇に染められた。青尉は、自分がぐらりとバランスを崩し、倒れ込んだことにも気が付かなかった――それも、ドアノブを掴んだまま、ドアを開くような形で。
「今だ! 押さえろ!」
やはり能力で潜んでいたらしい。木々の陰から飛び出してきた連中が、一斉に殺到する。
やっば、これはマズイ! 黄佐は慌てて、――本当に慌てたのだ。いつになく焦ったのだ。それは疲労の所為でもあった。いつも通りの冷静さがあれば、違う方法で違う結果を出していたに違いないのだが――とにかく青尉を家の中に引きずり込もうと、腕を伸ばした。瞬間、
パシゥッ
と、炭酸飲料のペットボトルを開けた時のような音がした。聞こえたとほぼ同時、黄佐は地面に頬をこすりつけていた。ワンテンポ遅れて、肩に焼き印を押されたような痛みを感じ、――あ、撃たれたんだ。なるほどあれはサイレンサー越しの発砲音だったわけか、勉強になったなぁ。――となぜか冷静に思った。
冷静でいられたのはその一瞬だけだった。
「いっ・・・たぁ・・・う、ぐ・・・っ!」
痛い。痛いというか熱い。いややっぱ痛い。無駄になるはずだった知識が脳内を走り回り、“銃弾は体内に入った瞬間組織を押し広げてダメージを与えるから、当たった後の出血量と痛みがやばいらしい”と告げる。いややっぱり無駄な知識だ。まったくその通りだったと考えることすらできない。次に黄佐の脳は、肩の周辺を走っている重要な血管の名前を並べ立てた。大動脈さえ避けていれば大丈夫、だいじょうぶ・・・そうこうしている内に、頭が、朦朧として、くる。
突然自分の足元に力なく倒れ伏した兄を見て、青尉は目を見開いた。頭痛の所為ではなく、息が上がる。『撃たれても血しぶきなんて上がらないんだよ。』と、いつだったか黄佐が洋画を前に言っていたのを思い出した。『その代わり、倒れた後に、傷口からぶわーっと血が広がるんだ。』――その通りだった。黄佐の肩の辺りから、真っ赤な水溜まりが四方八方に広がっていく。
「黄ぃ、兄・・・っ!」青尉は指を動かして、――くそっ、動けよ、動けよっ! 俺の能力は最強なんだろっ? 完璧なんだろっ? ・・・頼む、頼むから、兄貴を助けさせてくれよ・・・っ! でなけりゃ、どうして、俺なんか存在する意味がある? どうして、俺なんかが生きてる意味があるんだよっ! 「――動けっ! 動けよっ!」
ユウレカの連中が詰め寄ってくる。シャーシンは動かない。全身を蝕むほどの頭痛を無視して、右手を何度握ろうと、指を何度持ち上げようとも、何も起こらない。まるで、最初から青尉など能力者ではないのだ、とでも言わんばかりに、黒い塊は塊のまま、粒子は粒子のまま、地面に転がって沈黙している。
「くそ・・・っ!」青尉は右手を強く握りしめた。爪が食い込み、皮膚が破れても、まだ強く、なお強く。――黄ぃ兄が死んでしまう。俺の所為で・・・俺の所為で! 「うっ、あ・・・ああ・・・あああああああああっ!」
その絶望を。獣のような慟哭を。その無力感を。自分の血で染めた右手を。
果たして誰が聞き届けようか。
果たして誰が拾い上げようか。
果たして、誰が――
「青尉! 黄佐!」
――救いたもうか。
1台のトラックが、何人かをすんでのところで轢き殺しかけながら、青尉の目の前に急停止した。頭の上数センチのところをタイヤが掠めたが、この程度のことにひやっとするほどやわな神経はしていない。それほどまでに神経が麻痺している、とも言うが。なにより、こんな無茶な運転をする人を、青尉は1人しか知らなかった。この無茶苦茶な運転が、今は何よりも、心強い――
「――朱兄・・・!」
「乗れ!」言うが早いか、運転席から飛び降りた朱将が青尉の首根っこを掴み、荷台に放り投げた。「拓彌、良平、攪乱!」
「おう!」
「うッス!」
2台のバイクが、羊を追い立てる狼のように走り回って、場をかき乱す。銃も能力も、殺戮マシーンと化したバイクを前には使用することすらままならない。
「黄佐、動かすぞ。牧野、先にこいつを頼む!」その隙に朱将が黄佐を座席に押し込み、沢木と碓氷も荷台へ積み込んで、アクセルを踏み込んだ。「撤収っ!」
☆14
トラックは信号の少ない裏道を疾走していく。
青尉は荷台の上で、強い風を全身に受けながら、天を仰いでいた。ずいぶんと久しぶりに見る青空だ。冬の透き通った青空。
全身が重たくて、身じろぎひとつできないでいるのだった。山道に荷台が大きく揺れても、痛みも覚えない。それは別に、怪我がどうだとか、疲れがどうだとか、そういう問題ではないのである――ただひたすら、心が重い。頭痛はなくなったが、次に体を蝕んだのは罪悪感だった。何もかも、兄に甘えて、兄に助けられ、兄に支えられ・・・兄を傷つけた。撃たれたのは自分の所為なのだから、自分が撃ったも同然だ。――それから青尉は、唾を飲み込んで、恐怖に身を震えさせた。黄ぃ兄がもし・・・もしも、死んでしまったら、どうしよう。死んで・・・いなくなって・・・しまったら・・・。
「――うっ・・・たた・・・。」不意に、碓氷が目を覚ました。「え・・・なにこれ・・・どういう状況・・・?」それから、自分が気を失う前のことを思い出したらしい。「そうか、なるほどねぇ。あぁあ、失敗しちゃったなぁ。これは上にどやされるよ・・・やっぱりあの時、あんな男なんて殺しておけばよかった。」
その言葉を聞いた――“あんな男”が指している人物を察した――瞬間、青尉の頭に体中の血という血が殺到した。気が付くと青尉は碓氷の胸ぐらを掴んで、荷台の床に叩きつけ、馬乗りになっていた。殴ろうとしてもう一方の手が使えないことに舌を打つ。だが逡巡したのは一瞬のことで、素早く胸倉を放すとその手で碓氷を思い切り殴った。鈍い音と醜い呻き声。聞くたびに耳が汚れていくような気がしたが、1度聞いて、2度聞いて、3度聞いて、それでも気が収まらなかった。
「――い、おい、青尉!」
突然、腕を掴まれて引きはがされ、青尉は我に返った。いつの間にか、山道の途中でトラックが停まっている。碓氷は当の昔に、顔中を血だらけにして沈黙していた。そしてまた、朱将に掴まれた右腕の拳も、裂けて血みどろになっていた。
「何やってんだお前、ソイツ殺す気かっ!」
「だって、だってコイツ、黄ぃ兄を・・・!」
「だってもクソもあるかっ! 八つ当たりもいい加減にしろ!」
ずばりと一喝され、青尉は唇を噛んだ。――確かに、八つ当たりだ。八つ当たり以外の何物でもない。高ぶっていた気持ちが瞬時に冷え込み、心がみしりと音を立てた。
拳から完全に力が抜けたのを見て、朱将は手を離した。ため息をひとつ。それから、そのまま運転席に戻ろうとして――「・・・ったく、しょうがねぇな!」――踵を返した。
「ほら、いつまでもぐずぐずしてんな、青尉。」へたり込んで放心している青尉の前にしゃがんで、頭に手を置く。髪の毛をわざとぐちゃぐちゃにかき乱す。ひとしきり乱してから手を離すと、青尉が顔を上げて――まだ落ち込み、苛立ち、自分を責め、嫌った顔色だった――朱将を見上げた。朱将はにやりと笑って、「おらよ、持っとけ。」
投げられた小さな物体を、青尉は片手だけでキャッチした。手の中にしっくりと納まる感触。プラスチックのケースと、その中で揺れるシャープペンの芯――自分だけの武器。怪我人は手を出すな、と言い、八つ当たりはいい加減にしろ、と言った、他ならぬ朱将が、青尉に武器を持たせたのだ。
朱将は片頬で笑った。
「さっき渡しとかなくって正解だったな。それあったら、お前確実に殺してただろ。」
「・・・。」皮肉っぽい口調にも、何も言い返せないで、青尉は唇を尖らせる。
「ははっ。」拗ねたガキみてぇ。・・・いや、ガキか、青尉はまだ。・・・うん、ガキのままでいいんだ、今のところは。――朱将は荷台から飛び降り、背中越しに言った。「黄佐なら大丈夫だ。家に着く頃には、全快するってよ。」
「は? ・・・え、それは、どういう・・・?」
「治癒能力者がいるんだ。黄佐が、山瀬んとこから借りてきた奴がな。そいつが今、治してくれてるから、安心しろ。」
淡々と述べ、朱将は運転席に戻った。
ほどなくして、車は再び走り出した。青尉は、ぐちゃぐちゃにされた頭をそのままに、座り直した。朱将はあまり言葉を使わない。今はそれが、何より温かみを帯びていた。
車は山を下りて市街地へ。だんだん見慣れた風景になり、自分の家へと近付いていくのが分かる。――懐かしい、とすら思った。1日も離れていないのに。あまりにも遠い、あまりにも暗い場所にいた所為だろうか。
青尉は手のひらの中のプラスチックケースを握りしめた。血が滴り落ちる。冬の冷気が傷口に染み込む。もう1度天を仰いで吐いた息は、白く凍って宙に霧散した。ワイシャツ1枚ではさすがに寒いが、その寒さが心地良かった。
夕焼けは、あと5分もすれば夜闇に変わるだろう。冷たくて、底知れなくて、孤独で――寂しがりの夜に。夜になると青尉はお葬式を思い出すのだった。葬式の帰りに見た、蒼白の月の色を。全身を冷たいもので、隙間なく包まれたような恐怖を。その中で身を寄せ合って、繋いだ手の温かさを。
ふと、夢の続きを思い出した。
――いい、方法はいくらでもあるんだから。何か少しでも嫌なことがあったら・・・。
「・・・できる範囲で、自分の良いように変えてしまえ、か。」
小さな声で呟いて、青尉はゆっくりと瞬きをした。
夜が来る。能力者たちのような、真っ暗な夜が。




