書き換えられた契約書
「畑の持ち主は俺だ。だが、金を受け取るのは妻にしてくれ」
グレンは当然のように言った。
宗久は契約書へ向けていた筆を止めた。
「理由を聞いても?」
「俺に渡すと、種を買う前に酒になる」
「自分で言うんですか」
「去年、樽で買った」
雨宮が咳払いをした。
「契約する人と、代金を受け取る人が違う場合の決まりはありますか」
ロアンが首をひねり、リリアを見る。リリアも同じ方向へ首を傾けた。
「市場では、品を持ってきた人に払うよ」とリリア。
「契約書には?」
「野菜を売るのに紙なんて使わないもん」
初めての店に、初めての契約書。前例に頼ろうにも、その前例がなかった。
「奥さん本人にも確認させてください」
宗久が頼むと、グレンは畑の下にある家を指した。
「今ごろ土中芋を洗ってる」
グレンの妻は、家の裏で桶を三つ並べていた。名はテナ。袖を肩までまくり、赤茶色の芋を洗っている。事情を聞くと、濡れた手を前掛けで拭いた。
「白根の代金は私が受け取ります。種と肥やしを買って、残ったらこの人に渡します」
「残るのか?」とグレン。
「去年より飲まなければ」
夫婦の問題は夫婦で決めてもらうとして、店が確認すべきことは決まった。
契約者と支払先を分ける。支払先本人にも内容を読み上げ、印をもらう。代金を渡したときには、受取印を残す。
雨宮が三枚目の紙を取り出した。
「店、農家、支払先で一枚ずつ持ちましょう」
「全部同じ物だと、あとから一枚だけ替えられても分かりません」
宗久が言うと、リリアが自分の髪を結んでいた黄色い紐をほどいた。
「これ、使う?」
「髪はいいのか」
「今日は風がないから」
細い紐を三本に切り、三枚の契約書の左上へ通した。結び目には、グレン、テナ、宗久が順に指で泥を押しつける。三枚を重ねたとき、泥の跡が一つの丸になるようにした。
「切って結び直せば、跡がずれる」
ロアンが紙を日に透かした。
「リリア、たまには頭を使うな」
「いつも使ってるよ。ロアンより減ってないだけ」
「俺の頭は減ってない」
「じゃあ、最初から少ない」
二人が言い合っている間に、雨宮は読み上げた内容を日本語でも手帳へ残した。数量、価格、納品日、支払先。リリアにも現地語で短く書いてもらう。
契約書が三枚。色紐と泥印。二つの言葉による記録。
「ずいぶん大ごとになったな」とグレン。
「樽で買わなければ、一枚で済んだかもしれません」
雨宮が言うと、テナが声を上げて笑った。
その日のうちに、契約農家は三軒になった。
二軒目はミーナだった。
リリアの母だからと先に頼るのを避けていたが、事情を聞いたミーナは宗久の前へ葉野菜を三束並べた。
「娘を働かせておいて、うちの野菜だけ買わない方が変でしょう」
「身内取引だと言われます」
「だから契約を見せればいい。値段も、買う量も、ほかの畑と比べてもらいなさい」
ミーナは、リリアより話が早かった。
三軒目は、火蜜の実を育てるサナとメルの姉妹だった。赤い実を割ると蜜のような汁が流れ、舌に乗せた瞬間だけ熱くなる。
「子どもに売るなら半分に切って」と姉のサナ。
「一人で三個食べると、夜までしゃっくりが止まらない」と妹のメル。
「それ、先に言ってください」
宗久は販売方法の欄へ大きく書き足した。
三軒とも、同じ形式で契約した。三枚の紙に、農家ごとに色の違う紐。グレンは黄色、ミーナは青、サナとメルは赤。読み上げ記録は雨宮の手帳に残す。
店へ戻ると、宗久は三組の契約書を木箱へ入れた。蓋は閉まるが、鍵はない。
「これ、誰でも開けられるよ」
リリアが実演するように蓋を持ち上げた。
「見れば分かる」
「見なくても開けられるよ」
「そういう意味じゃない」
店には、まだ鍵のかかる事務所がなかった。宗久たちが寝起きする奥の部屋にも、売場との間に薄い扉が一枚あるだけだ。裏口は納品の準備で昼間ずっと開けている。
雨宮は契約書の番号を手帳へ写した。
「今夜は私が持ちます」
「帰るときに門で止められませんか」
「現地の契約書を日本へ持ち出す許可は取っていませんね」
「じゃあ俺が枕にします」とロアン。
「寝汗で読めなくなるので却下です」
結局、木箱を奥の棚の最上段へ置き、前に空の瓶を三本並べた。箱を動かせば瓶が落ちる。鍵が届くまでの、ひどく頼りない防犯だった。
翌朝、店の裏口をたたく音で宗久は目を覚ました。
机へ突っ伏して寝ていたらしい。頬に商品一覧の罫線がついている。
「店長、グレンさんが怒ってる」
リリアが顔を出した。
「何があった」
「お金をテナさんに払う約束が消えてるって」
眠気が飛んだ。
売場へ出ると、グレンが黄色い紐の契約書を握っていた。隣にはテナもいる。
「読め」
突き出された紙をロアンが受け取った。支払先の欄を見て、顔色が変わる。
「代金は、契約者グレンへ支払う」
「昨日は妻へと書いた」
「書きました。俺が」
ロアンの筆跡だった。
店に残した控えを出す。そこにも、同じ文があった。
テナの控えだけが「妻テナへ支払う」となっている。
宗久は奥の棚を見た。木箱の前に置いた瓶は、三本とも立っている。
「夜中に瓶が落ちる音は?」
「聞いてません」とロアン。
「俺もだ」
箱ごと動かした形跡はない。それでも店の控えは書き換えられている。犯人は瓶を倒さずに箱へ手を伸ばしたか、契約書を箱へ入れる前にすり替えたことになる。
「昨日、この紙に触った人を全部思い出しましょう」
雨宮が新しい頁を開いた。
宗久、雨宮、ロアン、リリア。グレンとテナ。店へ戻る途中で道を聞いた荷運び人。裏口へ木材を置いていった大工が二人。
名前を書き出すほど、疑える相手が増えていった。
「三枚のうち、二枚が同じなら、そちらが正しいと判断するのが普通です」
雨宮が言った。
ロアンが顔を上げた。
「俺が書き換えたって言うんですか」
「まだ誰がとは言っていません。ですが、現地語を書いたのはあなたです」
「雨宮さん」
宗久が止めると、彼女は唇を結んだ。
数字と枚数だけなら、二対一だ。筆跡もロアンのものに見える。だが、昨日は三枚を読み上げて全員で確かめた。
「黄色い紐を見せてください」
リリアが、グレンの紙を受け取った。
「これ、昨日のじゃない」
「なぜ分かる」
「私が切った紐は、端っこが斜めだった。これ、まっすぐ」
雨宮が自分の手帳を開く。
「読み上げ記録も、支払先はテナさんです」
「でも、その手帳を書いたのはあんたらだ」とグレン。
「はい。これだけでは証拠になりません」
雨宮はすぐに認めた。
宗久は三枚の契約書を重ねた。黄色い紐の結び目にある泥印は、どれも少しずれている。ただ、店の控えとグレンの控えは、ずれ方まで同じだった。
「二枚とも、紐を外してあります」
「結び直したのか」
「たぶん。紙そのものも見たい」
窓の光では分からない。リリアが倉庫から魔力灯を持ってきた。青白い光を契約書の裏から当てる。
紙の中に、薄い線が浮かんだ。
「文字が二つある」
ロアンが息をのむ。
表から見える濃い文字の下に、削り取られた古い文字が残っている。紙の繊維が毛羽立ち、そこへ似た筆跡で新しい文がなぞられていた。
リリアが二つの文字を指で追う。
「下にあるのは、テナさんの名前」
ロアンは何も言わなかった。
雨宮が彼の正面へ立った。
「疑って、ごめんなさい。枚数と筆跡だけで決めかけました」
「決めかけただけですよね」
「ほぼ決めていました」
「そこまで正直に言わなくても」
ロアンが頭をかいた。怒鳴らなかったので、宗久は少しだけ息をついた。
「リリア。紐のことを言ってくれて助かった」
雨宮が礼を言うと、リリアは自分の髪を押さえた。
「今日は風があるから、次は髪の紐じゃないのにして」
「店の備品で買います」
宗久は削られた文字へ顔を近づけた。新しい文字には、赤みの強い黒インクが使われている。乾いた表面に、細かな金色の粒が混じっていた。
ロアンが鼻を寄せる。
「この匂い、知ってる」
「どこの物だ」
「香辛料を混ぜた虫よけインクです。市場で使ってるのは、一軒だけ」
宗久は三つの赤い指輪を思い出した。
「ヴァルドの店か」




