敵でも保証人になれる
「うちのインクだ。それで、私が契約書を書き換えたことになるのか?」
ヴァルドは偽造された契約書を一目見ただけで認めた。
香辛料店の帳場には、同じ匂いが満ちている。乾いた唐辛子、潰した種、甘い樹皮。その奥に、わずかに金属を焦がしたような臭いが混じっていた。
帳場のインク壺には、赤みを帯びた黒い液が入っている。灯りへ近づけると、金色の粒が光った。
「一致しています」と雨宮。
「当然だ。私の店で作らせている」
「ほかでは売っていないと聞きました」
「店では売っていない」
ヴァルドは右手を上げた。三つの赤い指輪が並ぶ。
「だが、納品書を書く商人には配っている。倉庫番にも、荷運び人にもだ。虫が紙を食わんのでな」
「何人に?」
「先月だけで四十人ほど」
証拠としては弱すぎた。
契約書が置かれていた部屋に鍵はない。店員だけでなく、納品に来た人間も裏口から入れる。ヴァルドのインクを持つ者が四十人。本人が命じた証拠は一つもない。
「私を組合へ突き出すか?」
「この紙だけでは無理です」
「分かっているなら、なぜ来た」
「確認のためです」
「何を」
宗久は帳場の端に積まれた袋を見た。塩、胡椒に似た黒い粒、乾燥させた葉。どの袋にも産地と重さが書かれ、口は色紐で封じられている。
「あなたが、雑な商人かどうかを」
ヴァルドの眉が動いた。
「喧嘩を売りに来たなら、もっと分かりやすく言え」
「偽造を頼むなら、四十人が持っているインクは使わせないでしょう。契約書の紐も、もっと似た物を用意する」
「私が間抜けではないから無実だと?」
「無実とは言ってません」
雨宮が宗久の横で小さく息を吐いた。止めるか迷っている顔だった。
ヴァルドは椅子の背へ寄りかかった。
「疑いながら、何を確認しに来た」
「保証人になってください」
奥で袋を運んでいた店員が、胡椒の袋を落とした。
床に黒い粒が散る。
「店長」
雨宮が日本語で呼んだ。
「聞いてません」
「今、思いつきました」
「それを先に言わないでください」
「どっちを?」
「両方です」
ヴァルドには日本語が分からない。それでも、雨宮の顔を見れば相談済みでないことは伝わったらしい。
「異邦人は、敵に保証を頼むのか」
「信用されていないから頼みます」
「意味が分からん」
「店が仕入れ代金を払わない。食べ物で事故を起こす。何も言わず日本へ帰る。あなたは、そのどれも見逃さないでしょう」
「当然だ」
「私たちに甘い人より、保証人に向いています」
ヴァルドは指輪の一つを親指で回した。
「保証人は、問題が起きれば金を払う」
「だから、条件を決めてください。店の金の動きを確認できるようにします」
「帳簿を見せるのか」
「仕入れ額、売上、廃棄、未払い。現地で動く分は見せます。日本側の原価や社員の給与は会社の情報なので、勝手には出せません」
「都合の悪い数字は、異邦の文字に隠せる」
「現地語の帳簿も作ります」
「二つの帳簿が違えば?」
「営業を止めて、組合へ報告します」
「口約束だ」
「契約にします」
宗久が答えるたび、ヴァルドの質問は細かくなった。
未払いが起きた場合、何日待つのか。食中毒が疑われたとき、誰が商品を止めるのか。門が閉じて日本へ連絡できない場合、現地責任者は誰になるのか。閉店するとき、売れ残った現地商品と棚、冷蔵箱をどうするのか。
答えられないものは、雨宮が「持ち帰ります」と言った。
その言葉に、ヴァルドが机を指でたたく。
「持ち帰っている暇はない。保証人の期限は明後日だろう」
「本社へ確認できるのは、今日一度です」
「なら、今日中に決めろ」
敵なのか、手伝っているのか分からない。
雨宮が手帳へ線を引いた。
「撤退時の資産を担保にします。現地で購入した棚、荷車、冷蔵箱、未販売の商品。それらを売却し、未払い代金の支払いへ優先して充てる」
「日本から持ち込んだ物は」
「本社の所有です。勝手には約束できません」
「そこを持って帰れば、現地には何も残らん」
ヴァルドの言う通りだった。
宗久は、店にある物を思い浮かべた。棚、手押し籠、照明、冷蔵設備。日本から運んだ物が多い。
「撤退するときは、仕入れ代金と従業員の賃金を先に払う。それでも不足する場合は、日本側の備品を上限額まで現地へ譲渡する。本社に認めてもらいます」
「認めなければ?」
「店を開けません」
横から紙をめくっていた雨宮の手が止まった。
「今の条件、本社が断る可能性はあります」
「あります」
「試験営業がなくなりますよ」
「未払いのまま帰れる契約で始めたら、もっと悪いです」
雨宮は宗久を見たあと、手帳に条件を書き込んだ。
「では、上限額を決めます。全部という書き方では稟議が通りません」
「お願いします」
ヴァルドが短く笑った。
「夫婦で芝居をしているようだな」
「してません」
二人の返事が重なった。
雨宮が一度だけ宗久をにらみ、何事もなかったように計算を続けた。
本社から返事が来たのは、門が閉じる一刻前だった。
条件付きで承認。
保証の上限は、現地仕入れ予定額の三十日分。未払いの代金と賃金を優先し、不足時には日本から持ち込んだ備品の一部を譲渡する。保証人は週に一度、現地帳簿を確認できる。
宗久は返答を現地語へ直して読み上げた。
「ヴァルドさん。これで、どうですか」
「足りん」
「どこが」
「食中毒が出たとき、週に一度では遅い。疑いがあれば、私はその日の帳簿と仕入れ記録を見られるようにしろ」
「分かりました」
「勝手に商品を安くしない。値下げは前日までに組合へ届ける」
「それは仮許可の条件にもあります」
「契約にも書け」
条件を足すたび、紙が一枚増えた。
最後に、ヴァルドが胸元から商人章を外した。赤い石を埋め込んだ、四角い金属板だった。
「勘違いするな。私は、お前を信用したわけではない」
「分かっています」
「失敗するなら、小さいうちに止める。そのための保証人だ」
「それで十分です」
保証契約の上に、宗久の指印とヴァルドの商人章が並んだ。
雨宮は契約書を三部に分け、今度は店で買った緑の紐を通した。結び目へ印をつけ、読み上げた文を別紙にも残す。
「昨日の今日で、ずいぶん念入りになったな」とヴァルド。
「昨日と同じなら、また書き換えられますから」
「誰に?」
「それを調べる権利も、保証人に入れておきますか」
宗久が聞くと、ヴァルドは返事をしなかった。
五日目の夕刻。
三軒の農家との契約書。輸入品四品の説明書。ヴァルドの保証契約。
宗久たちは、そのすべてを市場商人組合の会議室へ並べた。
バルガスは一枚ずつ読み、農家の印と保証人の章を確かめた。最後に、五日前には押されなかった巨大な印章を持ち上げる。
赤い印が、出店許可証の中央へ落ちた。
「異世界一号店の試験営業を許可する」
リリアが跳び上がり、ロアンが拳を握った。雨宮はすぐに許可証の記載条件を読み始めた。
「喜ばないんですか」
「日付と店名を確認してからです」
「合ってます?」
「合っています」
そこでようやく、雨宮の口元が少しだけ緩んだ。
許可が下りてからの十六日間は、店を開けるための作業で消えた。
床を直し、棚を組み、農家と納品時刻を決める。輸入品の説明をリリアに読んでもらい、子どもでも分かる絵を足した。ヴァルドは約束通り帳簿を見に来て、初日から数字の並びへ三つ文句をつけた。
試験営業まで、残り五日。
その朝、組合から雨宮を現地責任者として登録する書類と、現地商品の発注書が届いた。
「現地責任者は、副店長の私ですか」
宗久が辞令を読む隣で、雨宮は発注書を裏返した。
「店長。この二行、どちらが油ですか」
「雨宮さん、現地文字を読めないんですか」
「数字は読めます」
「商品名は?」
「読めません」
試験営業まで、あと五日。
現地側の責任者に登録された副店長は、発注書の商品名を一つも読めなかった。




