第1話 夢幻黒葬
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地下室は、じっとりと湿っていた。
石造りの壁には古い染みがこびりつき、どこからか滴る水音だけが、やけに大きく響いている。鼻をつくのは、黴と鉄錆、それから──血の臭いだった。
人の気配はは二つだけ。
……いや、僅かに三つ。
一つは、部屋の奥で鎖に繋がれた少女。
一つは、その少女を見下ろしている男。
そしてもう一つには……まだ誰も、気づいていない。
少女は壁際に座り込まされ、両手を頭上で拘束されていた。細い手首に食い込む鉄の輪が痛々しい。逃げようともがいたのだろう、白い肌には赤い擦り傷がいくつも走っている。
男はそれを眺めながら、にたりと笑った。
下卑た、粘つくような笑みだった。
「クックックッ、若い女の怯えた顔ってのは、どうしてこうも食欲をそそるんだろうなぁ」
少女がびくりと肩を震わせる。
男はわざとらしく肩をすくめ、懐から一本のナイフを取り出した。
刃渡りの短いそれは、磨かれて鈍く光っている。
ぺろり、と。
男は舌先でその刃を舐めた。
「特に、お嬢ちゃんみてぇな可愛い子の悲鳴はたまらねぇ。泣いて、震えて、助けを呼んで……それでも誰も来ねぇって分かった時の顔がぁ、最高なんだよ」
少女は声にならない息を漏らし、顔を背けようとした。
だが、男はその顎を乱暴につかむ。
「つれないなぁ。せっかく今から楽しくなるのによぉ」
ひたり、と。
冷たい刃が少女の頬に触れた。
薄い皮膚が、ぴくりと引きつる。
「や、やめ──」
少女の口から嗚咽にも似た悲鳴が溢れようとしたとき。
「……お楽しみのところ、悪いな」
不意に。
その声は、部屋の入口から聞こえた。
低く、平坦で、感情の起伏を感じさせない声だった。
男が振り返る。
「あ?」
固く閉ざしたはずの地下室の扉が半ば開いていた。細い通路の先にある階段口から、夜の光が差し込んでいる。
そこに、一人。
逆光の中に立つ人影があった。
月を背負っているせいで、顔は見えない。ただ、輪郭だけが黒く浮かび上がっている。
長い外套。揺れる裾。じっとこちらを見据える気配だけが、不自然なほど鮮明だった。
「あぁ? なんだ貴様は」
男が少女を引き寄せ、威嚇するようにナイフを首元へ寄せる。
だが、現れた人物は一歩も慌てなかった。
「名乗る必要もない」
静かな声が落ちる。
「ただの仕事で来ただけだ」
男の眉がつり上がる。
「仕事ぉ?」
くく、と喉を鳴らしながら、男は少女の首筋に顔を寄せた。怯えきった彼女の肩が跳ねる。そのまま首元に蛇のようにチロチロと舌を這わせ、こちらを見て嗤う。
「おいおい、世間知らずか? 俺を知らねぇのかよ」
男は芝居がかった仕草で胸を張った。
「“死の教授・メフィウス様”だぞ、俺は」
一拍の間。
だが返ってきた言葉は、あまりにも素っ気なかった。
「知らん」
「──は?」
「そもそもキャラが陳腐なんだよ。ナイフ舐めながら嘲笑する狂人系とか、飽きる程見てきた。──決まって弱者の去勢だな」
男……メフィウスの眉が吊り上がる。
「き、貴様、言わせておけば……!」
次の瞬間だった。
メフィウスの右腕が、消えた。
肘から先が、ごっそりと。
斬れた、という認識すら遅れるほど、あまりに唐突だった。
僅かに遅れて、残った腕から血がバタバタと音を立てて落ちる。
「ぎ、ぁっ……!?」
ようやく痛みが届いたのか、メフィウスが悲鳴を上げて後ずさる。ナイフが石床に転がり、甲高い音を立てた。
少女も何が起きたのか理解できず、目を見開いている。
「な、なにを──っ!? 何だ、今のは──!?」
月明かりが、雲の切れ間から強く差し込んだ。
逆光の中にいた人影の輪郭が、初めてはっきりと浮かぶ。
漆黒の仮面。
夜そのものを切り取ったような黒衣。
その全身に、無駄な色は一つもない。
闇を纏うというよりも、まるで深い夜がそのまま人の形を取ったようだった。
メフィウスの顔から血の気が引いていく。
「ま、まさか……」
歯が鳴る。
目が見開かれる。
「貴様……まさか“夢幻黒葬”かっ!?」
黒衣の男は、それに答えなかった。
ただ一歩、前へ出る。
その足音だけが、やけに静かだった。
「知ったところで、意味はないだろう」
平坦な声。
そこには威圧も、怒声も、見せつけるような殺気すらない。
なのに、メフィウスは腰を抜かしたように後退った。
「ま、待て……! 待て待て待て! 誤解だ! これは、その、ちょっとした──」
「子供を鎖に繋いで、首に刃を突き付けるのが、何の誤解だ?」
「ち、違う! 俺はただ、教育を──」
「そうか」
男は、右手を軽く振り上げた。
それだけだった。
何をしたのか、その場の誰にも分からない。
ただ、次の瞬間には、そこにいたはずのメフィウスの姿が消えていた。
叫び声も、断末魔もない。
まるで最初から存在しなかったかのように、闇へ溶けて消えた。
残ったのは、生臭い血の匂いと、床に転がるナイフだけ。
地下に、静寂が戻る。
少女は息を呑んだまま、動けなかった。
目の前の男が、自分を助けたのだと頭では分かっていても、その気配はあまりにも冷たく、人ならざるもののように思えたからだ。
黒衣の男はゆっくりと少女へ近づく。
少女の肩がびくりと跳ねる。
だが男は何も言わず、拘束具に手をかざした。
次の瞬間、鉄の手錠と鎖が、音もなく消失する。
重みを失った少女の腕が、がくりと落ちた。
「あ……」
「すぐに助けが来る」
短く、それだけ告げる。
少女は自由になった両手を胸元で握りしめた。まだ震えは止まらない。それでも、消え入りそうな声で問う。
「あ、ありがとうございます……。あの、あなたは……?」
男はわずかに顔を上げた。
仮面の奥の目は見えない。
けれど、ほんの少しだけ、声音が遠くなる。
「忘れろ」
その言葉は、冷たいのに、不思議と優しさを孕んでいる気がした。
「ただの夢だ」
ちょうどその時。
空を流れてきた雲が月を覆い、部屋に差し込んでいた光を呑み込んだ。
地下室が一瞬、深い闇に沈む。
少女が思わず瞬きをして、もう一度顔を上げた時には──
そこに黒衣の男の姿は、もうなかった。
残されていたのは、淡い月明かりと、わずかに揺れる冷たい空気だけ。
本当に夢だったのかと疑うほど、あまりにも綺麗に。
けれど頬を伝う涙の温度だけが、それが現実だったと教えていた。
少女は震える足で立ち上がり、誰もいなくなった闇を見つめる。
そして、小さく、かすれた声で呟いた。
「夢幻……黒葬……」
その名は、罪もない少女が知る由もない。
裏世界最強の処刑人。その二つ名だった。




