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第1話 夢幻黒葬

毎日19:20に投稿予定です。

よろしくお願いします。

 地下室は、じっとりと湿っていた。


 石造りの壁には古い染みがこびりつき、どこからか滴る水音だけが、やけに大きく響いている。鼻をつくのは、(かび)鉄錆(てつさび)、それから──血の臭いだった。


 人の気配はは二つだけ。

 ……いや、僅かに三つ。


 一つは、部屋の奥で鎖に繋がれた少女。

 一つは、その少女を見下ろしている男。


 そしてもう一つには……まだ誰も、気づいていない。


 少女は壁際に座り込まされ、両手を頭上で拘束されていた。細い手首に食い込む鉄の輪が痛々しい。逃げようともがいたのだろう、白い肌には赤い擦り傷がいくつも走っている。


 男はそれを眺めながら、にたりと笑った。


 下卑た、粘つくような笑みだった。


「クックックッ、若い女の怯えた顔ってのは、どうしてこうも食欲をそそるんだろうなぁ」


 少女がびくりと肩を震わせる。


 男はわざとらしく肩をすくめ、懐から一本のナイフを取り出した。

 刃渡りの短いそれは、磨かれて鈍く光っている。


 ぺろり、と。


 男は舌先でその刃を舐めた。


「特に、お嬢ちゃんみてぇな可愛い子の悲鳴はたまらねぇ。泣いて、震えて、助けを呼んで……それでも誰も来ねぇって分かった時の顔がぁ、最高なんだよ」


 少女は声にならない息を漏らし、顔を背けようとした。


 だが、男はその顎を乱暴につかむ。


「つれないなぁ。せっかく今から楽しくなるのによぉ」


 ひたり、と。


 冷たい刃が少女の頬に触れた。


 薄い皮膚が、ぴくりと引きつる。


「や、やめ──」


 少女の口から嗚咽にも似た悲鳴が溢れようとしたとき。



「……お楽しみのところ、悪いな」



 不意に。

 その声は、部屋の入口から聞こえた。


 低く、平坦で、感情の起伏を感じさせない声だった。


 男が振り返る。


「あ?」


 固く閉ざしたはずの地下室の扉が半ば開いていた。細い通路の先にある階段口から、夜の光が差し込んでいる。


 そこに、一人。


 逆光の中に立つ人影があった。


 月を背負っているせいで、顔は見えない。ただ、輪郭だけが黒く浮かび上がっている。

 長い外套。揺れる裾。じっとこちらを見据える気配だけが、不自然なほど鮮明だった。


「あぁ? なんだ貴様は」


 男が少女を引き寄せ、威嚇するようにナイフを首元へ寄せる。


 だが、現れた人物は一歩も慌てなかった。


「名乗る必要もない」


 静かな声が落ちる。


「ただの仕事で来ただけだ」


 男の眉がつり上がる。


「仕事ぉ?」


 くく、と喉を鳴らしながら、男は少女の首筋に顔を寄せた。怯えきった彼女の肩が跳ねる。そのまま首元に蛇のようにチロチロと舌を這わせ、こちらを見て(わら)う。


「おいおい、世間知らずか? 俺を知らねぇのかよ」


 男は芝居がかった仕草で胸を張った。


「“死の教授(デス プロフェッサー)・メフィウス様”だぞ、俺は」


 一拍の間。


 だが返ってきた言葉は、あまりにも素っ気なかった。


「知らん」


「──は?」


「そもそもキャラが陳腐なんだよ。ナイフ舐めながら嘲笑する狂人系とか、飽きる程見てきた。──決まって弱者の去勢だな」


 男……メフィウスの眉が吊り上がる。


「き、貴様、言わせておけば……!」


 次の瞬間だった。


 メフィウスの右腕が、消えた。

 肘から先が、ごっそりと。


 斬れた、という認識すら遅れるほど、あまりに唐突だった。


 僅かに遅れて、残った腕から血がバタバタと音を立てて落ちる。


「ぎ、ぁっ……!?」


 ようやく痛みが届いたのか、メフィウスが悲鳴を上げて後ずさる。ナイフが石床に転がり、甲高い音を立てた。


 少女も何が起きたのか理解できず、目を見開いている。


「な、なにを──っ!? 何だ、今のは──!?」


 月明かりが、雲の切れ間から強く差し込んだ。


 逆光の中にいた人影の輪郭が、初めてはっきりと浮かぶ。


 漆黒の仮面。


 夜そのものを切り取ったような黒衣。


 その全身に、無駄な色は一つもない。


 闇を纏うというよりも、まるで深い夜がそのまま人の形を取ったようだった。


 メフィウスの顔から血の気が引いていく。


「ま、まさか……」


 歯が鳴る。


 目が見開かれる。


「貴様……まさか“夢幻黒葬(むげんこくそう)”かっ!?」


 黒衣の男は、それに答えなかった。


 ただ一歩、前へ出る。


 その足音だけが、やけに静かだった。


「知ったところで、意味はないだろう」


 平坦な声。


 そこには威圧も、怒声も、見せつけるような殺気すらない。


 なのに、メフィウスは腰を抜かしたように後退った。


「ま、待て……! 待て待て待て! 誤解だ! これは、その、ちょっとした──」


「子供を鎖に繋いで、首に刃を突き付けるのが、何の誤解だ?」


「ち、違う! 俺はただ、教育を──」


「そうか」


 男は、右手を軽く振り上げた。


 それだけだった。


 何をしたのか、その場の誰にも分からない。


 ただ、次の瞬間には、そこにいたはずのメフィウスの姿が消えていた。


 叫び声も、断末魔もない。


 まるで最初から存在しなかったかのように、闇へ溶けて消えた。


 残ったのは、生臭い血の匂いと、床に転がるナイフだけ。


 地下に、静寂が戻る。


 少女は息を呑んだまま、動けなかった。


 目の前の男が、自分を助けたのだと頭では分かっていても、その気配はあまりにも冷たく、人ならざるもののように思えたからだ。


 黒衣の男はゆっくりと少女へ近づく。


 少女の肩がびくりと跳ねる。


 だが男は何も言わず、拘束具に手をかざした。


 次の瞬間、鉄の手錠と鎖が、音もなく消失する。


 重みを失った少女の腕が、がくりと落ちた。


「あ……」


「すぐに助けが来る」


 短く、それだけ告げる。


 少女は自由になった両手を胸元で握りしめた。まだ震えは止まらない。それでも、消え入りそうな声で問う。


「あ、ありがとうございます……。あの、あなたは……?」


 男はわずかに顔を上げた。


 仮面の奥の目は見えない。

 けれど、ほんの少しだけ、声音が遠くなる。


「忘れろ」


 その言葉は、冷たいのに、不思議と優しさを孕んでいる気がした。


「ただの夢だ」


 ちょうどその時。


 空を流れてきた雲が月を覆い、部屋に差し込んでいた光を呑み込んだ。


 地下室が一瞬、深い闇に沈む。


 少女が思わず瞬きをして、もう一度顔を上げた時には──


 そこに黒衣の男の姿は、もうなかった。


 残されていたのは、淡い月明かりと、わずかに揺れる冷たい空気だけ。


 本当に夢だったのかと疑うほど、あまりにも綺麗に。


 けれど頬を伝う涙の温度だけが、それが現実だったと教えていた。


 少女は震える足で立ち上がり、誰もいなくなった闇を見つめる。

 そして、小さく、かすれた声で呟いた。


「夢幻……黒葬……」


 その名は、罪もない少女が知る由もない。

 裏世界最強の処刑人。その二つ名だった。

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