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【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~  作者: 実緒屋おみ@忌み子の姫は〜発売中
第三章:激情の旋律

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3-5.timorosamente~不安げに~

 札幌の冬は曇りが多い。土曜日になった今日もまた、昨日と同じく曇天だ。


 休日ともあってオフィス街に人気は少ない。理乃(りの)の務める部署にもあまり人はおらず、静かだった。


 昨夜、貞樹(さだき)に送られて帰った際、いつものようにチークキスをされた。思い出せばまた、頬からの熱で体中が火照る。いけない、と何度も頭を振り、柔らかな感触を頭の隅に追いやった。


 家に戻った時には隆哉(たかや)はすでにいなかった。封筒に入った鍵だけが郵便受けに入れられていたのだ。


 以前の理乃(りの)ならそれを寂しく、虚しく感じただろう。けれど昨日、そうされても胸にはなんの感情も込み上げてはこなかった。貞樹(さだき)のことで頭が一杯だったから。


 家に戻り、暖房をつけたあと、まず行ったのはアプリで隆哉(たかや)へ連絡したことだ。


 「もう上江(かみえ)さんの面倒は見られません。ごめんなさい」


 そう、送った。文面で送ったのちにはブロックまでも。心臓が跳ね上がるほど緊張した。二年以上の付き合いがある、尊敬していた人を突き放した事実に胸は痛む。けれど、決めたのだ。未来に進むことを。過去から脱却することを。


(怖いけど……わたし、決めたから。後戻りはしないって)


 決意すればするほど、仕事の手は速まる。単調だが得意な入力作業を終え、気付けば丁度、十二時くらいだ。少し小腹が空いた。あいにくと瑤子(ようこ)は本日、会社に来てはいない。


 教室に行くのにもまだ少し早く、どこかで食事をしてからと思った直後だ。


 スマートフォンのアプリが音を鳴らした。机に置いていたその画面を見る。貞樹(さだき)からだった。


 「お仕事お疲れ様です。仕事が片付いたら食事をご一緒しませんか?」


 最後についている兎のスタンプが可愛らしくて、理乃(りの)は微かに笑う。仕事の片付けをしたのち、返信文を送った。


 「お疲れ様です。わかりました。今から会社を出ます。待ち合わせはどこでしょう」

 「西二十八丁目のバスターミナルで。お迎えに行きます」

 「ありがとうございます。待ってますね」


 猫のスタンプで返信し、既読がついたことを確認する。それから、は、と我に返った。


 今日の服装は、枯茶(からちゃ)色のブラウスに亜麻色のスカート、そして琥珀色のボレロだ。色合いが地味だった。鮮やかなのはネイビーのコートだけ。


(……もう少しお洒落に気を遣おうかな)


 こういう時は千歳(ちとせ)の出番だろう。スマートフォンをそのままに、彼女へ連絡を入れた。


 「お疲れ様。あのね、明日空いてたらショッピングに付き合ってほしいんだけど」


 休憩時間だったのかすぐに返答が来る。


 「オッケー。札幌駅のモニュメント近くで待ち合わせしよ。十二時でよろしく」

 「うん、ありがとう」


 給料日は近い。少し散財しても大丈夫だと言い聞かせ、スマートフォンを片付ける。


 そのまま上司へ仕事が終わった旨を告げ、コートと鞄、バイオリンケースを持った。青い鞄も大分使い古している。明日は千歳(ちとせ)に、服や小物を見繕ってもらおうと再度決心した。


 会社から出て駅へと向かう。いつものように地下鉄へ乗る足取りは、嘘のように軽かった。浮かれすぎていることに内心苦笑する。


 車両内にはクリスマスの催事などに関する広告が飾られていた。理乃(りの)の誕生日は二十四日、クリスマスイブだ。そこまでにはまだ三週間ほどある。日時を自覚すれば、不意に姉の命日が頭をよぎった。


 十二月十五日。莉茉(りま)が死んだ日。忘れもしない、忘れてはならない日だ。貞樹(さだき)と出会えたことは嬉しいけれど、同日に姉を亡くした辛い事実は理乃(りの)を悩ませる。


(わたしはまだ、姉さんの影に怯えてるんだ)


 貞樹(さだき)の慈愛があるとはいえ、完全に吹っ切れたわけではない。脳に焼き付いた莉茉(りま)の姿、完璧なまでの演奏具合はありありと思い出せるほどだ。


 いや、と手摺を握り考える。姉に追いつくためじゃなく、自分を表現すること。それが目下の課題だろう。まずはバイオリンと曲への思いを深めることからだ。


(間違えちゃだめ……わたしの音色で勝負すること)


 周囲にわからない程度に頷き、地下鉄から降りる。階段を上がっている時にアプリ音が鳴り、多分貞樹(さだき)からだろうと推測した。バスターミナル内でスマートフォンを確認すると、やはりそうだ。もう到着しているようで、理乃(りの)は早速外に出た。


 出てすぐ側の路上に貞樹(さだき)の車があって、駆け寄る。


「こんにちは、理乃(りの)。どうぞ乗って下さい」

「お疲れ様です。隣、失礼しますね」


 微笑んだ貞樹(さだき)と挨拶を交わし、助手席に乗り込んだ。車は走り出す。


「イタリアンとスペイン料理、和食、どれがいいですか」

「悩んじゃいますね……その、貞樹(さだき)さんおすすめのお店に行きたい気がします」

「それでは円山公園近くにある和食店へ行きましょう。ランチもやっていますので」

「はい、楽しみです」


 土曜日で車の通行量が多く、目的地まで若干時間がかかる。その間にも車中で仕事などの話をしたり、天候のことも含めてたわいのない会話を楽しむ。


 到着した店は地下にある和モダンな内装で、橙色の明かりがお洒落だった。料理は炊き合わせや野菜寿司などを基本とした弁当だ。玉手箱なような見た目にも目を奪われたが、その味に舌鼓を打つ。


 甘味も含めて全てを平らげ、支払いも貞樹(さだき)がしてくれた。流れがスマートすぎて小銭程度しか出せないくらいだ。


「あの、ごちそうさまでした。凄く美味しかった……」

「それは何よりです。さて、そろそろ教室に行きましょうか」

「わかりました。お稽古、頑張ります」


 そうして理乃(りの)が助手席に乗ると、貞樹(さだき)は何やら後部座席から小さな袋を手にして運転席に戻ってくる。


理乃(りの)、これを」

「わたしに……ですか?」

「ええ。気に入って下さるかわかりませんが、いつも頑張っているあなたに贈り物です」

「贈り物……」


 貞樹(さだき)から袋を受け取った理乃(りの)は、目をまたたかせながら包みを取り出した。包装紙を丁寧に剥がすと、現れたのは香水の箱だ。


「香水、ですか?」

「正確にはオードトワレです。三時間ほど香りが持続するものでして。あなたのイメージにぴったりでしたのでこれをと」

「ありがとうございます……とても嬉しいです。中、開けてみてもいいですか?」

「どうぞ。嫌な香りでないならいいのですが」


 自分のためにと選んでくれたことに胸が弾む。宝箱を開けるように大切に、箱から小瓶を取り出した。透明なボトルに白いラベル。どんな香りがするのかとときめく。


 服に拭きかけようとした時、貞樹(さだき)理乃(りの)の手を止めた。


理乃(りの)、手を貸して下さい。こういうのは脈に近いところへ吹き付けた方がいい」

「あ、そうなんですね」

「香水をつけたあとは、擦らないようにして下さいね」


 貞樹(さだき)にそのまま手をとられ、そっと瓶も渡す。手首の内側へ貞樹(さだき)が香水をつけてくれた。爽やかで透明感のある匂いが車内に広がる。花の香りもするが、甘すぎない部分が気に入った。自然と顔が緩む。


「凄くいい香りです。ありがとうございます、大切に使いますね」

「気に入って下さって何よりです。私もお揃いの香りをハンカチにつけているんですよ」


 薄く笑む貞樹(さだき)に、理乃(りの)は少し照れてしまう。お揃いのものなんて、昔の彼氏とも隆哉(たかや)とも共有したことがなかったから。


 微笑みながら箱へ大事にボトルを片付け、袋と共に鞄に入れた。シートベルトを締める。


「あなたの誕生日にはまた別のものを用意しますので」

「え、え? いえ、そんな、悪いです」

「私のわがままに付き合って下さい」

「……貞樹(さだき)さんの誕生日はいつですか? わたしもお返し、ちゃんとしたいです」

「それは嬉しいですね。四月二十二日で来年ですが、楽しみにしていますよ」


 車を発進させる貞樹(さだき)に、理乃(りの)は頷く。かといって男性に何を贈ればいいのか見当もつかなかった。瑤子(ようこ)たちに聞いてみようと思う。


 車でいつものように教室に行き、少し早めに手解きを受けた。二人きりの教室で、厳しく指導をしてもらう。


 今日の課題曲はマスネ作曲の『タイスの瞑想曲』だった。大分指が昔の感覚を取り戻している。宗教的な意図を伴った曲は弾きやすい。最後の部分は多少情熱的に、と注意されたが、以前よりかは甘やかなメロディに身を委ねることもできた。


「少しずつ感覚を取り戻しているようですね、瀬良(せら)さん」

「はい、先生のおかげです」

「その言葉は講師冥利に尽きますね。これならもう少し、高いレベルの課題曲を出しても問題ないでしょう」


 ケースにバイオリンを入れつつ、理乃(りの)は微笑む。素直に嬉しかった。段々、バイオリンを弾けることが純粋に楽しくなってきている。


瀬良(せら)さん、まだ私とクロイツェルを弾く気にはなれませんか?」

「……今のわたしじゃ、まだ先生の足を引っ張ってしまうと思います」


 貞樹(さだき)の問いに、理乃(りの)はケースを持ちながら立ち上がった。


「でも……練習して弾いてみたい、気もします」


 偽らざる本心を呟けば、(いわお)のような(おもて)をしていた貞樹(さだき)が優しげに目を細める。


「それでは次からクロイツェルを練習していきましょう。少しずつ音を合わせて」

「はい。頑張ります」


 理乃(りの)も笑む。自主公演まであと五ヶ月だ。どの程度までできるかわからないが、最善を尽くしたいと心の底から思う。


「明日は暇ですか?」

「あ、明日は友達とショッピングに行くんです。お稽古は……夜ならなんとか」

「そうですか。一つおうかがいしますが、ご友人は男ですか?」

「いえ、女の人ですけど……前に言ったアパレル関係の」

「安心しました。ぜひ、差しあげたオードトワレをつけて楽しんできて下さい。レッスンは来週から土日にしましょう」

「あの、十五日の日曜だけは空けさせて下さい。姉の命日なんです」

「なるほど……ではご実家に?」

「いえ、一人でお墓参りに。両親とはあまり、顔を合わせたくなくて」


 理乃(りの)が苦笑すれば、貞樹(さだき)がふむ、と何かを考えるような所作を作った。


「失礼ですが霊園の場所は?」

真駒内(まこまない)です。いつもバスで行ってるんです」

「……私もご挨拶に行ってもよろしいでしょうか」

「え……」


 突然の申し出に理乃(りの)はまごつく。確か、貞樹(さだき)莉茉(りま)はミュンヘンで顔を合わせていたはずだ。大した知人でなくても、同じ演奏家として手を合わせたい気持ちがあるのかもしれない。そう考えて首肯した。


「わかりました。きっと、姉も喜ぶと思います」

「では車でその日、お迎えしますよ。バスより行きやすいでしょう」

「ありがとうございます、お言葉に甘えますね」


 会話しながら二人で防音室を出る。ふと、隆哉(たかや)のことが頭に浮かんだ。彼も毎月欠かさず十五日に霊園へ行っている。鉢合わせしたくなくて、朝早くに行くことを決めた。


 隆哉(たかや)との歪な関係は、まだ貞樹(さだき)に話していない。怖かった。貞樹(さだき)に失望されるのではないかと心配で。勇気の出せない自分がまだいる。


 連絡を絶ったところで、過去は精算しきれないのだから。

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