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【完結】歪みの旋律~わたしが愛を知るまでのレッスン~  作者: 阿住しおみ/忌み子の姫は〜発売中
第三章:激情の旋律

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3-6.arditezza~大胆~

「あ、さだ。瀬良(せら)さん」


 曇った心をどうしようかと悩んでいた時、葉留(はる)の声がして顔を上げた。


「どうしました。忘れ物ですか」

「違うってば。どっかの誰かさんが、まともに事務作業してないから仕事が溜まったの」

「お、お疲れ様です。池井戸(いけいど)先生」

「ホント、疲れてるわよ。……今日もレッスン?」

「ええ」


 別室から出てきた葉留(はる)と共に、三人で受付へと赴く。その最中、葉留(はる)があからさまに目をすがめてきて理乃(りの)は少し、どきりとした。


 葉留(はる)に直接指摘され、逃げた日のことをまだ謝ってない。そのことに気付いた。


「ねっ、さだ。お茶入れてよ。疲れちゃったんだから。もらった紅茶あるでしょ」

「これから帰るつもりだったんですが」

「労いもないわけ? いいじゃない少しくらい。一人で事務すんの、結構つまんないんだから。あたしは紅茶と菓子を所望する」

「……仕方ありませんね。理乃(りの)葉留(はる)と一緒に待っていて下さい」


 理乃(りの)貞樹(さだき)の溜息に頷いた。受付の椅子に座る。葉留(はる)もまた、理乃(りの)の対面に腰かけた。貞樹(さだき)は別の部屋へと入っていく。


 ピアノの音も流れていない空間で、二人無言になる。


「謝らないからね、あたし」


 しばらくして静寂を破ったのは、葉留(はる)の方だった。


「あの日のこと。さだには怒られたけど、本当のことを言ったまでだから」


 そっぽを向いて、子どものように()ねた顔で言うものだから、理乃(りの)は小さく(かぶり)を振る。


「いえ、本当のことだったんです。だから、池井戸(いけいど)先生は謝らなくていいんです。わたしの方こそ、逃げるような真似をしてごめんなさい」

「……ふぅん。随分素直だね。でも、どっか吹っ切れた様子だけど」

宇甘(うかい)先生のおかげで。少しは楽になれた気がします」

「なるほどね。ところでさ、瀬良(せら)さんってあの、瀬良(せら)莉茉(りま)さんの肉親なの?」


 浮かべている微笑みが刹那、強張った気がした。しかし隠す意味もなく頷く。


莉茉(りま)は双子の姉なんです。もう、姉は亡くなってますけど」

「ミュンヘンのコンクールで見たの、あっちか。バッハの『シャコンヌ』だっけ、弾いたの。あれは凄かったね。亡くなってるって事故かなんか?」

「病気で……本当に姉は凄い人でした」

「あー……もしかして、瀬良(せら)さん、今までお姉さんと比べられてきた?」


 遠慮のない物言いに苦笑した。両親は何も言わなかったが、隆哉(たかや)や周囲からは比較された覚えがある。苦笑いを返答と見たのだろう、葉留(はる)が腕を組んで納得したかのような顔を作った。


「天才を身近に持つと辛いよね。あたしもさだと比べられたりしたもん」

池井戸(いけいど)先生は、宇甘(うかい)先生の妹さん……でしたよね。やっぱりそうなんですね」

「なんだ、妹だってバレちゃったか。そ。小さい時からさだにばっか注目行ってさ」

「……ピアノを嫌いになったこと、ありませんか?」

「そりゃあるよ。さだが側にいたからね。あたしなんて弾く意味ないって思ってた」


 理乃(りの)の問いに、葉留(はる)はうんざりした様子で肩をすくめる。


「でも結局今もピアノ弾いてる。好きだからね、なんせ。好きに勝るものはないよ」

宇甘(うかい)先生は前に言ってました……天才なんて周りが決めるものでしかないって」

「うっわ、嫌味。さだが言うかって感じだわ。まあ、そうなのかもしれないけど。我々凡人は正しく努力することでしか追いつけないわ」

宇甘(うかい)先生も似たようなことを言ってました」

「随分と話が弾んでいるようですね」


 トレーに三人分の紅茶とチョコレートを載せた貞樹(さだき)が、丁度よく戻ってくる。


「どうぞ。あなた所望のお茶と菓子ですよ」

「モテる兄を持つと茶菓子に困らなくていいわ。まだ差し入れ攻撃続いてるからね」

生物(なまもの)は家に持ち帰って下さい。私は理乃(りの)からの贈り物しか受け取りません」

「はいはい。お熱いことで」

理乃(りの)もどうぞ。甘いものは好きでしょう」

「あ、ありがとうございます……」


 言われて、理乃(りの)も遠慮がちに色とりどりの包みを数個、手にする。ボックスへ無造作に手を突っ込んだのは葉留(はる)だ。十個くらい一気に取り出した。


 貞樹(さだき)理乃(りの)の隣に座り、紅茶を飲み始める。肩が触れ合うほどに近くて、理乃(りの)の胸が高鳴った。照れ臭さを隠すようにチョコを口に運ぶ。ミルクの味がして美味しい。


「一体なんの話をしていたのですか?」

「天才は嫌味だってことですー」

葉留(はる)。昔から話しているでしょう。天才だって重圧があるのです。むやみやたらに天才と言わないでいただきたいものですね」

「自分で天才だって認めてるじゃんか。嫌よね、瀬良(せら)さん」

「え、えっと」

瀬良(せら)さんとは仲良くなれそうな気がするわ。お互いに比べられた身同士として」

「おや、理乃(りの)もそうだったのですか?」

「わたしは……昔、陰で色々言われてましたけど……」


 隆哉(たかや)に比べられたことは口に出せず、曖昧にごまかす。


「でも、今は少しだけ、バイオリンを弾く自分を好きになれてる……気がします」


 姉までには至らないが、自分の音色を好きになっていけそうに思った。思いを込めてささやくと、貞樹(さだき)がふんわりとした優しい笑みを向けてくる。


理乃(りの)、これからも一緒に頑張りましょう」

「は、はい。精一杯、やります」

「初々しいわよね、全く。さだもデレデレしちゃってさ。こんなさだ、見たことないわ」

「なんとでも。理乃(りの)は私の特別ですから」

瀬良(せら)さん、束縛が強くなり始めたらあたしに言って。代わりに殴ってやる」

「け、喧嘩はだめですよ? それに宇甘(うかい)先生、優しいから大丈夫です」

「猫被ってるだけだって。まっ、嫌気が差したらあたしに相談でもしてちょうだい」


 チョコを三個も一度に頬張りつつ、葉留(はる)はにやりと唇を釣り上げる。貞樹(さだき)は何も言わない。紅茶を飲み干し、コートを持って立ち上がる。


「さて、事務仕事はありがたい妹の厚意に甘えて。そろそろ帰りましょうか、理乃(りの)

「でも……池井戸(いけいど)先生お一人なのは……」

「あ、いいよ、あたしは別に。それに夫があとで迎えに来るから」

「そう、ですか?」

「給料上乗せしてもらうから平気。じゃあね、瀬良(せら)さん。さだ、しっかり送ってやって」

「あなたに言われずともわかっていますよ。さあ、理乃(りの)

「わかりました。それじゃあ池井戸(いけいど)先生、また今度」


 二人にうながされ、悪いなと思いつつ理乃(りの)はコートを羽織る。チョコを貪る葉留(はる)に一礼し、貞樹(さだき)に肩を抱かれながら教室を出た。


 外はちらちらと雪が降っている。吐く息が白い。駐車場に向かう最中、いつものように手を繋がれた。長くて細い指は毎度のように冷たいが、それを心地良いと思う自分がいる。


 車に乗り、シートベルトを締めた。同じようにした貞樹(さだき)が車を運転する。


「食事はどうしますか?」

「さ、最近食べ過ぎてますから……今日は遠慮します」

「それは残念。私はあなたが痩せていても太っていても、一向に構わないのですが」

「わたしが気にします……」


 本当に最近、美味しいものばかり食べている。体重が心配だ。貞樹(さだき)の言葉は嬉しいが、少し肉付きがよくなってしまった気がして軽く、唸る。微かに貞樹(さだき)が笑った気がした。


 車通りは落ちつき始め、理乃(りの)のマンションへとすぐに着く。マンション前で停車させた貞樹(さだき)が、理乃(りの)を見て口を開いた。


「明日は会えませんね。代わりに連絡を入れてもよろしいでしょうか」

「それは、はい。わたしも連絡しますね」

「夜に電話します。……ああ、そうだ」

「なんでしょう?」

「贈り物のお返し、前借りしてもいいですか」

「前借り……?」


 小首を傾げた理乃(りの)に対し、貞樹(さだき)はシートベルトを解いて体を身動ぎさせる。


 いつものチークキスだろうか、と理乃(りの)が縮こまった瞬間、貞樹(さだき)の顔がやはり近付いた。だが、チークキスではない。頬に直接、唇を押し付けられた。薄い唇の感触に、ぴくりと体がうごめく。


 頬に何度も直接キスをされ、吐息が耳元をくすぐる感触は堪えがたい何かを(はら)んでいる。体が火照る。顔が赤くなっているのが、明かりでわかってしまうかもしれない。


「……理乃(りの)


 優しい声音に、うつむかせていた顔をおずおずと上げた。シートを軋ませ、貞樹(さだき)が両手で頬を挟んでくる。あ、と思った瞬間だった。


 唇を柔らかく、そっと奪われた。唇同士が触れ合う感覚に脳髄が痺れる。自然と、ゆっくり瞼が下りた。理乃(りの)が感じる初めての大人のキスは甘く、それでいて強烈だ。


 どのくらいの時間が経ったのかわからない。しばらく無言で、ただされるがまま口付けを受け入れる。(とろ)けて脱力した理乃(りの)に気付いたのか、貞樹(さだき)が静かに顔を離した。


「……貞樹(さだき)、さん」

「すみません。堪えきれなかったもので。お休みなさい、理乃(りの)

「お、お休みなさい」


 理乃(りの)の全身は心臓になったかのように脈打っていた。唇を奪われたことに嫌悪はなく、むしろ気分が高揚してくる。脱力した体に力を込め、なんとか車から降りる。


「それではまた。いい夢を」

「はい……」


 にこやかに、どこか満足した様子で車を走らせて去っていく貞樹(さだき)を見送りながら、唇へ指を当てた。


 寒いはずの外、そこだけが妙に火照っている。

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