4.大西先輩
当番を終えて急いで昇降口に行く。カナメはすぐに見つけられた。
廊下を行き交う生徒はちらほらいるが、あいつの長身はよく目立つ。
「えー、それ全然違うよー?」
カナメの側には人がいた。楽しそうに話しているのは、三谷さんともうひとり、同じクラスの……確か、大塚さんだったはず。
昇降口前の廊下で、壁にもたれかかるカナメを挟むように立って、三谷さんと大塚さんはカナメの話に聞き入っている。
待ち人がひとりじゃなかったことに怖気付き、わたしは思わず離れたところで足を止め様子を見てしまった。
「あ、マリお疲れ―」
こちらに気付いたカナメが手を振ってくる。
仕方がない。意を決して近くに行くと、さっきまで話していた内容を教えてくれた。
「三谷ちゃんがねー、マリはひょっとして貰われた子なんじゃないかって言ってたから、それ否定してたの。確かにマリのお母さんてものすごく若そうに見える美人だし、マリもお母さんのことお母さんって呼ばないから、誤解しちゃうのも仕方ないよねー」
三谷さんは気まずそうにわたしを見つめてくる。
「そうなの?」
恐る恐るわたしの顔色をうかがう彼女に、午後からの教室内の空気がおかしかった原因を理解した。
昨日学校でわたしがあの人を「美子さん」と読んでしまったのが始まりだったか。
ほっと肩の力を抜いて口を開く。
「わたしが思うに、自分の親をお父さんお母さんとか、パパ、ママって呼ぶにはそれ相応の家庭環境が必要だと思うんだよね」
たとえば、母親が子どもに対して自分のことを「お母さんはね——」と言ったり。
子どもの前で夫婦が互いに「パパ」、「ママ」と呼び合ったり——。
「うちの人たち、わたしが子どもの時から一人称はわたしと俺だったから、それでなんだろうけど」
互いに呼び合うのも美子さん、茂さんとしか言わなかったから。他の家と違うと自覚しだしたころにはもうこれが自然になってた。
「だからお父さん、お母さんなんてわたしが呼ぶタイミングなんてなかったんだよ」
わたしがふたりのことを名前で呼んだところで、注意ひとつされないのも要因だろう。「お母さんと呼びなさい」なんて、美子さんの口から聞いたことがない。
「なーんだ。そうだったんだ」
息をつく三谷さんが、ほっとしながらも残念がっているように見えるのは気のせいか。
うわさ話のネタにならなくて悪かったな。
とりあえず三谷さんたちに関してはひと段落ついたようだ。よかった。これで女子の目を気にする日常からは解放される。
今から食べるファーストフードのバーガーは、とてもおいしく感じられるだろう。
「ねえ、せっかくだからふたりもこれからエムド行かない? 女子トークしようよ!」
——て、おいちょっと待てカナメ! なにこっちに断りもなくさそってるの!!
わたしはあんたと心おきなく、ゆっくりと時間を過ごしたいんだよ。
「いいね、それ」
「確かに。このメンバーって初めてなんじゃない?」
こちらの心情なんて知る由もなく、乗り気になってしまった三谷さんと大塚さん。
そうなるとわたしも顔に笑みを貼り付けて「そうだね」としか言えなくなってしまった。
電車通学の三谷さんとは校門前で待ち合わせることにして、わたしとカナメ、そして大塚さんは自転車を取りに行った。
駐輪所から自転車に乗って職員駐車場を横断する。
校舎とグラウンドに挟まれた駐車場の隅では、どこぞの運動部がふたりひと組になりストレッチ中だ。
校門で待っているはずだった三谷さんは、学校前の道からグラウンドをフェンス越しに眺めていた。
「お待たせ!」
三谷さんの前でカナメが自転車を降りる。わたしと大塚さんもそれにならった。
「なになにー、三谷ちゃんの恋する彼はただ今グラウンドで青春中とか?」
「そ、そんなのじゃないよ! ただ、やっぱりカッコいいなーって」
からかうカナメに三谷さんは慌てる。
しかし少しだけ外された視線は、すぐにグラウンド中央へと戻っていった。
一周300メートルあるトラックを陸上部が延々と走っている。その内側に鎮座する大きなサッカーゴールの近くでは、サッカー部が円になって体操をしている。
……うん。近くにサッカーボールが転がっているから、あれはきっとサッカー部だ。
「カッコいいって、大西先輩のこと?」
「そう! これだけ遠くから見てもオーラで分かるっていうか、他の人と比べても存在感が違うよね」
……誰だ?
三谷さんと大塚さんが話題にしている大塚先輩とやらは、サッカー部の中にいるらしい。
しかし残念なことに、わたしには彼の放つオーラとやらが感じられない。つまりはどれが大西先輩なのか集団の中から判別できなかった。
そうしているうちに、サッカー部の部員たちが作っていたきれいな円がばらけた。
「うん。今のサッカー部ってホントにレベル高いよね。大西先輩に、佐野君も」
会話に入ったカナメに、三谷さんと大塚さんが頷いて同意する。
それは一体何のレベルだろう。
技術面か、それとも顔か?
サッカー部にとって褒められて嬉しいのはどっちだ。どっちもか。
「佐野君って、うちのクラスの佐野君のこと?」
「すごいよねー。入部してまだ全然たってないのに、もうレギュラー候補にあがってるんでしょ?」
わたしの質問は軽く三谷さんに流された。駄目だ。完全についていけてない。
あ、でも。サッカー部の中に佐野君を見つけることは出来た。
ペットボトルを片手に持ちながら、チームメイトに頭をぐしゃぐしゃにされてからかわれている。
クラス以外の場所でもあれだけ馴染んでいるのなら、やっぱり佐野君は前から存在していたのかもしれない。
「わっ、佐野君と大西先輩のセットって、すごくいいもの見ちゃった!」
はしゃぐ大塚さんから推測するに、現在佐野君にじゃれついている人が大西先輩か。
「ふたりともすごくかっこいいよねー」
三谷さんはそう言うけれど、ここからじゃ大西先輩の顔の詳細なんて分かりはしない。
わたしの目は決して悪くない。だけどこの距離で大西先輩の顔の全貌を把握するの無理だ。
結論からして、わたしは彼女たちの話に入れそうになかった。
きゃっきゃと盛り上がる三谷さんと大塚さんを置いて、カナメとふたりで先に行けないかなあと、つい考えてしまうよ。
そうこうしているうちに佐野君は大西先輩から離れ、他の部員とともに青色のコーンを等間隔に並べ出す。
「お腹すいたし、もういこっか」
カナメのひとことにわたしたちは素直にうなずく。
サッカー部のことからハンバーガーへと。話題が切り替わるのは早かった。
自転車を押して先頭を行くカナメに三谷さんと大塚さんが続き、ファーストフードで何を注文しようかと盛り上がる。
こんなとき、自然な相槌を打ってすんなりと話の輪に入ってしまうカナメが羨ましくてたまらない。
どんくさいわたしは自転車を押して彼女たちに付いて行くので精一杯だ。
口を挟んで一緒に楽しくおしゃべりなんて、どうしたら上手にできるのだろう。
つい数10秒前まで彼女たちの意識を独占していたサッカー部は、自分たちの話をされていたなどと知る由もなく練習に打ち込んでいた。
一列に並んだコーンの間を順番に、前後の人と息を合わせながら右へ左へと通って行く。
彼らの統率のとれた動きがわたしの疎外感をより一層刺激した。
今だって、わたしは決してひとりじゃないはずなのに。
カナメや三谷さん、そして大塚さんと行動を共にしているのに、満足にその実感が得られないのはなぜなのか。
とぼとぼと3人に付いて行く足が重くなる。
大きく距離が開いたところで、彼女たちが振り返ってわたしを見ることはなかった。
ここでわたしが何も言わずに帰ったところで、カナメたちは気付かないんじゃないか——。
思ったところで、怖くて実行に移せるわけがないけど……。
駄目だ。落ち込み過ぎて悪い方にばかり考てしまってる。こういうときこそもっと前向きにならないと。
そうだ。
マイナス思考で人見知りをする。気のきいたことも言えない。
そんなわたしが放課後クラスメイトと遊べること事態、奇跡なんだとしておこう。でないとあまりにも惨めだ。
正面を見据えて、少し離れてしまったカナメたちに追いつこうと、自転車のグリップを握る手に力を入れる。
急ごうとした——はずだった。
はやる気持ちのまま靴底で地面を蹴ろうとしたのに、現実のわたしはのろのろと歩いていた足を完全に止めていた。
妙な寒気と視界の片隅に生じた違和感が気になり、考えるよりも先にわたしは顔を再びグラウンドへ戻す。
原因はすぐに分かった。
グランドにいる多くの人々が体を動かしている中、直立不動の人は逆に目立つ。
さらにその人がこちらをこちらを見ていて、重ねて言えば彼がさっきまで三谷さんと大塚さんがべた褒めしていた大西先輩とやらだったら、嫌でも注目してしまうものだろう。
目が合っているかは定かじゃない。
そもそもあっちがわたしを見ているのかも、ここからじゃ判断ができない。
だけどさっきまで彼のことをいろいろ話していたからか、妙に気恥かしくなってしまった。
大西先輩は一体どこに注目しているのだろうか。
他のサッカー部は彼を気にすることなく練習に打ち込んでいる。
時間にすると、ほんの数秒だったはずだ。
不思議になって大西先輩を凝視していると、いきなり彼が右手を肩の位置まで挙げて手を振ってきた。
……これはわたしに対してなのか?
混乱しつつも失礼のないようにと会釈で応えてしまう。
頭を下げてからはっとした。
もし人違いならかなり恥ずかしいよこれ。
「マリー! 早く!!」
周囲を確認する前に、カナメに呼ばれた。
学校前の信号で止まったカナメは、自転車を片手に支えてぴょんぴょんと何度も跳ねる。
頼む、止めてくれ。こっちの方が恥ずかしいわ。
周りにいる下校中の生徒が思いっきり変な目で見てきてるよ。
カナメとの距離を少しでも早くうめるため、自転車に乗って3人の元へと急ぐ。
グラウンドを通りすぎるとき、ちらりと大西先輩のいた場所を確かめたが、彼はもうそこに立っていなかった。
大きなグラウンドで、おそらくサッカー部に紛れた大西先輩がどこにいるのかを、一瞬では見つけることができそうにない。
やっぱりわたしには、大西先輩の放っているらしいオーラとやらを判別することはできないみたいだ。