32.服従
理由や仕組みなんてわたしに分かるわけがない。
人生で二度目のキスも、ファーストキスと同様に強烈な臭いと吐き気をもよおした。
だけど……。
——それによってわたしが意識を失うことはなかった。
液体をすする不快な音が途切れずに耳のそばで聞こえ続ける。
嗚咽がひどくて、息がまともに吸えない。酸欠で意識が朦朧とした。
止めどなく流れる涙は頬をつたうも、雫となって顔を離れる前に茂さんが舐めとってしまう。
何もかも夢なのだと信じたかった。
思い出すのもおぞましい悪夢であっても今が現実でないというならば、これほど幸せなことはない。
しかしながら。涙でぼやけた、私の視界が。生々しい音を拾う聴覚が……五感の全てがここにある現実を余すことなく脳に伝えていた。
ダイニングテーブルの脚元に座り込んだわたしを、美子さんと茂さんが覆う。
わたしの右肩、首の付け根に歯を立てて、皮膚を噛みちぎった美子さんは一心不乱にこの血で喉を潤す。
傷口をざらついた舌で強く擦り付けられても、不思議と痛みは感じなかった。
全身の力が抜けたこの身体は、テーブルの脚にもたれてなんとか倒れずにいる。
だけどそれはなんの救いでもない。
わたしが座っていようが床に伏していようが、体勢なんて彼らの行為に関係はないだろう。
泣き叫びたいのに、喉から出る息は声帯を震わせてくれない。
人が変わったように美子さんと茂さんは物言わずわたしにしゃぶりつく。
顔は茂さんに舐めまわされて唾液まみれだ。ぐにぐにとした感触に頬を撫でられ気持ち悪い。
消えていった人たちは、みんなこうやって食べらてしまったのか。
私の意識は、どこまで保っていられるのだろう。
終わりは確実に近付いているはずなのに、それがいつなのか、想像もつかない。考えたくなかった。
首筋から口を離した美子さんと目が合う。
うっとりとしたとても綺麗な顔。彼女は口元についた血をゆっくりと舐めとった。
一連の動作を目の当たりにして全身に悪寒が駆け巡る。下顎が、手ががくがくと震えた。
「……ぁあ、……ぁ」
息を吐くのとともに出たのは声とも言えない音。
一瞬美子さんが動きを止めたものの、すぐにまた口を戻す。
茂さんは唾液にまみれたわたしの顔からさらに上へ移動する。
じゅるじゅると美子さんがたてる音に、歯ぎしりが合わさる。
ぷつぷつと、頭皮が引っ張られた。
目線を上に持っていくと、茂さんの口から黒くて細い——、わたしの髪がはみ出ていた。
彼は舌と唇を器用に動かし口元の髪の毛を口内に収めて咀嚼する。
生暖かい夜風が、家の中を突き抜ける。寒くはない。だけど震えが止まらなかった。
「……あ……、あぁ……」
助けてと言いたいのに言葉にできない。
もとより一体誰に助けを求めようとしているのか。
差し伸べられた草野君の手を取らなかったのは、わたしだ。
もう絶望しかない。逃げられたとしても、わたしにはこの世界で生きるすべがない。
だけど、それでも。死にたくなかった。
涙を流す理由が、悲しみから後悔に変わる。
茂さんがわたしの目元を拭った指を自らの口に含む。
手を伸ばせば届くほど近くにある、見慣れたはずの穏やかに微笑む端整な顔。彼のわたしを映す瞳に慈しみはあっても、この行為に対するためらいはない。
唐突に、近衛先生の言ったことが頭の中に浮かぶ。
この10年間、確かにわたしは美子さんと茂さんに愛されていた。
だけどそれは無償の愛などでなく、明確な目的があって注がれ続けた愛情で。
わたしはこの人たちにとって、大事な大事な——家畜だったのだ。
「あ……、やぁ……」
死が間近に迫る。抗おうともがきたいのに、震える体は自分の意思で動かせない。
「やあ、あー。ああぁ……」
嫌だ。
死にたくない。
……助けて、……助けてっ。
誰か。……どうか。
……誰でも、いいから……。
言葉にならない声で必死にすがるわたしに、大きな影が差した。
気配や足音はない。気づいた時にはもう、それはそこにいた。
彼の顔は、大部分が美子さんと茂さんに重なっているうえ逆光でよく見えない。
でもなぜか確信が持てた。あれは大西先輩で、彼は今、とても嬉しそうなのだと——。
「ああ、まだ生きてら」
場にそぐわない能天気な口調。
食事中のふたりがその声に反応するより先に、伸ばされた手が美子さんの頭を鷲掴みにする。
筋張った手が唐突に美子さんを引き上げ、驚愕により食いしばられた歯がわたしの首筋の肉をえぐる。
「ああ——!!」
思い出したようにさっきまで感じなかった激痛が走った。腹の底から上がった悲鳴にわたし自身も驚く。
美子さんの膝が宙に浮いた直後、大西先輩はつかんだ頭を勢いよくテーブルのふちに打ち付けた。
わたしの背を支えていたテーブルの脚を通し、衝撃がこちらにも伝わってくる。
「悪運も強いし、君は使える子だね」
テーブルに美子さんを押しつけながら、大西先輩がわたしを覗きこむ。
接近してきた作り物じみた美しい顔に、悲鳴を止めて息を呑んだ。
覆いかぶさるようにかがんでいた茂さんの肩に、誰かが手を置く。綺麗に整えられた爪。細い指は女性のものだ。
しなやかな指に、血管が浮かぶ。肩に爪を食い込ませ、一瞬にして茂さんを後ろに引き倒した。
視界が開ける。
近衛先生が尻もちをついた茂さんを仰向けにして、パンプスのヒールで肩を踏みつける。
嬉々と笑む近衛先生はぎらついた瞳で獲物を見下ろしていた。
「——————!」
人の声とは思えない低い、「お」と「う」の間の音に近い濁音を口から放ちながら、美子さんがもがく。
大西先輩は抵抗をものともせず、美子さんの後ろ首に肘で容赦ない一撃をくらわせる。
鈍い音がした。
だけど美子さんは変わらず拘束を解こうと動き続ける。
「マリ!」
玄関からした声に、涙があふれて首筋の痛みがぶり返す。
血相を変えて姿を見せた草野君が、立てないわたしの腕を力強く引っ張る。
草野君は倒れ込んできたわたしをの背に腕を回した。
荷物でしかないこの体を、彼は歯を食いしばりながら引きずって、リビングの壁際へと移動する。
後ろを振り向けば、床に転がる茂さんと目が合った。
「——————……」
喉から出ているのかと疑う声をあげながら、茂さんがこちらに手を伸ばす。
「ひっ」
震えた体に力が入る。すくみあがって、肩が上に跳ねた。
体の感覚が少しずつ戻っている。同時に痛みも鮮明に感じるようになっていく。
傷の付いた首筋は熱を持ち、心臓の鼓動に合わせてしびれるように痛んだ。
草野君の背後、玄関へと続くドアから佐野君が入ってきた。
肩は微かに上下に揺れて、足はちゃんと床に付いているというのに、この人たちからは足音がしない。
わたしたちに見向きもせず横を通り過ぎた佐野君は、止まることなく茂さんに歩み寄り、頭をけりつけた。
骨に響く鈍い音。
耳につくうめき声。
目の前に広がる光景が、長年住み慣れたわたしの家で行われているなんて信じられなかった。
「邪魔だ。さっさと消えろ」
佐野君がこちらを一瞥して淡々と告げた。
冷たい瞳。
その表情からは、わたしたち「人間」に対する情は全く感じられない。
草野君は悔しそうに歯を食いしばるが、諦めたように小さく舌打ちをすると視線をわたしに向けてきた。
「足に力を入れろ。頼む、少しでいいから自分で歩いてくれ」
首筋に怪我がないのわたしの左腕を、草野君は自分の肩に回す。
草野君に支えられて、おぼつかない足取りでリビングのドアをくぐった。
「……あいつら、知っていてお前を行かせやがった」
廊下を通って玄関へ。
彼らの姿が見えなくなった時、忌々しげに草野君ががぽつりとこぼした。
自らも膝を痛めている怪我人が、動けない人間の歩行を補助するのにはかなりの無理があった。
わたしの足も感覚はあるのにうまく地面を踏めず、草野君の負担を倍増させてしまう。
それでも、不揃いな歩調で一歩一歩。玄関を出て庭を通り、わたしと草野君は道路まで到達する。
門扉を抜けた途端、糸が切れた操り人形さながらふたりでアスファルトに崩れ落ちた。
息はわたしよりも草野君のほうがはるかに荒い。疲れ切った彼の姿に申し訳なさがこみ上げた。
地面に膝をつき左手で首筋を抑え、目の前にたたずむ自分の家を見た。
不気味なぐらい静かだ。
あの中で今、何が行われているのか。具体的なことはとても想像できない。知りたくもなかった。
心臓の鼓動。右肩と首の付け根にできた傷の痛み。呼吸に連動して上下する胸。
わたしは、生きている。
助かったのだ。
「……死にたかったのか」
激し呼吸のはざまに呟かれた声に首を振る。
「それは、ない」
正直に告げれば、額の汗をぬぐった草野君に鋭く睨まれた。
「わかってたんだろ」
何を? なんて聞くまでもない。
よろめきながらも立ちあがった草野君が黙り込むわたしを見下ろす。
「お前、ここに来るまでに俺の話聞いてたよな」
そうだね。耳には入っていた。鵜呑みにはしなかったけど。
全てを把握していたわけじゃない。
全部を知ってしまうまでは、もしかしたら、草野君の話が自分に当てはまったら嫌だなって、漠然とした不安を抱いただけ。
「……どうして、俺に何も言わなかったんだよ!」
怒声が降り注ぎ、わたしはうつむいて唇をきつく噛んだ。
根拠などどこにもなかった。
だけど家に帰ろうとしたわたしには最悪は起きない、なんとかなるだろうという無意味な自信があったのだ。
決して常より楽観的な思考をしているわけでもないのに、こんな時だけ。
「だって……、そんなこと、認められるわけないよ」
事実を、直視したくなかった。
わかっている。
わたしは望まない真実から目を背けようとしただけだ。
すぐに覚める夢だと知っていても、最後までぬるま湯のような幸せにすがっていたかった。
「わたしは食べられるために、あの人たちに育てられたって……。そんなの人に指摘されても簡単に頷けるわけないじゃない。今でも信じられない。……信じたく、ないよ」
わたしの10年間。美子さんと茂さんと過ごした時間は何だったんだ。
穏やかな思い出が霞んでいく。
ふたりの優しい笑顔にわたしを食べようとした時の恍惚な表情が重なり、楽しいはずの記憶に嫌悪感がこみ上げた。
わたしの家族。
自分自身の存在。
全てが消えてしまったわたしは、これからどうすればいいのか。
今になって襲いかかるのは、未来への不安と絶望。
さっきまであれほど死に怯えていたのに。
死にたくないけど、生きるのも、怖い。
叶うなら、両親と兄がいたあのころに戻りたい。
特別じゃない、人が消えてもそれが認識できない頭が欲しい——と、願おうとして思い知らされる。
自分の頭が普通になったら、わたしの中からカズ君の存在が消えてしまう。
昔も、そして今も。こんな弱くて卑屈なわたしを気にかけてくれる人だというのに。
唯一同じ世界に立てるたったひとりの理解者。
彼の存在の消失を、わたしが望めるわけがない。
……じゃあわたしはどうすればいいの?
何を望んでどんな選択をするのが正解か。
生も死も過去も未来も、わたし自身の全てが曖昧でもう何も考えたくない。
「返してよ。お父さん、お母さん、お兄ちゃんも……。わたしの家族、みんな返してよっ」
もう会えないと認めてしまえば、なおさらみんなの声が聞きたくなる。
おぼろげな記憶にしか存在しない、わたしの家族がどうしようもなく恋しい。
自分の運命を呪い、アスファルトに向かって繰り返し「返して」と誰にでもなく訴え続けた。
うなだれるわたしの正面に草野君がかがみこむ。
顔を上げて目の当たりにした真剣なまなざしに、泣き言しか出ない口が勝手に閉じる。
「生きるぞ」
小さな囁きだった。
だけど込められた思いの強さを間近で感じ、呼吸を忘れて草野君に見入った。
「もう一度言う。いいか、心の中では何を思っても、絶対あいつらには逆らうな」
草野君が潜めた声で早口に言う。
若干の焦りは窺えても、彼には迷いやためらいが全くない。
なんで。どうして従わされている自由のない環境に生きながら、そんな目ができるの。
どうして草野君は、そんなに強いの——?
「何を望む?」
口にしようとした言葉は、別の声によって遮られる。
眉間に深くしわを寄せた草野君が口をつぐんで微かに頷き、ゆっくりと立ち上がって場所を空けた。
わたしの家から門扉を抜けた大西先輩が、草野君のいた位置——わたしの目前で止まる。
大西先輩の服や顔に汚れは見られなかった。
「人間には無理でも、俺たちだったらできることがあるよ。死ぬのが怖いマリちゃんは、一体何が欲しいんだい?」
腰を軽く折って、地面にはいつくばるわたしを見下しながら、鼻歌を歌いだしそうな弾んだ口調で大西先輩は問いかけてきた。
「俺ね、マリちゃんのおかげで今日はすんげー機嫌がいいんだ。だから今なら、君のお願いを聞いてやらなくもないよ」
お願い? この人に何を?
わたしや草野君を狙ってくるモノたちから守ってくださいって、そんなこと言っても聞いてくれるとは到底思えない。
言葉に困っていると、大西先輩がしゃがみこんでわたしの耳元に口を寄せた。
「賢くなりなよ。俺たちはここでカズナリを捨てて、君を代わりに使うのもありだなって考えているってことは言っておこうか」
——馬鹿な。
目を見開いて近距離にある作り物のような顔を直視する。
わたしの視線を受け止めて、大西先輩は目を細めた。
「なんせ君は俺たちの獲物からすれば、極上の餌のようだからね。ま、そんなことは置いておくとして、マリちゃんはどうしたいのさ」
再び、大西先輩が耳元で囁く。
「カズナリを人質にして君を従わせようとしない俺の優しさ、わかってもらえないかなあ」
……ああそうか。
理解した。こんな言い回しをしていても、大西先輩はわたしのお願いなんてはなから聞く気などはないのだ。
全ては彼らの望むままで、わたしに選択肢などありはしない。
非常に不本意だ。ふざけるなと言いたい。
だけど皮肉なことに、わたしの願いと彼らの思惑は、どうしようもないぐらいに一致してしまっているのも確かで。
逆らうなという草野君の言葉が頭の中で繰り返され、わたしを冷静にさせた。
大西先輩の顔がわたしから離れる。
悠然とたたずむ大西先輩を前に、わたしはまるでひざまずいているようだ。
表情を見せないようにうつむく自身の動作ですら、こうべを垂れて敬意を表しているかのように思われてしまいかねない。
草野君がどんな顔でわたしを見ているのか、確かめる勇気はなかった。
反抗心は表に出さない。
わたしが彼らに従うことによって、守れるものがあるなら。過去をなかったことにできず、これからを生きなければならないというなら。
——わたしは望む。
「……見えるままの真実が欲しいです」
異変を誰にも理解されずに、ひとりで悩み続ける日々はきっと今日で終わりになるだろう。
「お願いです。草野君の……、カズ君のそばにいさせてください」
言いきって、恐る恐る顔を上げる。
そんなわたしに、大西先輩が笑みを深めた。
逆らうな。
役に立て。
従順であれ。
そうすれば——……。
* * *
それは藍色の空に星たちが瞬く、7月のこと。
近くの水路ではカエルの大合唱が大きく響き、上空の闇を無数のコウモリがせわしなく駆け回っている。
電信柱にとりつけられた電灯には、明かりにつられた羽虫が飛び交う。
窓が網戸になっているいずこかの家からは、楽しげにはしゃぐ子どもの声がここまで届いた。
——もうすぐ夏休み。
その子はきっと、嬉しそうに両親とこれから始まる夏休みの予定を語り合っていることだろう。
うらやましいなんて、思ってたまるか。
湿気をはらんだ空気が頬を撫でる。
そよ風が汗ばんだ体から容赦なく体温を奪っていく。
外気は蒸し暑いはずなのに、もはやわたしの心も体も冷めきっていた。
そんな夏の夜。
わたしは悪魔と契約を交わした。




