31.正しい記憶と、正しくない選択
◇ ◇ ◇
なーにそんなところでふてくされてんだ。
築山マリがあの家から出て来ないってのがそんなに不満か?
「——————」
はっ、奇跡ねえ。これは喜ぶべきこと、か。
お前の頭も予想以上におめでたい作りをしているな。
思い返してみろ。
これまでお前が生きてきた年月の中で、弱者の理想通りに物事が進んだ例はあったか?
お前の大事なマリちゃんは間違いなく、人間たちにとってはいないものとなったんだ。
起こってしまった事態は変えられない。
考えろ。
どれなのにどうしてマリちゃんは、あの家を追い出されないんだうなあ?
流されるままに生きるだけのやつに、
自分で動こうとしないやつに、
ただ嘆くだけのやつに、
——奇跡は起きない。
◇ ◇ ◇
およそ9年前の、幼稚園の卒園式まであと1カ月をきった風が強い冬のある日のことだ。
つい先日両親が注文したランドセルが家に届き、わたしは小学校への期待で胸を弾ませていたのを憶えている。
休日に買い物へ出かけたお母さんを、わたしとお父さんは家で待っていた。
本当はお母さんと一緒に行ってお菓子を買ってもらいたかったけど、外は寒いから家にいなさいって言われたんだ。
昼下がりのまだ明るい時間に家を出たお母さんは、外が暗くなっても帰ってこなかった。
テレビにも飽きて、お母さんに何かあったのではと心配していると、風の唸り声に混じって聞き慣れた自転車のかん高いブレーキ音が外から聞こえてきた。
次いでうちのガレージが開く音。——お母さんだ。
ほっと胸をなでおろし、リビングのカーペットから跳ね起き玄関へと出迎えに走る。
「お帰り」と大きな声で元気に言えば、お母さんも「ただいま」と笑って返してくれる。
そう、信じていたんだ。
玄関のドアが開く。
「ただいまー。ごめんなさいね、遅くなってしまって」
家に入ってきたのは、全く知らない女の人だった。
わたしはお帰りの「お」を発音しようと開いた口の形をそのままに、理解が追いつかずしばらく固まってしまった。
「あら、お出迎えしてくれたの? ありがとう、マリちゃん」
女の人は買い物袋をわたしの横に置いて着ていたコートを脱ぐ。
「すぐにご飯の支度をするからね」
自然に、当然のように語りかけてくるその人に怯え、もとより人見知りだったわたしはリビングにいる父のもとへ逃げた。
知らない。
見たこともない。
お母さんより若くて。
お母さんより細くて。
お母さんより化粧が濃い。
あの人は——、誰?
「お父さん!」
リビングのソファでうたた寝をしていたお父さんの膝に飛び乗る。
「わっ、どうした!?」
「変な人がいる!」
驚いて飛び起きたお父さんにしがみつけば、背中に大きな手が回ってきた。こうやって抱きしめてくれるお父さんが、わたしは大好きだった。
「どこに……」
「ただいま。遅くなってしまってごめんなさい」
お父さんがわたしに事情を尋ねる前に、女の人はリビングへ入ってきた。
安心を欲して腰にしがみつく手に力を込めた。
ここなら大丈夫。きっとお父さんが追い出してくれる。
お父さんは怒ったらとても怖い。だからもう大丈夫だ、と。
「お帰り。買い物ご苦労さま」
「すぐに晩御飯の支度をするわね」
「何か手伝おうか?」
「ありがとう。でもわたしひとりで平気よ。休みの日ぐらい家でくつろいでいてちょうだいね」
いつもはお母さんに向かって言われる優しい言葉と、気遣い。お父さん、……どうしてそれを、あの女の人に言っちゃうの?
頭上で交わされる会話が理解できない。
「マリ、変な人ってのは外を歩いてたのか?」
女の人と一通りの話を終えたお父さんがわたしに尋ねる。
混乱しながらも、わたしは女の人を小さく指差した。
「……あの人」
ダイニングテーブルに買い物袋を置いた女の人がこちらを見る。
目を合わせたくなくて、お父さんの陰に隠れた。お父さんはそんなわたしに眉を寄せて、口を開く。
「何を言ってるんだ。自分のお母さんの顔も忘れたのか?」
責めるような口調に、涙目になりつつ首を振って否定する。
どうしてそんなこと言うの?
あの人は、お母さんじゃない。
「マリ?」
「どうしたの、マリちゃん」
女の人が近づいてくる。いやだ。
守ってもらえると思ったのに、あろうことかお父さんはしがみつくわたしを引き離し、体を返して自らの膝に座らせその人と対面させた。
うそ。どうして。やめてよ。——いやだ!
「変ね。いつもなら『美子さん』って呼んで駆け寄ってきてくれるのに」
間近で顔をのぞきこまれ、ついに我慢は限界に達する。
「やだあ!」
かくまってくれない父に対する憤りと、女の人に抱く恐怖にいてもたってもいられず、大きな体から降りてこの場から逃げようと必死になった。
だけどすぐお父さんに捕まってしまう。
膝を床についたお父さんはわたしの両肩を掴んで真剣なまなざしを向けてくる。
何もかもが思い通りにならない。
やり場のない感情が涙として流れ出し、ついには嗚咽が漏れて自分の気持ちにコントロールが利かなくなる。
そんなわたしを目の当たりにし、お父さんと美子さんと名乗った女性は困惑気味に顔を見合わせた。
「マリ、泣いてないでちゃんと話してみろ。じゃないと、お父さんは何がそんなに嫌なのかわからないだろ」
低い声で諭されて、涙の水量が増す。
お父さんは辛抱強くわたしが落ち着くのをじっと待った。
わたしは呼吸が落ち着いたころ、恐る恐る人差し指で美子さんを指差した。
「……お母さん、じゃない」
「何言ってるんだ。美子さんはマリのお母さんだろ」
「違う!!」
地団太を踏んで主張しても、眉をひそめて全く取り合ってくれない。
とっさにテレビの上に飾ってあった写真立てをつかむ。
年末に白浜へ旅行した時に撮った写真が飾られたもので、わたしを挟むように両親の立ち姿がはっきりと写っている。
「これ! マリのお母さん!!」
お父さんに写真を突き付け、正しいのは自分だと訴えた。小さな手から、角張った大きな手へと写真立が移る。
写真と美子さんを交互に見て、お父さんがため息をこぼす。
「マリ、冗談はもう止めないか。写真に写っているのもここにいるのも、どちらも美子さんだろう」
たしなめられても、納得できるわけがない。
写真のどこにあの女の人がいるというのだ。
冗談を言ってるのはお父さんだ。わたしは間違ってない。
まるで悪を正す正義のように、自身を持って声を張り上げた。
「違うもん!」
「いい加減にしろ!!」
わたしにかぶさるように聞こえたのは、鼓膜を揺らすほど大きな怒鳴り声。
直後、左の頬に強い衝撃が走る。
何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
ただお父さんがものすごく怒っていること。左の頬がじんと熱を持っていること。そのふたつだけは理解できた。
数秒前、頭上より振り下ろされた手の影は、一瞬見えた。頭が真っ白になって、そして気付く。
わたしはお父さんにぶたれたのだ。
ものすごい剣幕で睨まれる。
身がすくんで、わたしは悪いことをしてしまったのだととっさに思った。
「いもしないお兄ちゃんの次は、お母さんか。そんな嘘をついてどうしたいんだ。構ってもらえると思ったら大間違いだぞ」
「……違う」
嘘なんてひとつもついてない。
でも、気圧されて強く主張できない。
わたしの否定を、お父さんは反抗と受け止めたらしい。
「まだ言うか! 毎度毎度、どうしてお前はそんな子になってしまったんだ」
うなだれながらこぼれた嘆きが、悔しくてたまらなかった。
たまりかねてお父さんの手を振りほどく。2階の部屋に走って逃げた。
惨めで悲しくて、いきり立つ感情に任せベッドの上で声を上げて泣いた。
話を聞いてくれない父が許せなくて。
帰ってきてくれないお母さんに絶望したのだ。
しかしながら、感情を爆発させるのも、泣き続けるのもかなりの体力を要するものである。
数分か数10分か。正確な時間は定かでないけど、しばらくすればわたしの泣き叫ぶ声は消えて、後は鼻をすする音だけが部屋に響くだけとなった。
そんな時、ドアが開いて足音が近づいてきた。
「マリちゃん」
高い声。そこにいるのはお父さんじゃない。
見捨てられたのだとひとりで勝手に打ちのめされ、わたしはまた火がついたように泣き出してしまう。
女の人は何も言わずただひたすらに、うずくまるわたしの背中をなで続けた。
そして、泣きつかれたわたしはいつの間にか眠ってしまう。
夜が更けた暗い部屋で目を覚ませば、体に羽毛布団がかけられていた。
ぼんやりとベッドから起き上がり、空腹を感じて部屋を出て階段を下る。
さっきまでのは全部夢だったのかもしれない。
淡い期待は、台所に立つ女の人の姿にあっさりと砕かれた。
「マリちゃん、起きた? ご飯は食べれそうかしら」
テーブルに並ぶおいしそうな料理と、憮然とした表情で椅子に座るお父さん。まだ怒っているのだ。
女の人を指摘しては、機嫌をさらに損ねることに繋がる。
わたしはお父さんの顔色をうかがいつつ、女の人に小さく頷き椅子に座った。
夕食はいつもの味じゃなかったけど、おいしかった。
サラダを残さず食べたわたしを、女の人は嬉しそうに褒めてくれる。
「……お母さん、どこなの?」
勇気を出して女の人に聞いたけど、彼女は困ったように笑って首をかしげるだけだ。
「マリ、まだ言うのか」
代わりにお父さんが唸るように責めてきて、わたしはそれ以上何も言えなくなってしまった。
その日を境に、わたしの前からお母さんは消えた。
でも、不自由なことは何ひとつ起きなかった。
炊事や洗濯といった家のこと。幼稚園の送り迎えといったわたしの世話も、彼女はまるで自分が母親であるかのようにそつなくこなしていく。
近所の人や幼稚園の先生も、彼女が「誰」なのか尋ねようとはしない。
周囲の人たちにとっても、いつの間にかわたしの「お母さん」として見られていたのだ。
女の人——美子さんは優しかった。
決して怒ることがなく、いつも微笑んでいる。
母親の消失も相まって、わたしが美子さんに懐くまでにそう時間はかからなかった。
反対に、美子さんと親しくなればなるほど、わたしとお父さんの心の距離は遠ざかっていった。
あの日、ぶたれたという衝撃。
自分の言ったことを信じてくれなかったという失望。
たくさんの負の思いが親子の間に高い壁を作る。
お父さんもわたしに手をあげたことが後ろめたいのか、あれ以来わたしに接する態度がよそよそしい。
ぎくしゃくした関係がそれ以上悪化しないよう、わたしたち親子の間に入ってくれたのは、美子さんだ。
お父さんに言いたいことはまず美子さんに相談して、彼女からうまく相手に伝えてもらう。お父さんからわたしへの言葉も、また然り。
この家には美子さんの存在が必要不可欠になるほど、わたしとお父さんは彼女に頼りきりになっていく。
お母さんがいなくなって半年もすれば、わたしとお父さん、そして美子さんの3人での生活がもはや当たり前と感じるまでに慣れた。
お父さんが苦手なのは相変わらず。
ただいまやお帰り、おはようの挨拶だって互いに目を見ては交わせない。会話らしい会話はその時にはもうほとんどしなくなっていた。
それでも家庭が成り立っていたのは、やはり美子さんの存在があったからだろう。
時が過ぎ、小学2年生になった8月の中ごろ。わたしは夏休み。
お父さんはお盆休みが終わり、昨日から仕事のある日常に戻った、そんな矢先の出来事だった。
夕方、リビングのソファでくつろいでいたら玄関のドアが開く音がした。美子さんは台所で夕飯の支度中である。
ああお父さん、今日は早かったんだなとぼんやり頭に浮かんだ思いは次の瞬間弾き飛ぶ。
「ただいま」
最初、その声はわたしの聞き間違いだと判断した。
男の人の低い声。お父さんが言ったとは想像できないほど、静かで穏やかな、それでいてよく通る声が聞こえてきたのだ。
反射的に深く腰掛けていた身を起して姿勢を正す。
リビングと廊下を隔てるドアが開かれた。
「お帰りなさい。早かったのね」
入ってきた人物に、台所の美子さんが歩み寄る。
「ああ。仕事がうまい具合に進んでね」
「それはよかったわ。お疲れさま」
ふたりのほのぼのとした会話に、わたしは完全に蚊帳の外だ。
ソファの背もたれに隠れて見守ることしかできない。
家に帰ってきたのは、お父さんじゃなかった。
お父さんより背が高くて。
お父さんより肩幅が広くて。
お父さんより物静かで落ち着いた空気を身にまとう、見たこともない——男の人。
呆然としていると、男の人がこちらに気付いて近づいてきた。
「ただいま、マリちゃん」
目線を合わせるため膝を曲げて腰を折り、その人は優しくわたしに言う。
「お……おかえりなさい」
雰囲気に流されて詰まりながらも決まりの返し言葉を口にすると、彼は柔らかく微笑んだ。
「うん。ただいま」
動揺を隠そうともせず、わたしの目線は美子さんと男の人を行き来する。
どうなっているのか、美子さんに説明してほしかったのだ。
「どうしたの? マリちゃん」
——この人、誰なの?
口にするより先に、美子さんがわたしに聞いた。
「……何か、おかしなことでもあった?」
ソファの背もたれ越しに、美子さんを見上げる。
こんな人知らないと正直に告げるのをためらったのは、お父さんの前例を思い出したから。
もしも、わたしがこの人を否定したら、美子さんもお父さんのように冷たくなってしまうの?
わたしはまた怒鳴られて、引っぱたかれるのかな……?
怒られるのが嫌で。
落胆されることに怯え。
失望されるのを恐れ。
わたしは自分の心に蓋をした。
お兄ちゃんやカズ君が消えて、お母さんもいなくなったのだ。
でも、わたし以外の誰にもそれが「おかしい」ってわかってもらえなくて、子どもながらに世界はそういうものだと理解し始めていたころだった。
「…………ううん。なんでもない、……と思う」
恐々と美子さんを窺いつつも小さく呟くと、美子さんが綺麗な顔に笑みを作る。
「そう。……マリちゃんはいい子ね」
満足そうに頷いた美子さんに、頭を優しく撫でられた。
自身が嘘をついたことに罪悪感はあった。
だけどそれ以上に、「いい子」と褒められたほうがわたしにとっては重要だった。
怒られなかった。嫌われなかったのだ。
だからこの判断は、間違いじゃない。
当時のわたしには、あまりしゃべらなくなったお父さんよりも、もはや美子さんのほうが重要な存在になっていた。
それ以来、わたしのお父さんは家に帰ってこなかった。
美子さんが呼ぶのを聞いて、わたしは男の人が茂さんという名前だと知る。
茂さんも、美子さんと同様に優しい人だ。
お父さんと違ってわたしを見てくれる。気にかけてくれる。……褒めて、くれる。
わたしが美子さんと茂さんの3人での生活に慣れるのに、そう時間はかからなかった。
さらに月日は流れ、わたしは段々と自身の異常を自覚していく。
見たこと聞いたこと。全ての記憶はおろか、写真といった残された記録の認識すらあてにならない、この頭。
もとから正しくないのはわたしだったのだ。
だけど普通でいたくて、みんなと同じでありたくて。自分の主張を殺して、周囲に合わせ続けた。
ずっと、ずっと。何年も——。
その結果が……、これなの?




