プロローグ とある邸で起きた凄惨かつどうしようもない暴力事件
それは、とある日の夕方。大きな街の中心部に位置する学園の片隅でのひと風景。
「はぁ⁈ 俺がお前のクラスの生徒の研究の手伝うだぁ⁈ 」
くたびれた学生服に身を包んだ青年ーロリスの大きな声が、静まりかえっていた研究室全体に反響し擬似的なやまびこを作り出している。
耳が痛くなるほどの大声を間近で浴びせられても、男より少し年上の腰まである燃え盛る様な赤髪の印象的な超然とした女性ーエリサは澄ました顔で目の前にある来客用の備え付けのテーブルの上に出された紅茶を優雅に飲みつつ、さしもその反応を予測していたかの様に言葉を紡ぐ。
「そうだ。私のクラスに優秀だが未だに何処の研究室に入るか決めかねている生徒が五人ほどいてでな。暫くでいい。そいつらの面倒をここで見てやって欲しいんだ」
エリサとテーブルを挟んで対局に腰かけたロリスは両の手でデーブルを激しく叩き、まだ座ったばかりだと言うのに勢いよく立ち上がる。
ロリスの分の紅茶がカップから津波のように大きく溢れる。エリサはこの反応も見越していたかのようにティーカップをひょいと持ち上げ被害を未然に防ぐ。
「あのなぁエリサ。俺がそんなのできると思う? 確かに俺はこの研究室の室長って事になってるけど……実質もうここ俺の部屋と言っても過言じゃないレベルよ⁈ 他の人員はゼロなのよ⁈」
ロリスはまるで同級生と会話するかの様な口調で明らかに学生ではないエリサにまくし立てる。
「分かっている。だがたった五人だけなんだ。それくらいお前一人でも面倒見きれるだろ? ほら、もちろんタダでとは言わない。私もこれで社会人だからなぁ。最低限のお礼はさせてもらうよ」
反抗期の子供を諭すかの如くエリサはロリスの言い分を受け流しなおも話を強引に進める。
ロリスも自分の発言が明らかに流されたことを悟ったのか、少々挑発的な態度でエリサに対応する。
「いやー、そう言われましてもねぇ。授業は欠席、成績は最悪、自宅追い出されたから元同級生であるエリサ=ぺテンション様のお家にご厄介になってから早3年。オマケに神童とか謳われて10歳で飛び級入学したは良いものの……もうこれで俺がこの学園に通うのは9年目とかいう前代未聞超絶怒涛の問題児であるこの俺に何を教えろって言うんだよ? 」
「逆に聞こう。なんでお前はそこまで自覚していながら卒業という一般の生徒なら簡単な行為ができずに9年間も学園に居残り続けるんだよ? 」
「待て待て待て。逆に聞こう。なんで卒業しなくちゃならないんだ? 」
ロリスはあたかも当然のことかのように聞き返す。
あまりの暴言に場が静まり返る。何故か言ってやったぜ感を出しながらロリスはエリサの背後にある夕日の差し込む大きなはめ殺しの窓から外の景色を伺う。
そこには夜が近づき点々と灯りの灯り始めた飲食店や住居の外れにその周囲の風景とは釣り合わない明らかに異様な、天を貫き雲より遥か上を目指して伸びた少し傾いている古びた塔ー『ビフレストの架け橋』が存在感を放っている。
暫く自分を落ち着かせるように紅茶を飲んでいたエリサであったが、次第に、わなわなとティーカップを摘んでいたすらりと伸びた細腕が震え、喉の奥から絞り出したかのような彼女の諦め混じりの声が長かった沈黙を破った。
「はぁ……ついに壊れたかこの腐れ留年生は」
溜め息と同時に口からこぼれた一言だった。呆れ切った様子で頭を抱えながらエリサはまるでゴミを見るかの様な目つきでロリスのことを見る。
不思議なことにまだ少し紅茶を残したティーカップはエリサの手を離れまるで宙に置かれたように不自然な位置に浮いており、ほのかな香りを放っている。
今、自分のことが言われている事に気がついたかのように窓からエリサに目を移したロリスはさしも当然というかの如く今度は逆にエリサを諭すかの様に話し始める。
「お前こそ分かってねぇな。ここの学生でいる限り安く食事は食えるわ神童の俺に研究室提供してくれるわ……そして毎年初々しい姿の新入生のナンパができるわ……ここの何処に辞める理由が見つかるんだよ? 」
「分かった。価値観の合うはずもないゴミに聞いた私が悪かった。もう取り敢えず死ねよお前。この清く美しく崇高な学び舎としての学園をそこまで下劣な目で見れる様な奴はもう人間とは思えんな」
「おいエリサ。何を比べてんだよ……他の全人類の皆様に失礼だろうがぁ! 」
ロリスは目をクワッと見開き、先ほどの発言のどこに自信があったのだろう……力強い面持ちで返答する。
「そこにはしっかりと自覚があったんだな。ああ、マジで死んでくれ。そうだ、今ならお前に選ばせてやろう。餓死がいいか? 溺死がいいか? それとも今すぐ高火力の魔術で消し炭にしてやろうか? 」
ロリスは恐らく女生徒がすれば可愛いであろう腕を組み人差し指を顎に当てる仕草をしながら可愛こぶった様子で
「いやーそうだなぁ。正直、苦しいのと痛いのと怖いのは嫌だからこの際全部遠慮しちゃうね」
「そうか……ああああ鬱陶しい! いいからお前は明日からうちの生徒五人の面倒を見ろ。期限は一ヶ月だ。そこまでしてくれたら『後は野となれ何とやら』だ」
「なぁ、エリサ。お前は本気でこの第8研究室に生徒を招き入れるつもりか? 俺はもう魔術なんて自分から学ぼうとする奴なんかの手助けをしてやるつもりは毛頭ないぞ」
ロリスの先ほどまでのちゃらちゃらとした様子はどこへやら、いつかの自分の行いを悔いたかのような顔で床の一点を見つめる。
「実力的に後輩の手助けのできない不甲斐ない先輩がそれを言っても説得力が微塵たりとも感じられないのだが……」
エリサがジト目でロリスの発言の痛いところをつく。
「人が珍しくマトモに黄昏てんだから余計なチャチャ入れるなよな」
エリサの的確なツッコミに唇を尖らし抗議するロリス。
「これはお前の学園の生徒としての地位向上のためでもあるんだぞ。あと言い忘れてたけど、お前に拒否権はないからな」
「はぁ? それは一体どういうことだよ? 」
「もしこれを断ればお前を私の邸から追い出してやる。あっ、既にお前の荷物の半分を私がまとめておいてやったからな! そもそも3年前にお前が言った私の邸に泊まらせてもらう為の理由が『留年してる自分が同級生と同じ寮で暮らすのは心が痛い』だったから元同級生として見過ごすわけにはいかないと思ったんだが……そこからまさか3年も卒業しないとは思ってもみなかったからな」
ギロリと澄み渡る空のような青い双眸をロリスに向け、それでいて口元は不自然なほどに緩みその細面には微笑が浮かんでいる。この時のエリサの心境は恐らくこの場に居合わせた者ならば誰にでも分かるだろう。
ただ、唯一ここにこの場の空気を読まない男がいた……もちろん、ロリスのことである。
「ぶうっっっ……うっわ、なにその顔⁈ キレてんのか楽笑ってるのかどっちかにしろって。そんな顔芸なんかしてるからいい歳になっても未だに婚約者の1人はましてや恋人の1人すらもできねぇんだよ」
腹を抱え、吹き出しながらとんでもない地雷を踏んだロリスに、いい加減我慢強い事で知られているエリサの口元は笑みを失っていた。
「《夜を覆いし暗き静寂よ・その晩鐘の静寂なる音色を以って・人と世を繋ぐ縁を……」
エリサが明からさまにヤバげな呪文を唱え始める。
大気が振動し、彼女の華奢な左腕に多重に展開された雅な紫色の円形魔法陣にはみるみるうちに破壊のエネルギーが充填されてゆく。
「ちょっ、おまっ、タンマタンマ……そんなもんここで使われたらこの研究室ごと吹っ飛んで……俺の居場所がお前の邸だけになっちまうだろうがぁ」
此の期に及んでのロリスのとんでもない発言に唱えていた呪文の詠唱を中断してしまい、ただただ呆れるしかないエリサだった。
エリサの左手に集っていた破壊のエネルギーは霧散し、大気の振動はまるで何事もなかったかのようにぴたりと止んだ。
「やめだ。この魔術でお前を消したら私の長年をかけて創り上げた固有魔術に泥を塗ることになるからな」
「とか言っちゃってー、本当は可愛い可愛いこの学園の生徒である俺を傷つけることに心が痛んだんだろ? 気にすんなよ、今は立場は違えど元同級生だろ? お前の本音は俺には筒抜なんだぜっ☆」
さもエリサの全てを理解したかのような発言は彼女の燃え盛る地獄の釜に最高級の油を注いでしまった。
エリサは無表情で一直線にロリスを見つめ、今度は両の手のひらを彼に向かって突き出し先ほどとは違う呪文の詠唱を始めた。
「《全ての意思は無の極致へと至る・混沌の果てから出し氷結と獄炎は我が両の手の剣となり・ここに新たなる宵闇を顕現させよ》」
呪文の詠唱が終わるやいなや、突如ロリスの足元に底の見えない落とし穴、否、ブラックホールが現れてズブズブとゆっくりと彼の身体を呑み込んでゆく。
「えっ、ちょ、エリサさーん⁈ いだだだだだだっ! おい、沈んだ脚の部分が冷たかったり熱かったりするんだけど⁈ あっやべ腰が、抜けぬっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
「それもそうだろうな。これ神をも引き摺り込み氷と火炎でグチャグチャにして無に帰す究極のゴミ箱魔術だからなぁ。お前程度の人間に易々と抜けられたらたまったもんじゃないだろ? 」
エリサは腕を組みうんうんと頷きながら、闇属性のほぼ最強と言っても過言ではない魔術をゴミ箱扱いする。そして、暫くしてこの嫌がらせにも飽きがきたのだろうか、ピクピクと痙攣を起こして目が虚ろになっているロリスにゆっくりと向き直る。
「おいロリスや。私をここまで怒らせたんだ。もう償う方法は一つしかないと思うんだけが? 」
エリサはその美麗な素面に二つのサファイヤをらんらんとさせながら不敵な笑みを浮かべて無限に広がる闇へと沈みゆくロリスの顔を覗き込む。
まるで拷問かのような痛みに耐えながら顔を引きつらせその目には大粒の涙を携えながら両手を、もう顔と近くなった床につき、心からの言葉をエリサに贈った。
「オネガイシマス、この破滅的な経歴の俺に貴女様の大切な生徒を5人ばかり預からせて下さいませんでしょうか……」
こうして、王立アルフ魔術師学園の歴史上最長の留年生ロリス=セラフィンはエリサ=ぺテンション女史のクラスの生徒を彼の管轄の第8研究室で面倒をみることになったのだった。