第四十二話 怒れる瞳
龍降湖の水面は今日も静かで、これから起こる騒動など微塵も感じさせない。しかし、その周りでは数人の男たちが何やら巨大な道具を組み立てていた。
「さて、これで準備万端だ。それにしてもすまないな。運ぶのを手伝ってもらった上に組み立ても手伝ってもらって」
厳磨はスキンヘッドから譲り受けた道具を組み上げると額の汗をぬぐった。これでついに水神に復讐が出来る。
「気にするなよ。この大きさじゃ一人で組み立てていたら日が暮れてしまうさ」
厳磨とともにここまで荷物を運んできたスキンヘッドはなんの悪意も無い笑みを向けている。厳磨の復讐の準備が整ったのもひとえにこの男の協力があったからだ。この件が片付いたら礼をしなければ。
「それじゃあ、おびき出すとしましょうか」
スキンヘッドたちと一緒に来ていた猫背の男は丸い筒のような物を手に持つと、その先から伸びている紐に火をつけ、それを湖に投げ込んだ。
一瞬の沈黙、そして――
巨大な破裂音とともに水しぶきが上がる。水面の静寂はあっという間にかき消され、そのあまりの音に近くの木に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立った。
「これだけ大きな音を出せば、アイツも出てくるでしょう。出てきたら、それで一気にね?」
「あぁ」
終わりだ。これですべて終わる。和磨、待っててくれ。今、父さんが仇を取ってやるぞ――
爆竹によって揺れた水面がだんだんと収まってきた。そして、また激しく揺れ始める。これはアイツが出てくる兆候だ。
「ギキャァァァァ」
あの咆哮と共に青い巨体が姿を現す。さあ、さっさとケリをつけてやる。
「やれ!」
「わかってまさぁ!」
猫背の男は以前厳磨が使っていたのと同じ型のボウガンを取り出すとそれを水神目掛けて発射した。しかし、その先端についているのは銛ではない。何かの液体が入ったガラスケースだ。
「ギキャァァァァ」
特大の咆哮。そして次の瞬間、撃たれた水神がその場に倒れ込んだ。猫背の男が撃ったのは強力な麻酔弾だ。これで水神の動きを止められた。
「厳磨!準備しろ!」
「分かってる!」
スキンヘッドに言われて、厳磨は持ってきた道具を水神へ向けた。その道具の下には車が付いており、引きずって運ぶことが出来る。そして、その大きな銃口からは先の鋭く光った銛が覗いている。前回失敗したボウガンの優に三倍はあろうかという大きさのそれは、まさに移動砲台と呼ぶに相応しい。しかし、車が付いているとはいえ一人で持ち運ぶには重すぎた。だが、それは同時に威力が相当なものであることも意味している。
「コイツを叩きこめば、流石の水神も……」
厳磨の頭の中に息子の姿が蘇る。親孝行で不慣れな家事をいつも手伝ってくれていた。男手一つで育て上げたにも拘らず、とても素直に育っていた。亡くなった日の一週間後は息子の誕生日だった。本来なら一緒に誕生日を祝っていたはずだ。欲しがっていた新しい釣竿を買ってやるつもりだった。しかし、息子はもういない。全てあの青い化け物に奪われた。
許さない。絶対に許さない。復讐だ!
銛の先は水神の頭へ向けて、発射装置であるレバーを握った手に力がこもり、そして――
「止めろぉ!」
厳磨の手が止まる。
銛を発射しようとした厳磨の耳に誰かの声が聞こえてきたのだ。
「アイツは!」
厳磨達の目の前に現れたのは黒髪の青年と黒猫だった。
コイツは確か前にも邪魔をしてきた……。
「またお前か、邪魔をするな」
「するよ!なんの罪もない動物を殺そうとしてる人間を黙って見てられるか!」
「なんの罪もないだとッ?コイツは俺の息子を殺したんだ!」
「見たのかよッ?息子さんが殺される所を?村の人から聞いたぞ。水神はとてもおとなしくて、自分から人を襲うようなことは滅多にないって!」
「そんなの信じられるか!」
「厳磨!何をやってる!早く撃て!」
スキンヘッドが二人の会話に割って入った。それを合図に厳磨はレバーを握った腕に再び力を込める。
「死ね!」
「やめろ!」
ドンッ――
巨大な発射音と同時に何かが湖に落ちる音が響いた。
水神は――無傷。
何事も無かったかのようにまだ目を閉じている。ではあの落下音は?
「刹那!」
黒猫が叫びながら湖に飛び込んだ。なんと、あの青年が銛が発射される直前に砲台と水神の間に割って入り、銛に当たって湖に落ちたのだ。
「刹那!おい刹那!」
湖に飛び込んだ黒猫が湖に叫び続ける。だが反応は帰ってこない。銛と共に沈んでしまったのだろうか。そして、無情にも湖に赤い色が混じりはじめた。
「刹那ァァァァァァ!」
声を枯らすように叫んでも青年は出てこない。
「な、なんで飛び出して来たッ?なんでッ?」
怯えた声を上げながら頭を抱える厳磨の顔は蒼白になり、目の焦点はウロウロと落ち着きがなかった。
俺が?俺が殺してしまったのか?
自分が人を殺してしまったかも知れないという恐怖に寒気がした。歯がガチガチと鳴り、頭が真っ白になっていく。
「くそっ」
スキンヘッドが青年が沈んた場所を眺めながら舌打ちした。
「ど、どうするんです?浮いてこないですよ?」
「わかってる!」
予想外の事態に怯える猫背の男と、イラつくスキンヘッド。だが、厳磨の耳にはその声も聞こえてこない。
人を、人を殺してしまった。なぜ?自分が悪かったのか?自分はただ、息子の敵を討ちたかっただけなのに?
「厳磨!こうなっちゃ仕方がない。新しい弾を入れて早く水神を撃て!」
「違う……俺は殺したかったわけじゃ…」
スキンヘッドの言葉は狼狽した厳磨には届かない。
厳磨は己の両の掌を見た。あの青年が沈んだ場所と同じように自分の手が赤く染まっていくような気がした。もう駄目だ。お終いだ。
「な、なんだッ?」
目を閉じて現実から逃げ出そうとした厳磨の耳にスキンヘッドの声が響く。それによって現実に引き戻された厳磨は、スキンヘッドの目線の先、水神が倒れ込んだ方へ目を向けた。そこには不気味な黒塊、こちらにまっすぐ視線を送る黒猫の姿があった。
「…………」
黒猫は何もしゃべらない。本来それが正しいのだが、しかし、その体から発せられる感情は三メートル近く離れたここからでもヒシヒシと感じられる。
圧倒的な怒り――
怒った猫は普通毛を逆立てるものだが、あの黒猫にそんな様子は全くない。しかし、今の彼には間違いなく目の前の猫が激怒していることが分かった。それは猫が言葉を喋るという異常な事態を目の当たりにしたためか、はたまた、炎のように紅く染まった瞳を見たためか。
どちらにせよ彼らは一歩も動かない……いや、動けない。
蛇に睨まれた蛙のように、あの紅い双眸が彼らに微塵の動きも許さない。
「あ、あの猫ですよ!昨日俺が忍び込んだ時に邪魔してきたのは。あんな風に目が真っ赤になってて、それで――あつッ?」
黒猫を見て慌てる猫背の男の言葉が急に遮られた。見れば、厳磨たちを囲むようにして、そこ彼処から煙が上がっている。
「貴様ら、覚悟は出来ているか?」
黒猫が呟く。
その声には底知れぬ恐ろしさがあり、怒りに満ちた瞳は彼らを射殺さんばかりに鋭く、紅い眼光はまるで自分たちを燃やし尽くさんとする地獄の業火のようだった。




