第三十六話 それぞれの午後2
刹那が出かけてしまい、一人部屋に残った円は――
「うえぇぇぇ~」
まだ吐いていた。
もう吐く物も無く、涎ぐらいしか口から出てこなくなりそろそろトイレから出てベッドで休んでいようかと思っていた矢先――
「失礼しま~す」
誰かが部屋に入ってきた。声からして女だろうか?
「さてと、さっさと取り換えちゃいましょ」
その声とともに布が擦れ合う音が聞こえてきた。何をしているのか、ここからではわからない。
「行くか」
何者か分らない人間が部屋にいる以上、それを確認しておく必要がある。意を決して、トイレを出ようとした円だったが、
「うっ」
どうやらまだ動けないようだった。
「ん?誰かいるんですか?」
謎の侵入者がこちらに向かってくる。マズイ、今の態勢はあまりに無防備すぎる。せめて、ドアの方に顔を向けておかなければ……
「ダメだ、気持ち悪い……」
己の吐き気に抗うことが出来ず、不覚にも円は便器に顔を向け、相手に背を向ける形となってしまう。これは誇り高き猫又にあるまじき失態と言える。
そしてトイレのドアが開け放たれ、そこで円と謎の侵入者、刹那たちの部屋のシーツを換えに来た従業員の女の子は邂逅した。
「あれ?猫ちゃん?どうしたのこんな所で?お水が欲しいの?」
便器に顔を突っ込む円の姿は普通の人から見れば飲み水欲しさにトイレに行った普通の猫に見えるのだろう。
「うぇぇぇげぇぇ」
「だ、大丈夫、猫ちゃん?」
嘔吐する円の姿を見て、女の子が心配そうに体を屈める。
「あぁ、問題ない」
「…………」
しばしの沈黙。そして――
「ね、猫が喋ったぁぁぁッ?」
円と出会った人たちが必ずと言って良いほどする反応を、この女の子も例外なくしたのだった。
「あ~、お嬢さん、申し訳ないが、少し声のボリュームを下げてもらえないだろうか?二日酔い気味で頭に響くんだ」
驚かれ慣れている円はいたって冷静に、かつ紳士的に女の子へ声をかける。
「あ、ごめんなさい」
円のその落ち着いた態度に、思わず女の子が素直に謝ってしまう。その姿を認め、満足そうに円は頷くと、もう一つ注文を出した。
「うん、それと、ついでと言っては何だが、背中をさすってもらえると助かる」
「こんな感じですか?」
「あ~、気持ち良い。ありがとう」
背中をさすってもらいずいぶん楽になった円は、また便器に顔を戻した。
それからしばらくして、落ち着いた円は部屋に戻り休息をとることにした。女の子が気を利かせて酔い覚ましにと紅茶を入れてくれたので、ティータイムとばかりに円は女の子と世間話に花を咲かせる。
「へぇ~、それでどうなったんですか?」
「その時は俺の機転でなんとか事なきを得たよ。全く、刹那の無鉄砲さにはあきれ果てるよ」
「ふふふ、円さんは刹那さんのお目付け役なんですね」
「ん?いや、そういうわけでもないんだが……」
そこで円が言い淀んでしまう。自分は刹那の心臓を手に入れるため仕方なく同行しているだけだ。それがなぜこんなことになった?
「オホンッ!それにしてもこの紅茶は美味いね」
そのことについてそれ以上考えなくて済むように、円は強引に話題を変えた。
「それ、うちの町の特産品なんですよ。龍降湖から流れてくる水がとても綺麗だからすっごく美味しく出来るんです」
「そうなのか。いや、それにしても、美味い。温かいうちに飲めないのがとても残念だよ」
「ふふふ、円さんはやっぱり猫舌なんですね?」
「まあね」
円はお茶を淹れてもらってすぐには飲めなかったので、冷めるまで待ってから飲むという形を取っていた。
それにしても、先ほどまで喋る猫に仰天していたにもかかわらず、茶を淹れて、その上、世間話までしてしまうとは、この女の子、かなり順応力が高い。
「ふざけるな!放せ!」
「ん?」
階下から人のどなり声が聞こえてくる。
片方の声には聞き覚えがある。どうやら自分が面倒を見ている子供が帰ってきたようだ。
「すまないお嬢さん、もう少しお茶を楽しんでいたいのだが、どうやらツレが面倒ごとを持って帰ってきたようだ。様子を見てきても?」
「大丈夫ですよ。ここは私が片づけておきますから」
「ありがとう。では失礼」
食器の片づけを女の子に任せ、円は部屋を出た。
廊下を歩きながら一階へと続く階段から下を見下ろすと、いたいた、見慣れた黒髪と見知らぬ男が何やら言い争っている。
「だから、少し落ち着けっての」
「うるさい!放せ!」
まったく、店の入り口で騒いでは迷惑になるだろう。
一体今度は何の騒ぎなのだろうか。
「なぜ邪魔をするッ?」
「いや、だから……」
「何をやってるんだお前は?」
「ん?」
円の言葉に気付いて、刹那が視線を上へ上げる。
「お、円、もういいのか?」
「あぁ、だいぶ楽になった」
ゆっくりと階段を下りる足元もふら付くことは無い。酒はもう十分抜けたと言えるだろう。
「ね、猫が喋った……」
刹那と言い争っていた男が口をパクパクさせて驚愕の表情を浮かべている。
「ただの猫じゃない、誇り高き猫又だ」
もう何度目か分からないくらいのこのやり取りに辟易しながら円がその男の方へと視線を向けるが、その一言だけでは男を納得させることは出来なかったようだ。彼は未だに驚きの表情を浮かべたままでいる。
「それで、どうしたんだ刹那?」
「いや、このおじさんがあの水神ってのを殺そうとしてたんで止めたんだよ」
「水神?あぁ、あの龍か」
「――ッ!」
水神という単語を聞いたことで我を取り戻したのか、男の表情がだんだんと険しくなり始めた。そして、脇目も振らずに店から飛び出して行ってしまう。
「あ!おい!」
「なんなんだあれは?」
円と刹那は飛び出して行った男を追うことはしなかった。店主も何も言わずにその光景を眺め、ただ彼が乱暴に開け放ったドアだけがギィギィと音を立てていた。




