第一話 初デートは壁ドンで
「……ふっ、お待たせ。僕の可愛い子猫ちゃん(仮)」
隣国の王太子、ダニエル・フォン・ゼノヴィアは、バルコニーの欄干に背を預け、月光を背負って不敵に微笑んだ。
流し目が鋭く、はだけた胸元からは大人の色気がこれでもかと溢れ出している。
社交界では『一晩で一ダースの令嬢を骨抜きにする』『彼の通った後には恋の屍しか残らない』と囁かれる、歩く公序良俗違反男である。
だが、その内面は——。
(ひいいいい!噛んだ!今『子猫ちゃん』って言うとき、ちょっと奥歯噛んだよ俺!ていうか『子猫ちゃん』って何!?誰が考えたのこのセリフ!?昨夜、必死に恋愛小説を読み漁って付箋貼った俺の努力、滑ってない!?大丈夫!?)
心臓の鼓動が、もはや打楽器をこれでもかと連打している。
そんな彼の前に立つのは、我が国の至宝、王女フェリシア。
深紅のドレスに身を包み、妖艶な微笑みを浮かべる彼女は、見る者すべてに『経験豊富で奔放な美女』という印象を与える。
実際、彼女の噂は『火遊びの女王』『男を弄ぶ魔性の女』と、これまた散々なものだった。
外交の場で緊張して水を飲もうとして唇を舐めた瞬間、なぜか『誘っている』と誤解されたのが始まり。
だが、彼女の内面もまた——。
(……待って。今の『子猫ちゃん』、あれは絶対に夜の誘い文句のレベルよ!落ち着いてフェリシア、ここで赤面したら『あ、こいつバージンだな』ってバレるわ!舐められたら終わりよ、この政略結婚、マウントを取った方が勝つのよ!?)
フェリシアは、震えそうな指先を扇で隠し、艶然と微笑み返した。
「あら、殿下。そんな甘い言葉、昨日もどなたかに囁いていらしたのでしょう?私をその辺のウブな小娘と一緒にしないでくださる?」
(言った!言い切ったわ私!どやっ!遊び慣れてる感、出たでしょ!?)
「ははっ、手厳しいね。君のような『劇薬』を前にして、他の女のことなんて思い出せるわけがないだろう?」
(劇薬……!俺、今『劇薬』って言った!かっこいい!でも意味はよく分かってない!とりあえず強そうだから、いってヨシ!)
二人の視線がぶつかり合う。
傍目から見れば、それは熟練の遊び人同士による、吐息さえも計算尽くの高度な心理戦。
だが実際は、『教科書(恋愛小説)の丸暗記』vs『実戦経験ゼロの虚勢』という、泥仕合以下のナニかであった。
「……ところで、フェリシア。せっかくの夜だ。少し、場所を変えないか?」
ダニエルは、かつて読んだ本にあった『女を落とす誘い文句・ベスト十』の第三位を繰り出した。
彼の意図としては、単に『人が多い場所だと緊張で死にそうだから、誰もいない庭の隅で深呼吸したい』という切実な願いだったのだが。
「……!場所を、変える……っ?」
フェリシアの脳内で、いかがわしい妄想がマッハニで駆け巡るも、彼女の知識はそこらへんで止まっている。
(場所を変える?どこへ?王宮の奥まった部屋?それとも……まさか、ホテル!?くる……っ!伝説の『お持ち帰り』ってやつね!?負けないわ、私は魔性の女なのよ!受けて立ってあげる!)
「ええ、いいわよ。貴方の『お手並み』、拝見させてもらおうかしら……?」
フェリシアは精一杯、エロティックに見えるよう唇を舐めた。
実際は、緊張で口の中がカラカラに乾いていただけなのだが。
(うわあああああ唇舐めた!今この人唇舐めたよ!誘ってる!完全に俺を食おうとしてる!怖い!このお姉さん怖いよママー!!)
ダニエルの脳内会議は、パニックにより解散。
しかし、引くに引けない彼は、震える手をポケットに突っ込んで格好つけているように見せかけて頷いた。
「いい返事だ……。後悔させてあげるよ」
(後悔してるのは俺だよ!誰か止めてえええええ!!)
こうして、見た目が良すぎるだけの『ピュアっピュアな二人』による、勘違いだらけの婚約生活が幕を開けたのである。
二人が『場所を変えた』先は、王宮の裏手に広がる静かな薔薇園。
人目はなく、月明かりが二人のシルエットを妖艶に照らし出す。
まさに、経験豊富な男女が愛を囁き合うにはうってつけのステージである。
ダニエルは、心の中で必死に『恋愛教本・実践編』のページをめくっていた。
(よし、場所は確保した。次は……次はどうする!?手を繋ぐ?いや、このレベルの女に『手を繋ぐ』なんて幼稚園児みたいな真似、失笑されるに決まってる!もっとこう、ガツンと攻めてる感を出さないと……!)
一方のフェリシアも、ドレスの裾を握りしめて冷や汗を流していた。
フェリシアは扇の骨がきしむほど強く握り、喉を鳴らした。艶やかな微笑だけが、かろうじて崩れない。
「……フェリシア」
ダニエルが、重低音の効いた、やけにセクシーな声で名前を呼んだ。
実は緊張で喉が締まって声が低くなっただけなのだが、フェリシアには獲物を追い詰める肉食獣の唸りに聞こえた。
「な、なあに、殿下……?そんなに焦らさないで。私、退屈なのは嫌いよ?」
(嘘よ!嘘!むしろ一生退屈なまま、健康診断とか老後の話とかしてたい!)
その『退屈』という言葉が、ダニエルのプライドに火をつけた。
(退屈だと!?俺の必死の演出が退屈!?クソッ、こうなったら最終兵器だ。昨日読んだ『令嬢を黙らせる必殺技・壁ドン』を……!)
ダニエルは一歩踏み出し、フェリシアを背後の石柱へと追い詰めた。
そして、勢いよく右手を振り下ろす!
ドォォォォン!!
凄まじい衝撃音が薔薇園に響いた。
石柱の表面がわずかに削れ、火花が散ったのではないかという勢いである。
「……っ!?」
フェリシアは飛び上がった。目の前には、至近距離すぎるダニエルの顔。鼻先が触れそうな距離だ。
ダニエルは、顔を真っ赤にしながら、吐息を耳元にかける。
「……逃がさないよ。君が、僕にその気にさせたんだからね」
(うわああああああ!言った!言っちゃったよ!しかもこれ、腕がめちゃくちゃ痛い!石柱、硬ってぇ!俺の骨、ヒビ入ってない!?)
ダニエルは激痛に耐えながら、クールな表情を維持した。
対するフェリシアは、あまりの顔の近さに脳がシャットダウン寸前だった。
(ち、近いいいいいい!まつ毛長い!肌綺麗!ていうか、息がかかってる!これ、妊娠するんじゃないの!?)
「あら……強引ですこと。でも、そんなに慌てなくても、私は逃げたりしないわよ……?」
フェリシアは、パニックのあまり『魔性の女』のテンプレートを自動再生した。
彼女は、ダニエルの胸板にそっと手を置いた。
その瞬間。
(えっ、待って。この人、心臓が爆発しそうなぐらい速いんだけど……?)
フェリシアの手のひらに伝わる、ダニエルの鼓動。
『ドクンドクンドクン!』と、まるで全力疾走した後のような激しさだ。
(……ああ、そうか!これが『情熱』ってやつなのね!私を見ただけで、こんなに興奮してるなんて……さすが遊び人の殿下、本能に忠実なんだわ!)
一方、ダニエルもまた、フェリシアの手が触れた瞬間に思考が真っ白になった。
(さ、触られた……!胸を、女性に触られた……!しかも、フェリシアの顔も真っ赤だ。これは……俺の壁ドンが効きすぎて、彼女も『今すぐ抱いて!』っていう状態になってるのか!?ど、どうすればいい!?この先、本には書いてなかったぞ!?)
「……殿下、次は何をしてくださるの?」
フェリシアは、上目遣いで挑発した。
実際は『もうこれ以上は無理、誰か助けて』という悲鳴だったのだが、ダニエルには『早くリードしてよ、ヘタクソ』という煽りに聞こえた。
「……っ、君がそんなに急かすなら……見せてあげるよ。僕の『本気』を……!」
ダニエルは、震える手でフェリシアの顎を持ち上げた。
キスだ。ここでキスをしなければ、男が廃る。
(いくぞ、いくぞ俺!初体験が、こんな絶世の美女なんて、俺の人生ピークすぎる!)
(くる!くるわ!ファーストキス、さようなら!私の唇が奪われるううう!)
二人の顔が、ゆっくりと近づいていく。
十センチ、五センチ、三センチ——。
「……プッ」
「……え?」
至近距離で、二人の鼻の頭が『ツンッ』とぶつかった。
あまりの不器用さに、どちらからともなく変な声が出た。
「あ、済まない……角度が……」
「い、いえ、こちらこそ、迎えに行くのが早すぎたわ……」
二人は猛烈な勢いで離れ、互いに背を向けた。
顔面はもはやトマトを超えて煮え湯のような熱さである。
「……今日は、これくらいにしておこう。急に食べ尽くしては、楽しみがなくなるからね」
ダニエルは、震える声で精一杯の捨て台詞を吐いた。
(本当は恥ずかしすぎて死にそうだから、今すぐ帰って毛布に包まりたい)
「ええ……そうね。殿下のテクニック、次回に期待させてもらうわ……」
フェリシアも、扇を激しく動かしながら応じた。
こうして、初めての『壁ドン・デート』は、互いに『相手はやはり相当な手練れだ』という誤解をさらに深める結果となり、幕を閉じた。
翌日。
王宮内には『薔薇園から物凄い破壊音が聞こえた』『二人は激しく求め合っていた』という、斜め上すぎる噂が駆け巡ることになる。
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