2.「湖岸にて」
●【2.「湖岸にて」】
━━━━━━━ やっぱり何かが変だ。
街の様子がなんだか少し妙なことにフィンは気付いていた。
街のいたるところに飾られていた竜王の像がすっかりなくなっていた。
訪れる人々のために常に開かれていた竜王堂や、修道院の扉は硬く閉ざされていた。
あの治療術士から聞いた、フローリアのことが一瞬フィンの脳裏を掠めた。しかし、今は桜翁に会うことが先決だった。
「フィン。桜翁様ってどこにいるんだ?」
足早に歩くフィンに歩調を合わせながらピリポはフィンに聞いた。
「鏡湖のほとり。草木の王は水の竜王のすぐそばにいる」
「じゃあ、私たちはその、鏡湖とやらへ向かってるんだな?」
「そうだよ……ほら、もう見えてきた。あれが鏡湖だよ」
フィンの指差す方向を見たピリポの目の前には真っ青な水をたたえた湖が見えた。
湖というより海のようだ。対岸はかすんで殆ど見えない。
「こんな大きな湖……しかも、凍っていない湖を見るのは生まれてはじめてだ……」
ピリポはおもわず溜息をついた。
どこまでも青い湖の色。
それは白一色のホロには殆ど見られない鮮やかな色彩だった。
「ここが竜王アヴィエールの湖」
「ユズリ様の兄上……竜王アヴィエール……」
鏡湖の辺に立つと、爽やかな風が湖面を撫でながらピリポに向かって吹いてきた。
「気持ちいい……ここの風は冷たくない……」
ピリポはその場でおもいきり深呼吸をした。
「そりゃそうだよ。ここはホロよりずっと南なんだから」
「そうだった」
ピリポはくすくす笑っていたが、やがてふと考え込むような表情になった。
「フィン。ちょっと聞いていいか?」
「何?」
「この湖の水は……普通の水なんだよな?」
「そうだけど。何か?」
きょとんとするフィンに向かってピリポは言う。
「じゃあなんで、この湖の水はまったく波立たないんだ?凍ってもいないのに、風が吹いても全く波が立たない……」
するとフィンは可笑しそうに笑って言った。
「だから鏡湖って言うんだよ。ここは風が吹いても船を浮かべてもまったく波が立たない湖なんだ」
「へえ……ねえ、この水に手をつけても竜王はお怒りにはならないかな?」
「大丈夫だよ。水を汚さない限り、竜王がお怒りになることはないよ」
「そうか……」
ピリポは湖岸に屈みこむと、湖の水にそっと指先を浸した。
ピリポが湖に指先を浸しても、湖の水は殆ど動かず、波紋すら描かない。ましてや波立つこともなかった。
まるで、大きな鏡の中に指先がすっと吸い込まれたような感じだった。
「変な感覚だ……」
なにが可笑しいのか、ピリポがくっくと笑う。
「それにあまり、ここの水は冷たくない水なんだな……ねえ、フィン。この水は飲める?」
「飲めなくはないと思うけど……僕は飲んだことがないな」
「じゃあ、飲んでみよう」
ピリポは鏡湖の水を掌に掬うと、一口だけ口に含んだ。
「どう?どんな味がする?ピリポ」
ピリポは水を口に含んでもごもごと動かしていたが、すぐにこくりと飲みこんでしまった。
「何ら変わりのない普通の水だよ……美味しくも不味くもない」
フィンにとって生まれた時からあたりまえの存在だった鏡湖も、他所からきたピリポにとってはとても珍しいものなのだ。
鏡湖の水の温度など、フィンは気にしたことなどなかったし、飲んでみようとも思わなかった。だから、このピリポの行動がとても面白く感じた。
「私の姿が写ってる……鏡湖って名前は伊達じゃないんだね」
ピリポは水面に写った自分の姿をじっと見ながら言った。
「……そういえば、あまりちゃんと鏡を見ることなんかなかったな……私……結構酷い格好してる……。髪もばさばさだし、服もぼろぼろ……肌も唇も荒れてるや……なんだかこうしてみると私って不細工なんだな……」
ピリポが自分の容姿のことを気にした発言をするのは初めてだった。
そして、これにはフィンのほうが慌ててしまった。
「そ……そんなことはないよ……ピリポはとても綺麗……」
そこまで言った瞬間、フィンは自分の顔がかっと燃えるように熱くなるのを感じた。
「ありがと。フィン……お世辞でも嬉しいよ」
「そ……そんなこと……お世辞なんかじゃ……」
自分の声が上ずっているのをフィンは自覚していた。
フィンがどぎまぎしているあいだに、ピリポは上着のポケットから長い紐を取り出すと、湖面に映った自分の姿を見ながら、器用に髪を束ねた。
「これで少しはすっきりしたかな」
そう言ってピリポはフィンに笑いかけた。
「う……うん」
「あまりみっともない格好では桜翁様に失礼だしね」
しばらく、決まり悪さを隠そうともじもじしていたフィンだったが、
「あ……そうだった!」
と急に思い出したように叫んだ。
顔はまだ赤いまま。
照れ隠しのつもりなのか、必要以上にその声は大きかった。
「見てピリポ。あれが桜翁様の木だよ」
フィンたちのいる場所からそう遠くない、鏡湖の東のほとりにたつ、ひときわ立派で大きな桜の木をフィンは指差した。
「行ってみよう」
ピリポが駆け出した。
「うん」
フィンも後について走り始めた。
「これが……」
ピリポは桜翁の木の下まで来ると、その桜の木の大きさに感嘆の声を漏らした。
「桜翁様は神話の時代からずっと、僕たちソーナ人の優しい隣人だ。竜王に近く、それでいて僕たちと気軽に話をしてくれる。翁様の木の下に来るソーナ人は皆、翁様が好きなんだ」
フィンは桜翁の木の幹をそっと撫でながら言った。
「へえ……私たちとユズリ様のような関係かな……?いや、それよりもっと近いのかもしれないね。ユズリ様と私たちは滅多に逢うことなどできないし」
ピリポは少し羨ましそうだった。
『北の国からめずらしい客人が来たようだの……冷たい風が儂の足元に吹きよるわ』
突然、しわがれた老人の声がピリポの頭の上から降ってきた。
「誰?」
ピリポが声のした方向を見上げると、そこにはとても小さな老人がいた。
幼い子供くらいの身長。白く長い髭はその身長の倍の長さ。
白髪を頭頂で綺麗に結い、白い長衣を身に纏っていた。右手には曲がりくねった木の杖を持ち、太く長い桜の枝に腰掛けて、にこにこ笑いながらこちらを見ている。
「翁様」
フィンが叫んだ。
『そうか、帰ってきたか……女神の剣の子らよ』
「桜翁……様?」
ピリポに向かって桜翁は子供のように無垢な笑顔を向ける。
『いかにも。儂がこの桜の主じゃ……お前たち、ユズリ様から儂に逢うように言われたのじゃろ?』
「もうご存知でいらっしゃいましたか」
『うむ』
フィンの言葉に桜翁は軽くうなづく。
『ただ……』
桜翁はフィンに向かって少し残念そうな顔をした。
『……お前たちがここへ来るのは少し遅かったかもしれんの』
「どういうことでしょう?翁様」
『運命はあまりよくないほうに動き出した。竜巫女は囚われの身となり、王は竜王と決別することを宣言してしまった……』
その言葉に、フィンの表情が歪む。
「そんな……」
覚悟の上の答えとはいえ、やはり現実として受け止めるには厳しい答えだった。
『可哀想なフローリア。しかし、悲しいかな儂は手を出すことは出来ない』
「なぜですか、翁様。翁様のお力があれば、フローリア姉さんを助け出すことぐらい容易いでしょう?」
『それができんのだよ、フィン。儂も一度はあの娘を助けに行ったのじゃが、フローリア自身がそれを拒んだからのう』
それを聞いてフィンは怪訝な顔をする。
フローリア自身が助けられることを望んでいない。
それはいったいなぜなのか?
フィンには全く理解が出来なかった。
「なぜ?」
しかし、桜翁は悲しげに首を横に振るだけだった。
『……今のお前たちにはおそらくわかるまいな……あの娘の気持ちは……』
「どうして!どうしてなんですか。翁様」
『あの娘は揺れておる……彼女が愛する二つの者の間で』
「愛する……?」
『そう……彼女は彼女の生涯を捧げた竜王の他に、もう一人を愛してしまった……最も愛してはならん者を』
「まさか……」
フィンの表情が凍りつく。
「ありえない……フローリア姉さんは竜巫女ですよ?」
『そう。竜巫女は竜王以外を愛してはならぬ定め……だが……』
桜翁は目を伏せたままだ。
「好きになる気持ちは掟では縛れないよ。フィン……」
ピリポがふとつぶやいた。
「……そんな……」
『皮肉な運命じゃ……』
「それでは僕たちはどうすればいいんですか?翁様。ユズリ様の言うとおり、この国が滅びるのを僕たちは待たなければならないのですか?」
フィンは悔しそうに拳を握り締めていた。
『そうしたくないから、お前たちは来たんじゃろう?』
桜翁の言葉に二人はうなづく。
『儂は、遅かったとは言うたが、諦めよとは言うておらんよ』
「翁様……」
フィンとピリポの表情が明るくなる。
『あと一週間後。最後の機会が巡ってくる。それまでに、なんとかできれば……まだ間に合うかもしれん……』
「私たちはどうすればいいんですか?」
ピリポの問いかけに桜翁は穏やかな声で言った。
『災いの元凶を絶てばいい……お前たちは女神の剣なのじゃから……』




