写真越しの記憶
「実加ちゃん、ちーっとばかでええけんが、水持ってきてくれんか」
「は、はいっ」
店外が気にならないといったら嘘になるけれど、オーナーからの呼びかけで無理矢理意識をそちらから引き剥がす。
急いでカウンターの内側に入り、手を洗ってグラスに水を注いでオーナーの前に置いた。
オーナーが飲むのはホットコーヒーと決まっているけれど、朝から農作業をしていたから、まずは冷たいお水で水分補給をするのが夏のスタイルだ。
「そうだ! オーナーに見せたいものがあるんです。ええと、ちょっと待っててください」
三堂さんの件があって、すっかり忘れかけていたことを、オーナーの顔を見たら思い出した。
今の所まだお客様が来店する気配もないし、外にいる店長が三堂さんと話し終わったら、オーナーの為にコーヒーを淹れにくるだろう。その前にと思い、調理場の横の和室に駆け込んだ。そして押入れにある自分のバッグからあるものを取り出し、大事に胸元に抱えてオーナーの元に戻った。
「オーナー、これ見てください」
カウンターテーブルの上に置いたのは、例の写真。
家のアルバムに収められていた、幼い私の写真は、松崎のOCEAN BERRY前で撮られている。
時代がかった色味は、カメラがどうの、現像がどうのと父親から言われたけれど、さっぱりよくわからないので聞き流した。とにかく、これ一枚きりの大事な写真だ。
「こりゃぁ……」
オーナーは胸ポケットから老眼鏡を取り出し、写真を手にする。眼鏡を掛けては外し、写真を近づけたり遠ざけたりして、それこそ穴が開くほど時間をかけてじっくりと見た。
「この女の子は……ああ、そうか。この小せぇ子は実加ちゃんだら?」
「はい! 伊豆に両親と旅行中、お店に入ったみたいなんです。そこで母がイチゴパフェ頼み、まだ六歳だった私と二人で食べようとして……ええと……」
「食べようとして?」
「……私一人で食べちゃったらしいです」
車で伊豆半島をぐるりと回る旅の途中、通りすがりの一軒の喫茶店に立ち寄った私たち家族。料理が美味しかった、私がパフェを独り占めした、という細切れの記憶はあった両親だけれど、それがOCEAN BERRYだったかどうかまでは記憶になかったらしい。さらに店も松崎から静岡へ移転したし、店長が切り盛りしていたから、とても同じ店だとは思わないだろう。
しかし私は覚えていた――ここの味を。
だからこそ、この店の味に惹かれ、こだわった。押しかけ店員をするほどに。
「だから、私……ここに来たのかもしれません。店長の味……ううん、もちろん店長の作るデザートが好きなんですけど、お店の雰囲気からなにから、まるごとこのお店が良かったから、惹かれたんだと思います」
あの日、お母さんとたまたま立ち寄ったOCEAN BERRY。そんな偶然のような出会いなのに、昔からの縁があったことに、心の底から感動している。
「実加ちゃん……ありがとうよ。そういってくれりゃあうちんのが喜ぶら」
目を細め、写真を飽きることなく見続けるオーナーは、そうだ、と声を上げた。
「ちょっくらこの写真借りてもええか?」
「え? いいですけど、何をするんですか?」
「写真屋に行って、焼き増し……っていわねぇか。これをいかくしてもらおうと思ってな」
静岡弁にそこそこ慣れた私が解読するに、写真を拡大コピーする……ということらしい。
それを、額に入れて店のレジ近くに飾りたいとか言いだして、嬉しいやら恥ずかしいやらで顔が火照る。
そこへ店長が少々眉間に皺を作りながら戻ってきた。
「雅、これ見てくりょ」
オーナーが私の写真を見せると、店長は何かに気付いたらしく、ハッと顔を上げる。
「オーナー、ここは……」
「あぁそうだ。おらっちめぇの店だ。懐かしいら?」
「ええ……本当に」
ピリピリとした雰囲気を纏っていたのが、一瞬で霧散した。それどころか、微かに頬が緩んでいるかのように見えて目を疑う。
店長が、笑っ……?
見てはいけないものを見てしまい、私の胸は激しく波打った。
あの強面が笑顔を見せるなんて! これは天変地異の前触れに違いない。しかしそんな穏やかな表情が珍しく、つい店長の顔をじっと眺める。
……そうよね、初見の人は石化するほどの恐ろしい目力。私だって慣れるまでそこそこ時間がかかった。けれど、恐ろしいと思うのは長身筋肉による迫力と威圧感であり、そういうのをまるっと無視して顔の造りだけを見れば、実は、意外にも、まさかの――といっては失礼だけれど、粗削りながらも整っているのだ。そう、もし細マッチョ程度であれば、美男子と言って差し支えないほどに。
しかし、はっきりした目鼻立ちだけあって迫力が加わり、だからこその恐怖を感じ――
「実加。俺の顔に何かついているのか?」
ひゅっと息を吸い込んだ。私……、私、眺めすぎてました……!!
「おおおお鬼の霍乱だなとっ! あっ! ごめんなさい!!」
動揺したのを悟られないように、「水やりしてきます!」と一目散にその場から離れた。ドアのチリンチリンという音が、まるで警鐘のように後から追ってくる。
変だ。
店長が、じゃなくて、私が。
こんな些細なことで気持ちが乱されるのは、変だ。
乱れた心拍数が落ち着くように深呼吸を繰り返しながら、裏手に置かれたホースを持ち出し、店の植え込みに水をかけていく。
四季折々楽しめるように配置された表の植え込み、料理で使ったりする実用最優先の裏の庭。
水流をシャワーモードにロックして、乾いた土の表面に、たっぷりと水を吸わせていく。その水の音は、徐々に私の心を凪いでいった。
ツンツンと隙間から雑草が生えているのを目の端に捕らえ、ああそろそろ庭の手入れしなきゃ、と思いつつ、ぼんやりと先ほどの記憶をなぞっていた。
店長って、あんな表情もできるんだ。
その姿が脳裏に焼き付いてしまい、なかなか調子が戻せない。なんか、もう、反則だよ!
とはいえ、いつもの手順だから、上の空だろうが体にちゃんとしみ込んでいる。一通り水やりを終えた私は、ホースをしまうと、玄関前に置かれたイチゴの鉢植えの前にしゃがみこんだ。
オーナーにもらったイチゴ。来年になったら真っ赤な実をつけてくれることを願い、大事に大事に育てている。
そのイチゴに、話しかけた。
「そうよね、私はこの店で働けただけで幸せ者なの。だから……」
その先は、心の中で呟く。
そして、ふぅーっと肺にある空気をすべて出し切ってから、大きく息を吸って「よし!」と気合を入れて立ち上がった。
何はともあれ、仕事がんばろ!




