不穏なざわめき
ふふーん、ふっふふーん。
鼻歌交じりにお店のアプローチを歩く。扉の脇にある、オーナーからもらったイチゴの鉢に「おはよっ」と声をかけて、ちょいちょいと指先で葉を揺らす。
昨夜出張から帰ってきたばかりの父親に質問攻めした結果、やはりあの写真のお店はOCEAN BERRYに間違いなく、場所も松崎と一致した。
といっても訪れたのは一度だけで、両親とも美味しかったことだけは覚えていて、詳しい場所や店の人の顔までは記憶に残っていなかったらしい。
その当時、私は六歳。大好物のイチゴを食べてご機嫌だったので、記念に店の前で写真を撮ったということだ。
私が覚えていないのは仕方がないけれど、味の記憶が私を当時に引き戻したからこそ、OCEAN BERRYへの道が開けたというもの。こうまでしてこの店に惹かれたという由来が分かって、とてもすっきりした気分だ。胃袋の記憶というあまり美談にできないせつなさはあるものの、運命のような出会いに胸の奥がじんわりと熱くなった。
店の中から話し声が聞こえる。もしかしたら、お客様か業者の人が来ているのかもしれない。納品など業者の人だったら裏口から入るはずだから……やっぱりお客様かな?
結婚式用の特別注文など、営業中ではない時に直接受け付けることもあるので、特に不審には思わなかった。
着替えて、手伝うことがあるかどうか聞き、あとは……拭き掃除を終えたら外の水やりに行こう。
日光に当たるイチゴの葉っぱを、もう一度ちょいちょいと指先で撫でて立ち上がる。また後でね、と声をかけ、重厚な扉に手をかけた。ちりん、とドアベルが鳴る……と。それまでわずかに聞こえていた話し声がぴたりと止まった。
不思議に思いながらも店内に足を踏み入れると、お花畑のような、しかし人工的な香りがふわっと漂い鼻腔をくすぐる。
「っ、みか――ゴホン……寺田さん、おはよう」
「あ、店長? おはようございます!」
店長の他人行儀な挨拶に訝しみながら、そちらに顔を向けると――
「あら、お客様かしら。おはようございます」
カウンターテーブルを挟んで、店長と……まるで雑誌の撮影に来たモデルのような美しい女性が、スツールに軽く腰掛けていた。私の方へ振り向いた彼女の緩く巻かれた髪が、すっと伸びた背筋に流れる。柔らかく微笑みを浮かべるその姿は、美人といって差支えないどころか、まさにこのような人の為にある言葉だと断言できるほど綺麗な女性だった。
思わず見とれて、ほぅ、と溜息を吐いていると、チッと舌打ちするような音が微かに耳に聞こえた。
「俺の所の従業員だ。客じゃない」
女性に対し、不躾ともとれる物言いをする店長に、内心仰け反った。
ちょっと、店長? その方は一体……? っていうか、いまの舌打ちはまさか店長がしたの?
一体どういうことなのか事態が呑み込めず、交互に二人を見ていると、コロコロと鈴が鳴るような声で笑いながら、美女が私に話しかけてきた。
「ごめんなさいね、この店、彼だけだと思っていたから」
スツールから降りると、床に当たるピンヒールの、コン、という音がやけに響いた。
「初めまして。私、静岡市を中心としたタウン誌の編集をやっている三堂です」
流れるような仕草で私にお辞儀をする。その瞬間、ふわっと花の優雅な香りが鼻孔をくすぐった。さっき店に入ったとき香ったのは、この人の香水だったのか。戸惑いながらも、自己紹介、自己紹介、とあたふたしながら頭を下げる。
「あ、あのっ、初めまして! 私は寺田実――」
「ねえ長谷川君。さっきの話お願いできないかしら?」
……あれ? まだ挨拶していたのになあ……
もやっとしながらも頭を上げると、とっくに美女――三堂さんは店長に向かい合っていた。どうやら、三堂さんは店長に何か頼むためにやってきたようだけど……
戸惑いながらもこっそり様子をうかがっていると、三堂さんはカウンターに置かれた冊子を手に取り、コンコンとヒールの硬い音を立てながら、カウンターの向こうにいる店長へ詰め寄った。
「うちの編集部にもね、結構情報が来るのよ。サイトの口コミ件数もかなりのものだし、宣伝にもなると――」
「断る」
「ねえお願いよ。一回だけでいいから……ね?」
「断る、と言っているんだ」
にべもなく断られているというのに、三堂さんは諦めない。あの手この手でくい下がっていく姿は、まさに編集記者の鏡と言うべきか。
ま、それでも断られているんだけど。
なんとなく二人の邪魔をしてはいけない気がして、私は仕事に取り掛かることにする。今日は卵と備品の納品がある日だから……と、頭の中で段取りを考えながら厨房に入り、小上がりの和室にある押入れを開けて、エプロンを取り出す。キュッと紐を締めて、シャワー室の横にある全身鏡で確認し、今日も頑張るぞ! と気合を込めて深呼吸をした。
まずは洗濯をしなくては。厨房に纏めておいた使用済みの布巾の山をかごに入れ、他にもいくつか洗濯するものをポイポイとかごに入れた後、バックヤードにある洗濯機に放り込みスイッチオン。ほかにも、製氷機のチェックや、今日発注する生鮮品の在庫を確認するなど、細々したものが沢山仕事がある。
客席にある窓を磨くため、掃除道具のバケツとスクイジを持って調理場から出ると、まだ三堂さんは店長に纏わりついていた……じゃなくて、頼み込んでいた。
まぁ熱心だなあとぼんやり横目で見ながら、私はこの店で一番大好きで毎日穴が開くほど見つめている窓に取り掛かった。ぴっかぴかに磨くと、ガラスを挟んでいる気がしないほどクリアになり、景色が好きだからこそ注意を払って丁寧に仕上げていく。
その間も、会話の九割以上三堂さんの声によるものが続いていた。
勝手に耳に入る言葉を繋ぎ合わせてみると、どうやらこういう事らしい。
――最近口コミで評判のいいこの店を、紙面で取り上げたい。他には取材を受けていないようだし、初の情報を是非我が社に使わせて欲しい。
要するに、この店を取材して雑誌に載せたいという事かな。
……だから店長は嫌がっていたのね。
そもそも店長は愛想が苦手だ。いまでこそ客の方が慣れて接客も怖がられなくなったけれど、それは常連だからこそ、だ。やはり今でも一見さんには怖がられるし、私もこっそり『あの人ヤバい人ですか? 大丈夫ですか?』なんて耳打ちされたことさえある。
大丈夫ですかって……ねぇ。
いまでこそ笑い話のようなものだけど、店長一人で切り盛りしていた頃は、本当に客がこない閑古鳥の鳴いている店だったから、やはり見た目は大事だと確信している。
テーブルも床もピカピカに磨き、トイレ掃除も終えた。そろそろトイレットペーパーの補充が必要だなと心の中でメモをして掃除用具入れを閉じると、まだ三堂さんの声が聞こえてきた。
私は別に聞く気はないけれど、耳に入ってくるものはしょうがない。
「――せっかくのチャンスなのに」
いつまでたっても帰らないし、店長がやらなければならない仕込みが遅くなる。かといって私が追い出すわけにもいかず……それに、二人の関係が気にならないと言えば嘘になる。
既知の関係らしいけれど、もう少し近い空気を感じてしまい、心の中に何か重いものがのしかかる。
カウンターテーブルから死角になる所で、壁に背をついてこっそり様子を伺った。
――「俺はこのままでいい」
――「馬鹿ね、このままじゃあなた埋もれる一方よ」
――「余計な事をするな」
――「……ほんと昔から頑固ね。年取って丸くなったかと思ったのに」
――「煩い。帰れ」
昔から?
どき、と胸が大きく鳴った。
取り付く島のない店長に、三堂さんがまだ何か言っているようだけど、私の耳にはもう入ってこなかった。
出勤してきて店のドアを開けた時の、二人の距離感……空気。
私が知らない、店長の過去を知る人。
どういうわけか、胸の奥が締め付けられるように痛かった。この一年、店長の人となりは知ることができたけれど、どこで生まれ、どこで育ち、どうしてここにいるのか、なんとなく聞けずじまいだった。そして同時に、過去を知る三堂さんは私の知らない店長をよくご存じで――
そこへ、チリン、と鳴るベルの澄んだ音が、私を現実に引き戻す。
「おぉい雅、看板出てないけぇが」
「すみません、今出します」
助かったとばかりに、店長は三堂さんの傍をすり抜けて、店の外へそそくさと出て行く。三堂さんはその背中を目でしばらく追い、姿が見えなくなると、やれやれと胸前に垂れた巻き髪を流れるようなしぐさで背に払った。そして、ふっと小さくため息を吐くと、私を一瞥し、颯爽と店を出ていく。
まるで苛立ちを代弁するかのように、コツコツとピンヒールの音が聞こえ、それがいつまでも私の耳に残った。
次話はまたちょっと先になります。
ゆったり更新すぎてごめんなさい!




