表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/2

第1話 紅い月の夜

舞台は東京へ。

いつもと変わらない、九月の夜。

駅前の交番、コンビニ、公園を行き交う人々。

まだ誰も、この夜が「いつも通り」には終わらないことを知りません。

午後九時十二分。

石神井公園駅前。

仕事帰りの人々が改札から流れ出る。

バス停には列ができ、コンビニからは温かい弁当を手にした会社員が出てくる。

学生たちは笑いながら駅前広場を横切り、犬を散歩させる老夫婦が公園へ向かって歩いていく。

何も変わらない東京の夜。


駅前交番では、佐藤巡査部長が放置自転車を見つめていた。

「鈴木」

「はい」

「そこじゃない。点字ブロックを空けろ」

「はいはい」

口では返事をしながらも、鈴木巡査は笑っている。

「返事だけは一人前だ」

「部長も口だけですよ」

「言うようになったな」

交番の前を、一人の青年が自転車を押して通りかかった。

柔らかな笑顔。


どこにでもいそうな会社員。

洋だった。

「こんばんは」

「おう、洋さん。今日は遅番か?」

「ええ。棚卸しが長引きまして」

佐藤が軽く手を上げる。

「今日は遅かったですね」

「少し寄り道をしていました」

「気を付けて」

「ありがとうございます」

洋が自転車へまたがる。

交番へ軽く会釈する。

その時。

ほんの一瞬だけ、

公園の方向を見る。

何もない。

それでも。

「……」

すぐ笑って首を振る。

「じゃ、お先に失礼します」

そのまま自転車で走り去る。

この町の夜が、あと数分で失われることを知る者はいなかった。


同じ頃。

石神井公園。

繁は池のベンチへ腰掛け、スマートフォンを見つめていた。

画面には、自分で書いたプログラム。

思いどおりに動かない。

一行直す。

動く。

また止まる。

「違うか」

繁は苦笑した。

原因は必ずある。

その原因を探す時間が、案外好きだった。


公園には、まだ人がいる。

ジョギングをする男性。

犬を散歩させる女性。

ベンチで語り合う学生たち。

いつもと変わらない夜。

その時だった。

ブンッ。

スマートフォンが強く震えた。

「ん?」

通知ではない。

画面が突然真っ黒になった。

「え?」

電源を押す。

反応しない。

長押し。

やはり動かない。

「壊れた?」

その瞬間だった。


風が止んだ。

虫の声が消える。

池の水音も。

駅前から聞こえていた車の音さえ。

世界から音だけが消えた。

繁はゆっくり顔を上げる。

ほんの一瞬。

本当に一瞬だけ。

世界全体が息を止めたようだった。

次の瞬間。

夜が戻る。

風が吹く。

池の鳥たちが一斉に飛び立った。


「何だ……今の」

スマートフォンが一瞬だけ白く光る。

画面いっぱいに細い線。

まるで枝分かれする木の根。

あるいは電子回路。

その一部だけが黒く濁っていた。

繁が見つめる。

消えた。

何も残っていない。

電源だけが戻る。

通信だけが圏外になっていた。

「変なの……」

繁はゆっくり歩き始めた。


同時刻。

東京都千代田区。

闇の深い一角。

何かが、ゆっくりと目を開く。

『……ん?』

静寂。

『何か起きたな』

……

また静寂。


青葉家道場。

巌は木刀を納めようとして、ふと手を止めた。

床板が低く鳴る。

ミシッ……

音ではない。

足裏へ伝わる違和感。

地脈。

長く穏やかだった流れが、ゆっくりと乱れている。


巌は庭へ出た。

夜空を見上げる。

紅い月。

老人の目が細くなる。

「赤い月……」

沈黙。

「ついに……」

その続きを口にはしなかった。

まだ確信ではない。

だが、青葉流に伝わる口伝が、静かに脳裏をよぎっていた。


交番。

固定電話が一度だけ鳴る。

ジリッ。

佐藤が受話器を取る。

無音。

切れている。

「いたずらか」

受話器を戻す。

その隣で、蛍光灯が一度だけ明滅した。

パッ。

元へ戻る。

「今日は変な夜ですね」

鈴木が笑う。

「そういう日は事故が多い」

佐藤は交番の外を見た。

理由はない。

ただ、胸騒ぎだけが残っていた。


繁は駅前へ戻ってきた。

人通りはまだ多い。

スマートフォンを見る。

通信は戻らない。

もう一度診断プログラムを開こうとする。

その時。

ふと、公園を振り返った。

夜の闇。

その奥が。

ほんの少しだけ、深く見えた。

「気のせい……だよな」

繁は歩き出す。

まだ。

何も始まっていない。

誰もそう思っていた。


そして。

石神井公園中央。

黒い霧の中で。

小さな緑色の腕が、

ゆっくりと地上へ伸びた。

お読みいただき、ありがとうございます。

紅い月の下、いつもの夜が少しずつ変わり始めました。

次話、石神井公園で異変が姿を現します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ