序章 百鬼夜行の出口
初めての投稿になります。
現代の東京を舞台にした、少し変わった現代ファンタジーです。
物語は、まだ東京ではない場所から始まります。
どうぞお付き合いください。
石造りの回廊を、濁流が駆け上がっていた。
水ではない。
生き物の群れだった。
半透明の身体を震わせながら、スライムが岩床を跳ねる。
その間を縫うように、ゴブリンたちが走っていた。
背丈は人間の子供ほど。
緑色の皮膚。
尖った耳。
手には錆びた短剣や粗末な棍棒を握っている。
だが、どの個体も武器を振るおうとはしなかった。
後ろから追ってくるものを少しでも遠ざけるため、前方の仲間を押し退け、ただ上層を目指していた。
「ギャアッ!」
一匹のゴブリンが足を滑らせた。
倒れた身体の上を、後続の群れが容赦なく踏み越えていく。
助ける者はいない。
立ち止まれば、次に踏み潰されるのは自分だった。
やがて、骨の擦れ合う乾いた音が近づいてきた。
スケルトンの群れ。
腐敗した肉を引きずるゾンビたちも続いている。
本来、第一階層付近を縄張りとするスライムやゴブリン。
その下層に棲むスケルトンとゾンビ。
互いに争うはずの魔物たちが、今は同じ方向へ逃げていた。
さらに後方から、獣の遠吠えに似た声が響く。
犬に似た頭部を持つコボルトたちが、四肢を使うような低い姿勢で疾走している。
その頭上では、人間の胴体ほどもある巨大蝙蝠が翼を打ち鳴らしていた。
翼膜が岩壁をかすめ、砂塵が舞う。
階層の秩序は完全に崩れていた。
魔物たちは互いを敵として見ていない。
ただ一つの恐怖から逃げる、同じ獲物になっていた。
通路が大きく揺れた。
天井から小石が降り注ぐ。
群れの最後尾から、低い咆哮が上がった。
オークだった。
二メートルを超える巨体。
分厚い筋肉。
人間の頭ほどもある棍棒。
本来なら、ゴブリンなど食料か奴隷にしか見ない魔物である。
そのオークでさえ、顔を歪め、前方の小さな魔物を蹴散らしながら逃げていた。
その隣を、巨大蜘蛛が八本の脚で岩壁まで使いながら駆け抜ける。
獲物を捕らえるはずの糸は、背後へ無秩序に引きずられていた。
誰も戦おうとはしなかった。
戦えないのではない。
一度は戦ったのだ。
そして、勝てないと知った。
回廊の脇には、その結果が残されていた。
スライムは核ごと押し潰されている。
ゴブリンの身体は岩壁へめり込み、手足の向きすら分からない。
スケルトンは粉々に砕け、散らばった骨の一片一片に黒い焼け跡が残っていた。
巨大蝙蝠は翼を引き裂かれ、天井から垂れ下がっている。
オークの一体は、胴を深く抉られたまま壁にもたれかかり、濁った目を見開いて絶命していた。
刃物による傷ではない。
牙でも爪でもない。
炎や雷とも違う。
巨大な力で壊されたようにも見える。
だが、ただ力任せに叩き潰されたのではなかった。
何かに触れられた部分だけが、生命ごと奪われたように崩れている。
「ギ……」
一匹のゴブリンが、走りながら後ろを振り返った。
回廊の奥には、闇しかなかった。
光源となる魔石は、奥から順番に消えている。
一つ。
また一つ。
光が消えるたびに、何かが近づいてくる。
ズシン――。
地の底から響くような音。
足音なのか。
心臓の鼓動なのか。
それすら分からない。
ズシン――。
二度目の振動。
岩壁へ亀裂が走った。
ゴブリンの口から、言葉にならない悲鳴が漏れる。
「来る……」
誰が発した声なのか。
ゴブリンだったのか。
コボルトだったのか。
あるいは、魔物たちの恐怖が同じ言葉になっただけなのか。
「逃げろ!」
「門へ!」
「地上へ出ろ!」
それまで本能だけで逃げていた群れの中から、意味を持つ叫びが上がる。
前方に、淡い光が見えた。
第一階層最奥。
巨大な石造りの広間。
その中央に、古びたアーチが立っている。
どこにもつながっていないはずの石門。
門の内側には、揺らめく闇だけが満ちていた。
異界門。
本来、それは閉じているはずだった。
魔物が近づけば、見えない力に弾き返される。
仮に門を越えられたとしても、異なる世界の理に身体が耐えられず、光となって消滅する。
それが、この迷宮に定められた法則だった。
だが今夜。
石門の表面には、血管のような赤黒い亀裂が走っていた。
門の向こうに、見知らぬ夜空が見える。
先頭のスライムが迷わず飛び込んだ。
消滅しない。
淡い光をまとった身体が、そのまま門の向こうへ落ちていく。
一匹のゴブリンが続く。
光にはならない。
その姿は夜の向こうへ消えた。
一匹。
二匹。
十匹。
五十匹。
百匹。
魔物たちが我先に異界門へ殺到する。
押し合い、潰し合い、踏み越えていく。
第一階層の魔物。
第二階層の魔物。
さらに深い場所から逃げてきたものまで、区別なく地上へ流れ出していく。
出口の向こうに何があるのかは、誰も知らなかった。
そこに人間がいることも。
大きな街があることも。
彼らには関係がない。
ここに残るよりは、どこへ出てもましだった。
最後尾にいた巨大蜘蛛が門へ飛び込む。
続いて、傷だらけのオークが足を引きずりながら石門をくぐった。
広間から魔物たちの姿が消える。
残されたのは、倒れた仲間の死骸と、開いたままの異界門だけだった。
静寂。
しばらく、何も起こらなかった。
やがて。
回廊の奥で、最後の魔石が消えた。
完全な闇が広間へ流れ込む。
ズシン――。
何かが、広間へ一歩踏み入れた。
その姿は見えない。
ただ、空気が軋んだ。
濃密な瘴気が床を這い、死骸の間を抜けて異界門へ近づいていく。
門の向こう。
見知らぬ世界の空には、赤い月が浮かんでいた。
闇の中で。
二つの光が、ゆっくりと開いた。
それが眼なのかさえ、まだ誰にも分からなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
ここで起きた出来事が、遠く離れた東京の夜へとつながっていきます。
次話「紅い月の夜」から、青葉繁たちの物語が始まります。




