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革命に関する大まかな出来事

989年 5月 三層会の始まり

 エクーテ合衆国への戦費協力からくる経済状態を重く見たディール国王クワルツ六世は、王妃チュルクワーズの助言をもとに、特権階級の上層、中層民への課税を検討する。

 そのための三層会が招集されるも、議決方法自体についての議論が決着しない。

 上層民からは三百人、中層民からも三百人、下層民からは六百人が参加した。

 上層民と中層民はそれぞれの身分で結論を出し、それによる多寡で結論を出すとした。

 下層民は全体の多数決によって結論を出すべきだとし、議論は平行線となった。


989年 6月 三層会の終わり

 国王の、あまり乗り気でない挨拶のあと、モリオンが召集の理由の国庫の赤字について説明した。しかし代議員の関心は、三層会の議決方法――-身分ごとの投票か、頭数による投票か――-であった。

 下層民代表は翌日、個別身分の議院を構成する事を拒否。貴族もまた独自の議院を構成することを宣言、聖職者は意見がまとまらなかった。こうして三層会は召集されたが議決できない状態に陥った。

 採決の方法で身分間に対立が生じ、審議に入れなくなった。上層民の聖職者と、中層民の貴族は、身分ごとの投票(身分別議決法)を主張したのに対し、それでは2対1で不利になることの明らかなため、下層民の議員は、議員一人一票を主張した(議員数では上層民と中層民の合計が561名、下層民が578名であった)。

 約40日にわたって議決方法について議論したがまとまらず、ついに下層民は独自に国民の代議機関をつくるべきであると主張して国民議会を発足させた。

 この動き、つまり下層民の代表が、自らが国民の正統な代表であると自覚したのには、シュヴァルが発表した『民とは』の影響が強かった。989年6月17日、議員として参加していたシュヴァルが提案し、下層民部会は自らを「国民議会」と名のることを宣言した。

 6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王クワルツ六世に援助を求める。翌989年6月20日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局、国王が譲歩して第一と中層民の下層民への合流を勧告、三層会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。


989年 7月14日 ティミッド監獄襲撃

 クワルツ六世は国民議会の成立に対抗し、下層民の動きを封じようとして、全国から2万の軍隊をアヴァールに集めようとした。また宮廷内では、自由主義的改革を進めていたモリオンを罷免した。ただ、モリオンの罷免は、彼の提出した『国王への報告書』で国家の予算を公表したことについて、私腹を肥やしていた貴族たちが猛反発したために、半ば無理矢理罷免させられたという流れだった。王妃チュルクワーズはこれに難色を示していたが、事態を止めるまでには至らなかった。

 7月12日、それらの報せがレゾン市民に伝わると、国民議会を支持する市民が決起した。

 エーグルが演説する。

「我々に残された道はひとつ、武器を取る事だ。市民よ、貴族は陰謀を企んでいる。王は我々国民を裏切ったのだ! 私は、仲間と共に自由を勝ち取る!私は決して暴君の手に落ちない! 同じ印をつけよう。翼を模したものを身に着けよう。私は決して、地を這う虫ではないと。羽ばたくことが出来るのだと。自ら決めることが出来るのだと。さあ、武器を取れ!!」

 市民が武器を求めて町はずれの廃兵院に押し入る。約3万2000丁の小銃と20門の大砲を奪い去った市民は、その先にあるティミッド監獄に進む。

 監獄は古い時代には首都を守る要塞だったが、国が豊かになるにつれて軍の管理施設となっていた。さらには、政治犯や思想犯を投獄する、いわば王権主義を象徴する場所だった。とはいっても、囚人は七人しか収監されておらず、守備する軍人も数少なかった。最初の時点では群衆にバスティーユを襲うつもりはなく、目的はあくまでも自衛のために必要な弾薬を手に入れることであった。民衆を率いるエーグルと、監獄司令官のティグルが再三にわたって交渉をするも、当然決裂を繰り返す。業を煮やしたレザール派の市民が牢獄を襲撃し、死傷者を出すも、市民軍は武器を獲得し勢いを増す。

 司令官ティグルは捕らえられ、レゾン市庁舎に連行された。道すがら、興奮した群衆は彼を殺害しようとしたが、市民代表のエーグルが「彼にも裁判を受ける権利があるのだ」と制止し、その場はいったん収まった。しかし、市庁舎に着いたところで群衆はついに制止を振り切って司令官ティグルを殺害してその首を刎ねてしまう。3人の士官と3人の守備兵も、司令官と同じ運命を辿った。

 これを機に、命を奪うことに対する抵抗感が弱まってしまうことを危惧したエーグルは、市民らの前で自らの片目をナイフで傷つけ、「私は目が片方だけになったとしても、命の大切さを見失うことはない。あなたたちの、ふたつ揃った目には、命は感情で奪っていいものとして映るのか」と訴えた。

 これによってクー・デール派が平等を貴ぶ穏健派、ウフ・デュール派が王政廃止を目指す急進派であるという線引きが明確になった。


989年 7月末 大恐怖

 市民が牢獄を襲撃したとの報せが広まると、農民たちのあいだに、貴族が外国人部隊や浮浪者をつかって農民を襲撃するという噂が急速に広まった。恐怖に駆られた農民は武器を取って貴族(封建領主として農園を持っている地方貴族)の屋敷を襲撃し、殺害や略奪などの暴行を行った。この農民反乱は各地の農村に広がる。危機感を感じた貴族は妥協をはかることを考え、国王に国民議会の承認を求める。

 国王は市民の声を取り入れられる議会政治制度を8月にすぐ承認することを約束した。


989年 8月 議会政治制度の始まり

 国民議会はすぐに、封建的特権の廃止の宣言をはじめとする法案を編んだ。

 これによって身分制度は一応の解消に向かうが、すぐに生活を改善できる農民や市民は多くなく、もともと経済的に裕福だった地主や有力者たちと、それ以外の農民の間の不平等は残る形となった。


989年 10月 女将の行進

 議会によって定められた法案を、国王は承認しないままでいた。

 一方、この年の秋も凶作で窮乏していた市民をよそに、国王主催の宴会では食料がふんだんに出され、士官たちが国民議会の象徴である翼を模した徽章を踏みつけて遊んでいたことが市民に伝わる。これは王妃チュルクワーズは関与していないことで、先王の王妾マラキが感情的になってやったことであったが、王家の失脚をもくろむ大僧正コションによって事実として広められてしまう。

 怒りを爆発させた市民、しかも女たちが王都に行進していく。

 五千人以上の女たちが武器を持たず、ただ黙々と宮殿に向けて行進をする様に、将兵もあっけにとられた。

 宴会場となった宮殿を取り囲み、押し入った女性たちの泥だらけの姿に恐怖した国王は、国民議会の法案を即座に承認することを約束し、即日の発効となった。

 これにより国王の贅沢は市民の監視下に置かれることとなり、市内にあるデジール宮殿へと移り住んだ。それまでのアヴァール宮殿は無人となった。

 また、この出来事で一躍時の人となったシュエットに対し、ねじ曲がった嫉妬の炎を燃やすダンドンが凶行に及び、アルエが純潔を失う。クー・デールの仲間たちがダンドンを粛清する。


991年 6月 国王逃亡事件

 女将の行進によって宮殿を追いやられた国王夫婦は、宮殿を追放される。

 王家の全滅を狙う大僧正コションが、王家存続を謳って国王一家に国外逃亡を呼びかける。地派の信者の伝手を使って王妃チュルクワーズの故郷ルガルデ公国に逃がそうという話に、王夫婦は難色を示したが、子どもたちのためにと承諾する。

 コションの手筈通り、途中の関所で見破られ、国王一家は深夜のうちに捕らえられた。

 国王でありながら国を離れようとした国王に対し、議会は王権のはく奪を決定。

 国王をどうするかということについて、ウフ・デュールの面々は国王を処刑することで真の共和制を成し遂げようとする。それに対し、エーグルやクー・デールの面々は革命で目指すべきは『平等』であり、国王を市民にするだけでよいと訴える。同じく封建制度を敷くルガルデからの横槍の可能性も示唆され、処刑に踏み込まない方がよいのでは、という意見も出て、二派の争いは熾烈になっていく。


991年 7月 虐殺事件

 一方、革命で熱に浮かれた民衆は国王の処刑を望み、真の共和制を訴える急進派を支持した。ただ、これは急進派による扇動も大いに影響していた。民衆が広場での共和制実施の請願署名に集まると、半狂乱になった市民達に、市警が鎮圧に動く。市長の許可がある市警は、無警告で民衆に発砲した。それによって約50人が殺害され、さらに300人が逮捕された。

 首謀者は投獄され、急進派の集会と新聞発行は禁止された。

 国王を市内の塔に幽閉したまま、様々な議決がなされていく。


992年 4月 ルガルデ公国による干渉

 革命が広がり、自国でも暴動が起きることを危惧したルガルデ公国が「国王なくして国家なし」と牽制。隣国の混乱によって国境地帯での治安が悪化し、難民が増え、亡命が増加していると訴えた。

 ディール国内には「国王がいるからこういう外交上の不安を招く。直ちに処刑するべきだ」という声と、 「国王を処刑したら、ルガルデはすぐにでも攻め入ってくるかもしれない」という声とに分かれる。


992年 8月10日 市民の暴走

 ルガルデ軍の侵入が迫り、国王クワルツ六世は王妃チュルクワーズの知己を頼って外交的決着を図ろうと試みた。しかし、これは国王が外敵と通じて、革命側に圧力をかけようと試みていると曲解される。

 これに刺激された革命勢力は8月9日を期限として、国王廃位の請願を立法議会に提出した。その期限切れとともに、「蜂起(ほうき)のコミューン」が設けられ、レゾンの民衆や地方からの義勇兵たちはデジール宮を襲い、攻防戦ののち、これに乱入した。議会は王権を停止し、王一家はソンブル塔に幽閉された。同年9月正式に王制が廃止され、共和制の実現をみることとなる。

 デジール宮殿を襲撃するよう扇動したのはウフ・デュールのセルパンだった。彼らは市民の暴動と暴力を歓迎し、市民感情をあおって王家を排除しようと画策した。

 この際、王女ペルルに逃げるよう命じられた付き人エムロッドは、暴走する市民に紛れて逃げられるよう咄嗟に髪を切り、炭で顔を汚して、群衆の中に紛れた。そのままエムロッドは狂気と混乱を泳ぎ出て、コルボの住まいにまで逃げることに成功する。二人は、かつて一度会っていることにすぐに気づき、互いに互いを脅す形で奇妙な生活が始まる。


992年 9月 9月虐殺

 虐殺のきっかけは、8月10日事件で味を占めたセルパンの演説である。彼は「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすれば救われるだろう!」と呼びかけた。これがテロリズムへの公然たる誘導となった。

 9月2日の朝から反革命派狩りが始まり、監視委員会は全ての囚人を、人民の名において裁判することを命じた。義勇軍の編成が始まり、「殺し屋」が集められていた。

「外国軍と示し合わせるために、牢屋の中で陰謀が企まれている。『反革命の陰謀』だ。やられる前に、やれ。」こうして、その日の午後から、民衆による牢獄の襲撃が始まった。牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出された。問答無用の殺害、あるいは略式裁判のまねごとの後、虐殺。一連の虐殺行為は監獄内の「人民法廷」での即決裁判の結果を受けて有罪の判決が下された囚人は殺害し、それ以外の者は無罪放免するという極端な形で行なわれた。牢獄には反革命的とされた聖職者が収容されていた。

 虐殺は数日間続いた。王妃の身を案じて来国し、弁護を尽くそうと来国していたルガルデ公国の貴族リュシオルも、敵国のスパイとして逮捕されていたために、無残に殺された。群集は彼女を乱暴しつくした後に殺害し、遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。ある一団は、その頭を槍の先に刺して塔の前で王妃に見せつけるという示威行為をとった。

 この結果、レゾン市内の牢獄は空になった。数日間吹き荒れた暴力で犠牲になったものは、推計1100人から1400人。のちになって、犠牲者の4分の3はありふれた通常の犯罪者だったことが判明。犠牲者のうち本来殺害の対象となる反革命主義の政治犯は全体の4分の1にすぎなかった。


992年 9月20日

 トリステス地方で戦端が開かれ、エーグルの故郷レギュームに戦火が広がる。

 エーグルは周囲の制止を振り切ってかけつけるが、これを好機と見たウフ・デュールのセルパンとクラポが彼の暗殺に踏み切る。流れ弾に見せかける形で、戦場で倒れたエーグルの遺体は実家に運ばれ、両親が受け取りを拒否する。これに対し、エグ・マリンヌと名を変えたアルエが現れ、彼女の鎮魂の歌が両親の心を軟化させる。このときアルエが歌った曲は口々に広がり、革命の中でよく口ずさまれるようになる。


992年 10月

 国王に対する裁判が開始される。


992年 12月

 国王の処刑が執行される。これにより、ディールでは国王の存在そのものが罪であることとなった。

 王を失ったディールは、ディール共和国に名前を変える。


993年 7月3日

 クワルツ七世が家族と引き離され地下の部屋に移動させられた。

 王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するクラポから後見人兼教育係として命令を受けたカストーの元で過ごすことになった。クラポ、カストー、トープによる監視及び、貴族的なものを忘れ良き市民となるための再教育が行われた。

 彼らは革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込んだ。やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「断頭台にかけて殺す」とまで脅す有様であった。また、カストーはクワルツ七世を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。

 暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったという。


993年 8月2日

 王妃チュルクワーズが移送される。


993年 9月

 国王の処刑によって人心を掌握した急進派に権力が集中し、「疑わしい者たちに関する法令」が制定。

 これは、反革命容疑者法とも呼ばれ、革命の敵であると認めた、またはその疑いのあるすべての人々の逮捕を命じ、特に非従順的な元貴族、亡命者、免職または停職処分を受けた公務員、官職につきながら反逆罪の疑いのある者、および生活に必要な物資を買い占め、退蔵している者を対象とした。

政令の適用と逮捕は、司法当局ではなく、独自に組織された監督委員会に委ねられた。

この政令は容疑者が自ら無実を証明しなければならないという原理を導入し、恐怖政治の始まりだった。



993年 10月12日

 王妃チュルクワーズの裁判が開始される。


993年 10月16日

 王妃チュルクワーズの処刑が執行される。


993年 12月8日

 先王の王妾マラキが処刑される。


994年 3月

 レザールが、王妃チュルクワーズの誹謗中傷に奔走していたクラポを危険視し、調査を進める。

 脛に傷があることを確認したうえで、彼を裁判にかけ、切り捨てる形で断罪する。


994年 4月

 身内にも容赦のない姿が高く評価され、レザールが最高議長となる。


994年 6月

 レザールにより革命裁判所の審理が簡素化される。これを受けて、レザールの暴走を予見したフォコンがコルボに彼の調査を依頼。エムロッドの助言から、残されているはずの王女と王太子の所在を探ることになる。

 独裁による恐怖政治体制が完成し、レザールは意にそぐわない者を次々と処刑していく。レザール達の暗部が王女と王子であるとにらんだフォコンは動議を提出。

 これがレザール達の逆鱗に触れ、フォコンに処刑が宣告される。その隙を縫って、コルボがソンブル塔に潜入し、特に王太子の惨状を目の当たりにする。コルボは上階に幽閉されていたクワルツ七世を救い出し、駆け付けたリオンに遭遇する。リオンに王家の窮状を訴え、共にペルルを救うよう求める。二人は無事にペルルを救い出し、カフェ『クポル』に連れ出すことに成功する。

 ペルルが革命に対する恨みを語ったことで、コルボは権力におもねらない抑止力が必要だと感じる。


994年 7月

 クー・デールが議会の進行を止め、暴徒化した民衆が議場に乱入。時を同じくして、コルボとエムロッドが衰弱したクワルツ七世を議場に連れてくる。レザールは捕縛され、そのまま処刑される。クワルツ七世を虐待していた張本人であるカストーとトープも処刑される。

 感情の赴くままに処刑が実施される現状に、革命を収束させなければならないと心ある者たちが感じ始める。特にフォコンの教え子たちは倫理による市民の統制を望み、活動を始める。


994年 8月1日

 ペルルとクワルツ七世は治療を受けていたが、市民の中に、対王家の怨念が渦巻いていることを理由に、虐待の末、二人は死んだということにし、名前を変えてエクーテへ発つことを告げる。


994年 9月

 クーデターに参加した者たちは一応の罰を受けたが、特定が難しいことから有耶無耶になる。

 国が一つになるためにはリーダーが必要だと考えたグリューが、議会に選挙を提案。

 グリューの富裕層向けのマニフェストにエーグルの初志が失われていることから、シーニュが立つ。


995年 12月

 国民全員が参加する選挙が執り行われ、シーニュが圧倒的な票数で最高議長に選出される。

 オトゥーはシーニュを支えるために官僚になることを了承するが、コルボはこれを固辞。

 エムロッドとともに、市民として生活し、権力の暴走に対抗してみせると誓う。


「フランス革命を下敷きにした、壮大な物語をつくるんだ!」と意気込んで時間をかけてはみたものの、力不足でした。下敷きの上に、こねこね下地を重ねはしましたが、今の筆力では限界を感じ、一応こんな構想でしたというものを掲載して、一旦畳むことにしました。ブックマークしてくれていた、マニアックなお二方。ごめんなさい。

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