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アレ


少年は激怒した。


激怒という言葉では足らぬ


怒り狂った。


もはや何に怒っているのか


その根底が分からなくなるほど程怒り狂っていた。


動かぬ体のまま。喋れぬ体のまま。


死に近づきながら怒り狂っていた。


少年は餓鬼だ。


八つになったばかりの可哀相な子供だ。


生まれつき心臓が悪い、虚弱体質だ。


少し興奮するとすぐに発作が起こる。


喧嘩なんて出来たものじゃない。


野良猫にすら泣かされる。


それだけ弱いクセに腹を空かせば他人の物を盗み喰いする奴だから


本当にどうしようもなかった


今日、少年は負けた


完膚無きまでに叩きのめされた。


唯一だった少年の才能が泥沼に落とされた。


唯一である彼の親友によって


少年とは対極と言える良い奴だった


日がな一日泣いている餓鬼が放っておけないお人よしで、少年の女々しくも矮小な悪に憧れを抱くほどの善人ぶり


あらゆる物事に要領良く対応し、人の信頼を得るのが上手い


ケチの付け所がない良い奴だった。


そんな良い奴に文句の付けどころも無い程負かされた。


挙句、失意に打ちのめされる少年は追い打ちをかけるように殴られた。


倒れざまに放たれた一言。


「どうしてそんなにすぐに寝る」


今まで見たこともない剣幕で、今まで彼女がする姿すら想像できなかった暴力まで振るわれて少年はしばらく停止していた。


「弱いフリをすれば皆が優しくしてくれるとでも考えているのか?」


「加減しろ…痛ぇだろ」


少年は自分で何を言っているかも理解出来ていなかった。何故親友はこんなにも怒っているのかただ理解に至らず空白だった。


「何故お前が負ける」

故に何を言われているのか理解に至るのに時間が掛かった。

「……」


「何故そこまで足りない」


「そんな言い方無いだろ…頑張ってんだよ」


「お前は才能があって努力もしていただろう」


「…そうなのかな…分かんねぇ…」


「どうしてそんなに弱い」


「…弱いんだよ…」


頬が痛い、思ったより強く強く殴られたようだ。


痛みが理解に変わる。


殴られた。


少年は悪人だった、初めてのことではなかった。


ただ心を許していた相手からの暴力がこうも心を抉るものだとは知らなかった。


じんわりと目元が熱くなる。


「泣くな」


親友は許してくれなかった。泣きそうな自分の胸ぐらを掴んで再び思いっきり殴ったのだ。


「泣いたらどうなる、何が良くなる」


我慢できない怒りを露わにする。


「軽蔑と侮蔑を受けるだけ、どうして泣く」


胸倉を掴まれたまま詰め寄られる。


「いい加減にしろ」


整った顔立ちが怒りに染まっている。


優しかった顔が、好きだった顔が今は畏怖の対象でしかない。


「泣くくらいなら怒れ、怒り狂え」


言われたことの意味も分からない。


一刻も早くこの場から解放されたいという願ったこともない感情でいっぱいいっぱいだった。


少年はことごとく弱いのだ。


そんな様子を察してか親友は苛立たしげに手を離す。


倒れる少年を見下して。


「強くなってよ」


去っていった。


安心した。


安心してしまった。


親友に殴られた頬が痛い。


だがそれ以上に痛い


何より自分が情けない


親友は自分とはまるで違う善人だ。


自分が憎くてこんなことをした訳ではない。


自分の弱さが悪い。


そんなことは自分が一番良く分かっている。


それほどに良い親友を"早く消えて欲しい"とすら願い


消えたことに安心してしまう自分が何より情けない。


何故こんなにも弱いのだろう。


弱すぎる。


目の前の青空が滲む


こんな時でも空は晴れやかに晴れてやがる


「糞が」


なんという弱虫精神。


相手が消えてから怒りが湧き上がる。


「糞、ゴミみてぇだ、クズみてぇだ」


自分に対する怒りが


「虫けらみてぇだ、死のうかな」


「死ねばいい」


「糞が」


弱虫の大口が対峙する空に虚しく消える


情けない泣き顔を揉みくちゃに歪めて一人


空に向かってただひたすら悪態をついていた。


親友に言われた言葉が反芻していた。


世界は冷たく、無慈悲で、少年のことなど気にもかけない。


気持ちが弱って弱ってしょうがない


こうやっていつも泣いていた。


慣れ親しんだ感情だ。


こうすると皆加減してくれる。


そう理解しつつも、解っていながら


またここに逃げている。


他人から見れば腹立たしいことこの上ないのだろう。


「俺だって好きでやってる訳じゃない」


怒れと言われて怒るやつがいるのか。と分かりつつも沸々と熱いものが込み上げてきた。


心地も気分も悪い感情だ。


誰が好きでこんな思いをしなけりゃならんのか。


そう思うと更に怒りが込み上がる。


「巫山戯てやがる」


体が熱く頭は更に熱くなる。


熱量に任せて地面を叩いた。鈍い音。


両手が痺れるように痛い。


痛い。


苛ついた。


地面を叩いた。もっと強く。もっと怒りを込めて。


鈍い音。少し大きい。


痛い。さっきよりずっとずっと痛い。


ズキッ


それ以上の痛みが心臓を襲う。


まばらな脈が激痛を幾度も巻き起こす。


反射的に体が丸まる。


生まれ持った虚弱な心臓が痙攣する。


興奮するなと脅してくる。


何度経験しても慣れることのない痛みを突きつけて。


折れるしかない。


逆らえば死ぬ。


昂ぶっていた怒りが生存本能に負ける。


冷静な思考が懐の呼吸器を取り出す。


興奮が収まる科学の力。


そして制約する力。


この為にどれだけ人生が制約されたか。


走ること、泳ぐこと、気に入らない奴を殴ることも、大声で歌い笑うことも、何もできなかった。


皆がしていた殆どが出来ず、劣らされていた。


口元まで持ってきた呼吸器。見飽きた形状と用途。


自分を幾度も救ってくれたはずのモノ。


この時だけは異常なまでに憎たらしく見えた。


不整脈。


脈と共に襲う激痛。


一瞬想像した。


この呼吸器を使えば、生き永らえるだろう。


怒りと共に痛みも収まって、全てが静かに戻る。


元のままに戻るだろう。


今後こんなことが無いよう。


怒らないようにしよう、などというくだらない教訓とともに。


今熱く燃えたぎるような怒りも危険因子の一つとして流されていく。


そうしてこれからも生きていく。


死ね


殺す


頭が火を吹いたように熱くなった。


自分は何をしようとしているのだ。


俺は怒っている。


怒り狂っている。


理由はどうでもいい。


俺は不条理だと感じ、表現している。


それをまるでどうでもいいことみたいに流している。 


それをしているのが他の誰でもない自分だという事実が何より癪に触った。


体が勝手に動き出した。


呼吸器を握り締め


大きく振りかぶって


叩きつけた。


割れる。


思ったより簡単に、原型を残さず、機能が全て損なわれ砕け散る呼吸器。


瞬間、凄まじい激痛。


体が痙攣して倒れる。


今まで感じたことのない冷たい痛み。


興奮する体に心臓がついていけなくなった。


ガチの痛み


取り返しのつかない痛み。


壊れた。


より現実的な死を想起する。


死ぬ


確信に近かった。


後悔しない訳が無い。


何のために呼吸器を壊したのか自分ですら解っていない。


理不尽な状況に耐えられず起こした奇行。


だが、代わりに少年は怒りを手にした。


怒り狂った形相のまま独り語散る。


「死ね」


心臓が止まった。


血液の循環が止まる。


体中の臓器が活動を停止する。


瞳の瞳孔が開き、唇が青紫色に変色する。


体中が死に陥っていく。


その様子を少年は異常なまでの脱力感と共に感じていた。


……


生きているのか死んでいるのか曖昧な状態で意識を保っていた。


目の前に映る景色。自分自身が見ているはずの視界がまるで映像でも見ているかのように感じた。


空は相変わらず世界を祝福するかのように晴れ渡っている。


まるで神様が舞い降りたかのように


雲がゆっくりと流れていく。


ゆっくり冷えていく内臓。


静かで長閑な時間。


命の鼓動すら止まった静寂の中


動けぬまま


喋れぬまま


死に近づきながら


やはり少年は怒り狂っていた。


何に怒っているのか分からなくなるほど。


どれだけ時間が経とうと収まるとは思えなかった。


どれだけ経とうと。


細胞が滞り、骨が腐り始め、内臓から炭酸ガスが発生し四肢が腫れたように膨らむ。


それでもなお少年は意識を保ち怒り狂っていた。


その顔には見るに耐えない赤黒い斑点が浮き上がっていた。


死後硬直が解けていく。


朧な意識が明暗を繰り返す。


最後に何か良く分からない女の死に様が見えた。


やがて途切れた。


終焉。


少年は終わった。


脳死。


既に死臭が漂いはじめ、羽虫や蛆が引き寄せられている。


少年の皮膚を食い破り、その芳醇な栄養を元に増殖と繁栄を興そうと跋扈し始める。


ここまでは何の不思議もない、不思議なことが起きたのはその後だった。


バチィッ


少年の心臓が再び動き出した。


神の救いだの、奇跡の力だの、そんなくだらない何かが起こって。


少年の体は再び機能し始めた。


鞭を打ったような劈く鼓動音と共に脈が速まり血が循環する。


肌の色が紫から肌色、赤へと変わる。


冷え切った体が一瞬で沸騰する。


心臓に掛かる負担と痛みが溶けるほどの高温。


頬に浮き上がっていた赤黒い斑点は女神を象った模様へと変貌していた。


バチィッ


心臓の鼓動に無理やり立ち上がらされるように。



少年は立ち上がった。


息も荒く、焦点の合わない目は真っ赤に染まっていた。


バチィッ


耳を劈く鞭のような鼓動音が続く。


正常から遙か彼方に外れた少年が一人語る。


「ぶっ殺してやる」


神の救いも奇跡の力も少年の身に襲い掛かるのはこれからだった。








vs正義


「どうなってんだろうなぁ…」


スーツ姿の男が疑問符を浮かべる。


男の目の前広がっているのはただのつまらない地獄絵図だ。


ありきたりな学校の教室で、ありきたりな子供達だった物の成れの果てがあるだけだ。


血みどろ肉塊に骨とかいう、何も珍しい物は無い。


子供が殺傷能力を持つこともある今日の世界ではありふれた光景であった。


過ぎた力を得た人間のすることは大人も子供も変わらない。


むしろ


「まだ、子供のすることの方が素直で可愛い気があるもんだが…」


男からすれば見飽きた光景だった。


「それにしても…これはどういうことだろうなぁ…」


しかし男はその光景を前に不思議がってしょうがない。


引き抜かれた背骨、零れ落ちた腸、弾け飛んだ脳漿。


悍しい量の血に揺蕩う僅かな肉片を含めた全てを興味深く見ていた。


「…悍しいな…生きているのか…」


酷たらしく破壊された肉塊がそれでもなお途絶えず蠢いていたのだ。


それらを踏み躙りながら歩み近づく。


怒り狂い自我を失ったかのような少年に。


「…なんだこれは?お前がやったのか?」


男が顎に手を当てながら伺うように聞く。


「カッとなってやったか?よくある、その頬の入墨でも馬鹿にされたか」


少年は息も荒く正常からかけ離れていた。


男が顎に手を当てて思い起こすように呟く。


「朦霧猛くん8歳、補導歴は5回、父親はヤクザ、母親は行方不明、心臓病持ちの虚弱体質、反社会的勢力に関しているが故に幾度か病院から受け入れを拒否され入退院を繰り返す…と、なるほど良く出来てる、まさに可哀想な子供って感じだ、過ぎた力を手にした弱者そのものだな、そのクセ殺さずを貫くのは未だ自分は悪に堕ちてはいないと言い訳出来るからか?勘違いも甚だしいな」


バチィッと心臓が鼓動する。


「喧しい!」


少年が叫び黙らせるように男に襲いかかった。


振りかぶった拳が男の顔面目掛けて直線を描き


そのまま空を切った。


ブンッと大きな音が男の耳元を掠める。


「おいおい、なんだそれはタケルくん」


スーツ姿の男が勢いそのまま飛んでった少年を振り返る。その表情は飄々と嗤っている。


少年が殴った手を抑えた。


その拳は指という指が折れ曲がり骨が飛び出していた。


「握り方からしてなっちゃいない、まるで今日初めて暴力を振るったみたいな…」


男が顎に手を当てたまま品定めをするように少年をジロりと見る。


「人も殺せねぇ甘ちゃんが、暴力が何たるかを教えてやるよ」


壊された拳。


痛みを感じる余裕もないかのように、少年はただ怒りに任せて襲いかかった。

出鼻を挫かれた。

顔面に強烈な肘を刺される。

続けざまの3連打。

裏拳、掌底、握拳が顔面の中心を打ちのめす。

血の味、赤く光る視界。

よろける少年の腕を掴んで引き寄せ肘。

鼻血が噴き出る。

齢8歳の小さな顔面がすっ飛ぶ。しかし男が離れることを許さない。

華奢な腕が軋み、すぐさま男の元へ引き寄せられる。

渾身の右拳が顔面に捻じ込まれる。

凄まじい斥力だろうと握られた腕が吹っ飛ぶのを許さない。

強烈に引き寄せられる拍子に肩が外れる。

繰り返されるピストン運動。

足元がおぼつかず倒れそうになれば、サッカー少年が下校中に持ち歩く紐で縛られたサッカーボールをそうするように蹴り上げられる。

容易に宙に浮く少年の身体。

蹴り上げられた踵が斧のように振り下ろされ地面に叩きつけられる。

頭部が地中に埋まる、眼や鼻に土が捻じ込まれる。

それで終わるはずがない。

まだ引き挙げられる。

眼に入った土で周囲が見えないまま、少年の軽く華奢な体が男の間合いに入る。

ゴッ

殴られる。

殴り続けられる。

肉が弾け、肌が破けようと

涙と鼻血が溢れ顔中を埋め尽くそうと

肩が脱臼し外れようと

握られ、壊れた拳が凄惨な音をたてようと

男は構わず殴り続ける。

少年の血で染まる周辺。

繰り返し繰り返し殴られる。

肉や歯、骨も辺りに散らされる。

一撃一撃が世界を断裂させていく。

一撃一撃が少年の理を変えていく。

ねじ込まれる拳骨の感触と激痛の中少年は理解する。

手とは腕とはこのためにあるのだと。

人間が生きていくうえで必要不可欠な手腕。

友好の握手。日常生活での雑務。そんなものは全て嘘っぱちで。

手とは。

無情な大人の拳で殴られる。

このためにあるのだ。

正義の拳で殴られる。

握り締める。

今までの自分の誤認を戒めるように。

殴られる。

世界の理に従うように

握り締める。

自分の拳が壊すつもりで

握り締めた。

脱臼した腕を引き寄せられる。

「   」

声にならない叫び。

腕が今まで感じたこともないような力のうねりを纏う。

自分の腕が自分のモノではないかのように錯覚する程、綺麗な直線を結んで男の顔面を直撃した。

凄まじい手応え、快感すら抱く程の達成感と共に少年は"生まれて初めて"暴力を振るった。

男の顔面が先ほどの少年と同じ様にすっ飛ぶ。

握っていた少年の腕を簡単に手放し、呆気も無く離れていった。

それこそが暴力だった。

世界が劇的に変わる。

少年は愚かだった。

今更になって自分が暴力を使う側だと理解した。

されるがままの弱虫であり続ける必要はない。

すっ飛んで倒れるかと思われた男は空中で姿勢を立て直し、まるで何でもないかのように着地した。

何でもない訳も無い顔面で宣う。

「こんのクソ餓鬼ァ…!」

暴力の何たるかを教えた張本人は怒りに青筋立てて殺気を放つだけ。

誰も褒めてなんかくれない。

少年は既に理解してはじめていた。

手とは、腕とは

握り締める。

原始的にはこのためにある。

今までずっと誤魔化されていた。

暴力は悪いものだと洗脳されていた。

そのほうが都合が良いのだろう。

自分以外の誰かの手が暴力を得ようと自分は得をしない。

当然のことだ。

むしろ厄介極まりない。

可能なら阻止したい事柄だ。

そのために、人はこんなに大事で重要な"生きる術"を"悪"に堕とした。

そうすればより易く人を支配できるからだ。

自身も長くその支配の枠に収まっていた。

なんともまぁ殊勝な心掛けだ

糞で例えるなら最強クラスだ。

少年の心臓が鞭うった。

バチィッ

怒りに震える少年が力を拳に込めた。

先ほどとは比較にならない力。

骨がネジ曲がり、血管が浮き出て、激流の血液が皮膚を貫通する。

少年の筋繊維がプチプチと音を立てて壊れる。

少年の頬の刺青が淡く光った瞬間。

「雑魚が一丁前に切れてんじゃねぇ」

既に男が目の前にいた。

大きく振りかぶり少年と同様怒りに拳を震わせていた。

それ以上に怒り狂う少年がその怒りを喰らうように襲い掛かった。






破壊跡の瓦礫、流血と肉塊の中心。

男が少年をふん捕まえて、抑え込んでいた。

少年は誰のかもしれない血と肉と土の味を味わっていた。

「今まで何人も殺してきたが…人をここまで殺したいと思ったのは初めてだ」

---お前を殺したい。

「お前の死に際どんな顔をするか想像しただけで堪らない」

---お前を殺したい

「腹を切ってモツを引きずり出してやろうか、溺死させてやろうか、もういっそド頭をぶち抜いてやろうか」

少年は何も言わず静寂。

「随分手こずらせやがって、初めは手を抜いてたって訳か?随分ふてぇ野郎じゃねぇか?あ?俺を舐めてたのか?あ?」

片手を背に自由を奪われ地面に抑えつけられたまま動かない。

「なんだよだんまりか?何か言えよ、お前はこういう時どんな顔してなんて言うんだ?」

胸元から引き抜いたナイフが少年の首元を走る。

---頸動脈…

少年の脳裏に単語が一つ浮かび

噴水のように血が吹き出す。

もはや見慣れた出血。

しかし、少年からしたらそれどころではない。

出血を抑えようと首元に手を伸ばし

「そら」

その腕を折られた。

男の得意げな顔の前で子供の小さな腕が曲がってはいけない方向へ折れ曲がる。

「っ…!」

少年が痛みに耐えかねるように悶えた。

ように見えた。

瞬間

折れた腕が怒りに震える。

鳴ってはいけない音を鳴らしながら曲がってはいけない方向へネジ曲がり男の首元を掴んだ。

「屑が」

一言吐き捨て、腕がどうなるかなど一切構わず振る。

男の頭蓋が凄まじい遠心力に晒され、鈍い音をたてて地面に激突した。

脳震盪を起こしたか一瞬動きが淀む。

その隙を逃すまいと壊れていない左手が男の頭蓋を鷲掴む、万力に掛けられたかのような激痛。

文字通り頭骨が歪み、凄まじい力で投げられた。

頭部がここまで高速で動くことを今まで経験したことは無い。

世界が断裂したかのような衝撃。

先程より強く、重く、乱雑に叩きつける。

男の頬骨と鼻が折れる。顔中のいたるところから血が垂れる。今日一番の無様顔だ。

「いい大人がガキみたいに殺す殺す言ってんじゃねぇよ、殺すぞ」

折れ曲がった腕を無理やり真っすぐに戻し宣う餓鬼。

首元の出血は収まっていた。

「餓鬼が…舐めやがって」

少年が再度叩きつけんと振りかぶる。

男もやられてばかりではいない、小さな肩に肘を差し込む。

グリョっと嫌な音を立てて少年の肩が砕けた。粉砕骨折。

一瞬の自由。しかしすぐに終わった。

---コイツ…

楔は外れてはいなかった。

少年は怒りの形相のまま男の頭蓋を決して離すまいと壊れた腕に力を込めていた。

肩が込められた力で更に壊れていく。

しかし、怒りに廻る眼は男だけを見ている。

何がそこまでさせるのか。

頭蓋が軋む、脳を揺れる。言葉通りに

どこにそんな力があったのか、壊れた腕によるものと思えない力で地面に叩きつけられた。 

遠のく意識で想う。

---これは…寝る…その間に…殺される…だろうな







「課長」

「…ッシュッ!!」

「あぶなっ」

気が付くと右手を片手で受け止める黄泉軍が見えた。

「避けなかったらやばかったですよ寝ぼけてんですか、課長」

部下が呆れている。苛立ちより先に脱力してしまった。

「…」

「なんですか、マジの寝ボスケですかこのパワハラ糞…」

「調子乗んな前歯飛ばすぞ」

「なぁんだちゃんと起きてるじゃないですか、期待させないでくださいよ」

「口を閉じてろ、次見えた歯が消えると思え」

「…」

礼儀も知らん部下はしょうがなさそうに口を閉じた。

「はぁ…記憶を持ったまま生まれ変わったり…別世界に移転する訳でもなく、糞みてぇな部下がいて俺に仕事をさせようとしてるってことは、どうやら生きているようだ」

頭がズキズキと痛む。

「あのクソガキ…」

苛立ちと共に吐き捨てた。

砕けた歯だった欠片が血に塗れて転がる。

「舐めやがって…その甘さ後悔させてやる」

「手心を加えられたんですか?」

突然雄弁に語りだす部下。

ガードするかのように口元に手を当てて。にやけ面を隠しているようで癪に触る。

いや、隠してんだろ

「口以上に顔が語ってくれてますけど、死にかけてましたよね甘く見るからですよ、良かったですね?相手が良心ある子供で」

ここぞとばかりにまくし立てる。

「うるせぇなぁ、餓鬼は何処行った!?」

「聞きたいのはこっちですよ、知らないんですか?何やってるんですか全く、早いとこ他の課に聞いてください」

吐き捨ててトランシーバを捨てる。まるで上司への対応を分かっちゃいない。

舌打ちしてシーバを口元に寄せ、怒鳴り散らす。

「刑事部捜査第零課所属の金堂だッ!被疑者の異能力者…とにかく餓鬼の所在を逐一報告しろッ!」





捜査第零課

通称黙殺課

異能力者、妖怪、怪異が深く関わり対処が困難とされる犯罪を扱う。という建前の上で活動する公的暗殺部隊。

公には晒せない問題や人物を人知れず殺し、問題提訴すらさせない点と仕事ぶりから黙殺の名で呼ばれる。

実態は実力はあるも一癖も二癖もある人材ばかりで中間管理職のの潤滑油としての役割が無ければまともに機能しない組織。





ロードオブ道路

覆面パトカーの中。黙殺課の課長、金堂は大口開けていた。

何処かの秀才能力者が作ったらしい万能薬を口の中に放り水で流し込んだ。

多種多様な病から怪我にまで効く魔法の薬らしいが、食感が明らかに蠢き生きているようで誰も好まない。昔知らずにかみ砕いた時、バリバリと毎日砕いている骨と温い内臓の感触を口の中で感じた。

吐き気がする。

「かぁっ気持ち悪い」

「臓腑や血液に蒼褪める生物は人間くらいですよ」

「死や屍を畏怖するのは全生物共通だ」

パトカーを運転する部下と軽口を叩きあい数分。

無線機から聞き取り辛い声が聞こえてくる。

「-@_-,.,_,1.1.1.g,g5w1@」

おそらく被疑者の所在に関する情報だろうが如何せん何と言ってるのか分からない。

いつも思うけどアレで聞こえてると思ってるのだろうか、アレで聞こえる人間がいるのだろうか。

「あの白のアウディですね、妖怪もみじマークが付いてる、自動車ナンバーも一致してます」

隣にいた。人間ではなく妖怪だったが。

「妖怪もみじマークなんかつけてアウディ走らせる奴があるか、どういう感性してんだ」

「義務化されたからです、かなり評判悪いみたいですよ」

「知らねぇよ、とにかくあそこに餓鬼がいるんだな」

苛立つように吐き捨て、腰のホルスターから銃を引き抜く。

「撃つんですか?」

「それ以外にどうするんだよ」

「なんというか…単調というか…単細胞というか…」

「老齢の同族が危険な目に合うのが嫌か?仕事に私情を持ち込んでんじゃねぇ」

「課長こそ私情というか私怨があるんじゃないですか?ボコされて頭に血が登ってんでしょう」

「俺は冷静だ、あと俺はボコされてねぇ」

「その顔面で何を仰るのやら」

バァン!

撃った。

苛立った訳ではない。

今しかないと思ったから撃った。

弾丸はアウディの車体に頭一つ分の穴を開ける。

運転する部下の体が一瞬跳ねたのは気分が良かった。

ただし、いい気分なのも束の間。

一瞬にして最悪の時間を迎えることになる。

白のアウディから少年が飛び出した。怒りの形相に震える餓鬼。

こちらを真っ直ぐ見ていたので見返してやった。

炙り出してやったと得意になっていたかもしれない。表情が凍りつくのが分かった。

少年の手にはあるものが握られていた。

何処から持ってきたのかすぐに解った。

スローモーションの時速60km。その一瞬。

現実逃避気味に思う。

---信号機ってでけぇな

パトカーが凄まじい音を立てて壊れる。







ビート感に溢れた音楽が大音量で流れる車内。

ハンドルを握る老齢の妖怪は自身の昂る感情に驚いていた。

俺にまだこんな感情が残っていたとは

しかし思い返してみれば納得、正義の名を語っておきながら人の粗探しに勤しみ、罪無き市民を悪人に仕立てて金を巻き上げる糞オブ糞組織、長らく生きていた自分も身に覚えがある。むしろ忘れがたい屈辱だ。地形に合わせてうまいこと隠れやがって、誰もいない道路だった。少し速度が出ていただけで誰の迷惑にもなっていない。

しかしそんな言い訳も通じるわけもなく、奴らは俺から金を奪い、その永い経歴に黒を付けた。

簡易裁判所に出頭し、罰金を払い、有料講習を受けて免停を…そんなことはどうでもいい。

しかし、それだけに留まらず、人生の先輩である先人達を耄碌扱いするかのような妖怪もみじマーク。

どんな車に乗っていようが恰好がつかない。

稀代の高級車やスポーツカーが一瞬にして危険物扱い。まるで嫌がらせだ。それが仕事だという。

なんという奴らだ。

それも自分達の稼ぎから税金と称して金を奪い生きているというのだから業腹だ。

そうだ俺は怒っている。握るハンドルも踏むアクセルも力が入るってもんだ。

バックミラーに赤いパトランプが敷き詰められてる。

屁でもねぇ。

今日の俺に勝てる奴はいねぇ、今日は見えるもの全てが輝いて見える。

時速140kmの視界の先に見える青い案内標識。

白い矢印が二つに別れ文字すぐ隣に地名が表記されている。「妖山温泉(ayakasiyama hot spring)」。

気が充実する。今日が俺の全盛期かと見紛う。

少し意識するだけで思い通りの事象が起きる。案内標識がふつりと落下を始める。文字通り支えを失ったように。

加速度9.8の鉄の板。

爆速のアウディ。

瞬く間に距離を詰め、激突する一瞬。

遠近法の原理。

あれだけ小さかった妖山温泉が巨大な鉄の壁となって車窓を埋めた。

怖くもねぇ。

もっと恐ろしい餓鬼がこの車には乗っている。

ズンッと真下に感じる衝撃。

車窓を埋めていた妖山温泉が停止した。

意外にも車は変わらず走り続けた。

そしてギャリギャリギャリギャリギャリギャリギャリギャリギャリ

アスファルトと鉄が激しく接触する音がけたたましく巻き起こる。

一瞬にして刃物のごとく研磨された鉄板。

その凶器を両手に車の上で仁王立ちする少年がいた。

豪風に荒ぶる服も気にせず大きく振りかぶって、投げた。

高速回転する鉄の板が道路上で凄まじい曲線を描きパトカーの群れに突っ込んだ。

砕ける金属音とクラクション。

事故とは比べ物にならない景色が一瞬で生成される。

正義の屑共が醜態をさらしている。胸がすくような快感だ。

「はっ、ざまぁないぜ」

自然と声に出る。

気分が良い。

いつ振りだろうか、久しく忘れていたこの感覚。

道路を走るのが今日ほど楽しい日は恐らく一生無い。

「妖怪注意」の道路標識を切断する。それだけで時速140kmのアウディと並走する少年が掴んでは円盤投げの要領で投げる。

コンクリート電柱を切断する。違法駐車車両をぺちゃんこに踏み潰し、高く飛び上がる少年が電線を強引にぶっちぎって1回転、槍と化した凶器を蹴り飛ばす。

ガードレールを切断する。側転から入るバク転の中途で掴み大剣のように振り回し振り下ろす。道路のアスファルト舗装が路床路盤諸共破壊される。

その全てがパトカー共を悲惨な末路に誘ってくれている。

自分のやった全てがそのまま正義に撃ちこまれ、確かな傷跡を残している。

えも言えぬ達成感に酔っていた。

「おい坊主、それも投げちまえ」

妖怪の一言に少年が車体の前後に引っ付いている妖怪もみじマークを剥がし、これみよがしに破り投げた。

『てめぇ警察を舐めたなッ!ぶっ殺してやるッ!』

パトカーのサイレンに怒声が混じる。

スーツ姿の警察らしき男が路側帯に植えてあった桜を引き抜き、アウディ目掛けて襲いかかってきた。

すっ飛んできた桜の木。

少年の廻し蹴りが幹から粉砕する。

その背後に隠れていた男が後隙を狙って襲いかかる。

桜の花びら舞い散る4月の昼。

少年の右脚と男の右腕が交差する。

ゴシャッ

少年の小さな体がとんでもない衝撃と共にアウディに戻ってきた。男はアスファルト道路に破壊跡を残しながら遥か後方へ飛んでいく。

アウディが、高級スポーツカーの後部が悲惨なことになっている。

「大丈夫か!坊主!」

しかしそんなことは欠片も気にならない。

車はまだ走れる。

それより少年のことが気になってしょうがなかった。

会って間もない、ロクに知らないただの餓鬼の身を案じていた。

少年はというと

「誰に言っているッ!いらん世話だッ!」

うるさそうに我鳴った。

「…この餓鬼ァ…!…誰がその身体を治してやったと…!」

人が心配してやってんのに

怒りが伝播していく。しかし不快ではなかった。

怒りながらも笑ってしまいそうな、なんとも言えない感情に呑まれていた。

---これが人間を気に入ってしまった妖怪の図か…

なんて嘲笑していたものになった自分を嘲笑していた。

破壊と崩壊の波が時速140kmで加速する。





「おい、上司だけを働かせる気分はどうだ?俺ら以外は全滅したぞ」

金堂が苛立ちながら車上から助手席に戻ってきた。豪風に乱れたスーツを正す。

「自分は運転してるんですよ、速度を落とさずに信号機や街灯を避けるのは大変なんですからね」

「腕の良い運転手さんをする為の警察じゃねぇ、と言いてぇところだが他の課の連中はそれすらこなせねぇとは思わなかった、なっさけねぇ…」

「ソレを言っちゃカワイソウ」

嘲笑する妖怪。

「まぁあの餓鬼がそれだけやるってことじゃないですか?あ、これは餓鬼相手にボコされた何処かの誰かさんへのフォローですよ」

「…」

苛ぁっと視線に殺意が籠る。

「…野球部…ですかねぇ…」

「あ?」

「あの餓鬼やたら物投げてくるじゃないですか、ほら今もっ!」

車が大きく傾いてすっ飛んできた反射鏡を避けた。

「的確に狙ってきますね、意外とコントロールが良い、大抵能力を手にしたアホは大して使いこなせず死ぬから楽なんですけどね」

「知らねぇよ、聞いた話じゃ心臓病持ちの虚弱体質だって話だけどな」

「そうなんですか?じゃ単に器用なだけですかね、それとも身体能力増強以外に別の能力でも持ってるんですかねぇ」

「お前…呑気な奴だな…」

呆れる課長。

「誤解しないでくださいよ、仕事はやりますちゃんと殺します、ただ焦るような状況じゃないって解っているだけですよ」

「何言ってんだか…」

「考えてみてくださいよ、あの餓鬼、まさに餓鬼って風でそこらへんにあるモノを引っ掴んでは投げて引っ掴んでは投げて…まるで追い詰められたいじめられっ子みたいじゃないですか」

「…?…そうか…?」

「そうですよ、あの餓鬼あんな風に怒ったフリをして実は近づかれるのが嫌なんです、こっちは二人です間合いにさえ入れればこっちのモノです、いじめっ子で行きましょう」

「わかったわかった、で、どうする」

「逃げるを追うは二通り、消耗戦か短期決戦です」

「消耗させられたのはこっちだ」

「もう疲れたんですか?私は全然大丈夫ですけど」

「そりゃお前はずっと運転手さんやってんだからな、体力も有り余っているだろうよ……そういうことか」

「これですよこれ、これが賢い者のやりかたですよ」

そう誇らしげに言っておもむろにハンドルから手を離し運転席から後部座席へ移動する。

運転手を失い線から外れていくハンドルを金堂が止めた。

「一言断れ」

「ありがとうございますー」

後部座席に広々と腰掛け、両手をシートの後ろに回す。

「…始末書書けよ」

「今更ですよ、報告はお願いしますね」

部下もとい黙殺課所属の黄泉軍よもついくさ、伊代主査の両足が強張る。

後部座席の足元からメリメリと軋む音と鉄が強引に曲げられる音。

「噴ッ!」

ガゴッ

伊代の両足が車体の底を紙のように破く。

突き抜けた勢いそのまま時速140kmのアスファルトを抉りぬいく。

ゴッ

破壊の代償に得た力がパトカーを襲う。

グンっ

むち打ち必須の斥力。

爆発敵加速により一瞬にしてアウディの車体に追突する。

「おいゴラァ!降りろ!免許持ってんのか!」

叫ぶ金堂が突然の追突にコントロールを失いかけるアウディのバンパーに立ちはだかった。

その時

「お…俺は…命令された…だけで…」

老齢の妖怪がガタガタと震えながら言葉を漏らした。

「言うとおりにしないと…殺す…って…言われたから……」

弱々しい小動物のように震えながらハンドルを握っていた。

金堂が車内を見渡す。少年の姿は見えなかった。

「餓鬼は何処だ?」

「…し、知らねぇよ…」

「知らねぇことはねぇだろ、さっきまで一緒だったろうが」

「ホントに知らねぇんだ…どっか行っちまったよ…」

「………」

警察官特有の猜疑心が老齢の妖怪を睨む。

「思い出すなら今のうちだ、今ここでてめぇを痛ぶったって構わないんだからな」

金堂の一言に妖怪は怯えるように震えた。

「お…俺を…拷問するつもりか…?!…ここは日本国だぞ!?そんなことして許されると…お…思っているのか…?!」

「あぁ、俺達は許されるんだよ」

金堂の一言に

「課長、ドヤ顔してるとこ悪いんですけど、ソイツ時間を稼ごうとしてますよ」

「あ?」

「この状況でもなお車体を走らせてることに疑問を感じないんですか?意図を感じるでしょう、少年から遠ざけさせるとか」

伊予が呆れたように宣う。

「こんな典型的な芝居に引っかからないでくださいよ、餓鬼は多分もうここから離れていってますよ、してやられましたね、こうもいじめられっ子だとは思わなかった…」

その一言に激昂する金堂。妖怪の胸ぐらを掴んで怒鳴る。

「てめぇ!何の意味があって餓鬼を庇う!?今すぐ餓鬼の所在を吐け!つーか車を止めろ!」

「横断歩道だ」

先ほどとは打って変わって妖しげな雰囲気を醸し出す老齢の妖怪が即答した。

「…は?」

「もう遅いんだよポリ公」

瞬間

妖怪もとい鎌鼬かまいたちの両目が光った。

鎌の形をした風の刃が放たれる。

身構えると一人と一匹の予想とは裏腹に風の刃は横断歩道の支脚部に吸い込まれていった。

バキンッ

金属の割れる音。

ギギギと横断歩道が傾くその刹那。

ドンッ

怒り狂う少年が道路の中央、アウディの真横に落下してきた。

何処から落下したのか想像すら憚られる衝撃。

アウディが容易に傾き、アスファルト舗装が破壊された。

その眼は怒りに廻り廻っている。

少年の渾身の震脚がさらなる衝撃を生み出す。

周辺の全てのものが強引に打ち上げられる。

マンホールが天高く舞い、有料駐車場に停められていた自動車達が宙に浮き防犯用の警報を打ち鳴らす。

その全てと同様に空を泳いでいた横断歩道。

飛びついた少年が叫ぶ。

「横断歩道だーーーッ!」

物理法則を無視した事象。

横断歩道が高速回転しながら一人と一匹を襲った。

凄まじい破壊と崩壊の嵐。

ーーーこれは死んだな

金堂は幾度目かの死期を悟って意識を失った。






凄まじい破壊の嵐を抜けたアウディ。

運転する老齢の妖怪が口を開く。

「うまいことやったな!坊主!」

虚を突く。

もし、そういう場面があるとしたらこういう場面のことを言うのだろう。

ドンッ

「はい、そこまでです」

伊代がアウディのバンパーの上に降り立ちエンジンを破壊し、タイヤを蹴り破裂させる。

加えて運転していた妖怪の腹部を強烈に突いた。

一瞬にして妖怪が泡を吹いて倒れる。

「非対称ですが、鎌鼬の分際で私をポリ公呼ばわりした罰ですね」

この間2秒。あまりに短い時間。

しかし虚を突かれた者はその代償を無為無策で払わねばならない。

「無駄な抵抗は苦しむ時間が増えるだけです、大人しく死んでください、まぁ無理でしょうけど」

その一言を言い終える頃にはアウディは力を失い停止していた。

少年はただ何も出来なかった。

それまでは

「…」

無言でアウディから降りる。

「課長は横断歩道の下敷きになりました無事では済まないでしょうね、殉職なんて黙殺課では日常茶飯事です、気にしていませんよ」

ゆっくりと少年の前に歩み寄る。

「ただ、感情が無いといえば嘘になりますけどね」

黄泉軍の両の拳がギチチと音を立てる。

「アナタには出来るだけ苦しみぬいて死んで欲しいのですが、私は仕事に私情は挟まないので安心してください、抵抗しないのなら楽に逝かせてあげますよ」

「…」

少年は伊代の目前に立ったまま沈黙を貫いていた。

「抵抗なし…と受け取って良いのでしょうか?また何か企んでいるんじゃないでしょうね?」

伊代が問う。

対する少年は伊代の間合いに侵入した。

ひと言。

「大人ぶってんじゃねぇ、怒ってんだろ、かかってこいよ」

ほざかれた言葉を理解するのに一間。

「…上等じゃないっすか、人間」

ドゴッ

二つの渾身の踏み込みが地面を貫く。

二人の拳が互いの顔面に叩き込まれる。

防御をかなぐり捨てた殴り合い。

互いを如何に叩きのめすかそれだけを求めた素手喧嘩。

暴と壊のリズムが幾重にも重なり重みと速度を増していく。

再現なくどこまでも続いていく。




「はぁ…はぁ…」

伊代が膝に手をついて大きく息をする。

「結構…やりますね…」

その目前には四肢を引き裂かれ骨を抜き出され、神経すら切断されて動けなくなった少年が倒れていた。

辺りには骨と肉が入り混じる肉塊が数個に分かれて落ちている。

「長く生きた分、私が少し上回ったみたいですね…能力とは恐ろしい…課長は大した能力でもないのに一人でよく相手出来ましたね」

「あがご…」

喉を潰され、喋るどころか呼吸するのすらやっとの少年が喘ぐ。

「良くやったと思いますよ、自分で言うのもなんですが正直言って大人げなかったと思ってます」

そう力なく呟く。

「終わったか…」

「…!」 

そこへやってきた金堂。

「生きてたんですか…?」

「………」

「ははっ良かった、殉職の報告面倒だなって思ってたんですよ」

金堂は何も言わず変わり果てた少年を一瞥する。

その表情はなんとも言えない。

「…トドメ…やりますか…?」

「………やっといてくれ…」

それだけ言うと金堂は無言のまま逃げるようにその場から目を背けた。

タバコを口にライターをつける。大きく吸い込んだ煙を吐き出す。

「ふぅ〜、俺はよー糞みたいな言い訳をするんだわ」

独り言のように呟く。

「人だろうと、妖怪だろうと、怪異だろうと仕事で名が上がれば殺す、血も涙もねぇ殺し屋と大して変りゃしねぇ、でもな」


「善人や聖人、女子供にだけは手を掛けないとか、殺すのは悪人だけとかな、お前にも何度か頼んだっけか?覚えてねぇや、言い訳の余地なんかねぇのによ」


「そこらへんの言い訳でやっと自分を保ってる、コイツはとんでもねぇ悪人だ、殺すしか価値のねぇ屑野郎なんだってな、そう思ってないと手が止まって仕事どころか死にかける」


「俺は人間だからよ無我夢中にやんねぇと駄目なんだわ」


「だからたまにふと思うんだ、俺が殺してきた奴等はホントに屑野郎だけだったのかなって」


「死んでもおかしくない、つーか死なないほうがおかしいって奴、今日はそんなことが2回もあった」


「もし、善人や聖人は俺みたいなのとやり合う時、俺を殺すのかなって」


「まぁ、その餓鬼が単に甘ちゃんってだけなんだろうな、実際はとんでもねぇクズ野郎で自分の手を汚すのが嫌なだけの身勝手野郎なんだ」


「だからソイツは殺す、あぁ、それで良い、なんの問題もない」


「俺を2度も殺さなかった奴をやれるか」

ろくすっぽ吸ってもいないたばこを踏みつけて火を消した金堂が伊代を振り返る。

「なんだまだやってなかったのか、さっさとやって早いとこ帰ろうぜ、始末書に上司への報告、やることは多いんだぞ」

「そういうこと言って部下に投げますかね?それは上司としてどうなんです?」

次の瞬間、光る稲妻が少年の脳天を穿いた。

そしてどこからか尊大な声が聞こえてきた。

【黙殺の名が泣いている、餓鬼一人殺すにお涙頂戴かと】

「誰だッ!」

叫ぶ金堂。

【i am what i am 明日言っただろ、いや昨日言うつもりだったか】

「あ?!何言ってやがる!」

「課長…黙ったほうがいいです」

黄泉軍の伊代が袖を引っ張る。

【コレだこの紋章、何故お前のようなモノがあの方の寵愛を受けている、許されない、赦されない、許せない、返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せそれは私のモノだ】

荒ぶる声音と共に少年の死体がひとりでに荒ぶる。壊れ、爛れ、蒸発する。

やがて少年の頬に刻まれた女神を象った刺青が蒸発し、赤黒い斑点になる。

【おぉ、なんと慈愛に満ちた…力だ】

「おい、てめぇ」

金堂が苛立たしげに声を貼る。

袖を引っ張る伊代などいざ知らず。

「その餓鬼は黙殺課の管理する容疑者だぞ、誰の断りで殺してやがる」

【この餓鬼の暗殺は私が指示したことだ、これは来年言ったはずだ、あまりにも仕事が遅いので一昨日私が直々に来たのだ】

「……何言ってっか分かんねぇ…何故その餓鬼を殺した…いやまず何故殺す必要があった?あの程度の出来事で死刑は重すぎる罰じゃないのか?」

【たかが人間を数人拷問にかけることなど彼女にとっては罪にならない、いや罪であってはならない、彼女は選ばれた子だ、その餓鬼がやったとなれば話は別だが、それ以前にその餓鬼は途轍もない罪を背負っている】

「あ?なんだそれは?」

"課長黙っててくださいよ死にたいんですか?"

囁く伊代など知らず

【身に過ぎた寵愛を受けていたからだ、相応しくない、いや最早罪である、重罪人だ、死刑すら生温い】

「あ?」

【そこにいるのは黄泉軍か、丁度いい…この重罪人を地獄に堕としておけ、孤独と絶望の獄に永遠に捕えるのだ】

「ふざけんな、なんの権限があって」

「分かりました」

伊代の即答。

部下を睨みつける金堂。

その口は止まらない。

「おい、さっきからなんだお前は?…何様のつもりだ?」

【神様だ】





気が付くと少年は河原にいた。

河原というにはあまりに静かな場所だった。

水のせせらぎ一つ聞こえない。

微かに聞こえるのは小さな石と石が軽くぶつかる音。

あまりにか細い静寂。

足元の小石がジャリと擦れる音すら大きく感じる。

「お母さん?」

不意に悲しくなる声が聞こえた。

この世のものとは思えない酷くしゃがれた声だった。

声のほうを見ると、まだ十にもならない小さな子供達が河原にうずくまっていて、そのうちの一人が呆然と立ち尽くしこちらを見ていた。

いや、こちらを見ているようで見ていない。

自分なんかに目もくれずここにはいない誰かを探しているようで、それでいて端から諦めているようなとても複雑な表情をしていた。

立ち尽くす子供はやがて疲れるようにうずくまり、擦り切れた手で小石を拾っては積む。

一つ積んでは崩し、二つ積んでは崩し、三つ積んでは崩す。

不毛な所作を繰り返していた。繰り返し繰り返し。

病的なまでに繰り返していた。

少年はその光景を目の当たりにして

激怒した。

哀感すら抱いてしまいそうになる、あまりにも弱弱しい様が癪に障った。

まるで自分を見ているようで

"そうすれば皆が優しくしてくれると思っているのか?"

あの言葉が脳裏に浮かんだ。

「おどれらシャキッとせんかッ!」

突然の蛮声に跳ねる子供達。

そしてすぐさま両手を合わせ、地べたに這いつくばった。

許しを懇願する無様な姿勢。

土下座なんかとは比べ物にならない。

どれだけ怒り奮闘している輩でも、この所作を見ればたちまち留飲を下げ"そう怖がるでない"などと宣うだろう。

加えてあまりにも速い。

幾度も繰り返したことで、体に染みついた所作であることを察するに苦は無かった。

それらを鑑みても、これを眼の前になお怒り狂う者などいないと思えた。

ここにいる少年を除いては

餓鬼が怒髪天を衝く勢いで声を荒げた。

「   」

言葉や意味を形取ってすらいない怒声が理解もされず響き渡る。

「      」

そんな意味不明な言動に子供たちはただただ困惑する。

何に対して、何故そこまで怒るのか

少年はただひたすら怒り狂う。

他者の顔色や感情を汲み取ることにだけは長けていた子供達の顔にも疑問符がついていた。

ただ訳も分からないことを叫び、自分達一人一人の肩を掴んでは無理やり立たせる背丈も変わらない少年に怯えながらも少しでも理解しようと必死だった。

恐怖かもしれない、長年培った奴隷根性かもしれない。

とにかく子供達は怒れる少年にされるがまま立ち上がった。

切っ掛けとしては十分だった。

蹲るのをやめて立ち上がる切っ掛け。

石積みでいうならまだ一つめの石を手に取ったに過ぎない。

積んですらいない。

それでもそこを経なければ石積みは出来ない。

まずは手に取ることから始めなければ、石は積めない。

彼らはこれから那由他の石を積む。




賽の河原。

零。

弱暴れ。



「随分騒がしいと思ったら、新顔か」

声が現れた。静かな河原にはよく響く。おどろおどろしいともいえた。

筋骨隆々、鋭い眼光、厳つい顔、頭には角、黒い鉄の棒を持ち睨む。

即座にも暴れ出し、か弱い子供を喰らう化物と化す様子が容易に想像出来た。

「郷に入らば郷に従え、地獄に堕ちらばそつなく働け」


「死人に口なし、奴隷に威はなし」


「それが娑婆で背負った罪の報いよ」

韻を踏むように唱えていた鬼が止まった。

振り返った少年の顔が見えたからだ。

「タケルの坊ちゃん?」

先ほどまでの厳格さなど何処かへ、親しみやすい声音に変わった。

「冷泉さんとこ…いや、朦霧さんとこか!いや~こないだまであんなに小さかったのに、人間ってのは成長しても小さいんだな」

懐かしむように宣っていたかと思えば一瞬、真顔に戻る。

「待て待ておいおいおい、タケルの坊っちゃんがここにいるってこた死んじまったってことか?齢10にもならず?」


「やべぇな、こりゃシグサの旦那が聞いたらとんでもねぇことになる」

しばらく考え込む

「相わかった、坊っちゃん、ここには裏道があるんですわ、あっしが責任持って坊っちゃんを現世に連れて帰ります、何も心配するこt」

「喧しいッ!」

やっと言葉らしい言葉を発した少年が鬼のキメ顔をぶん殴る。

容易く歪む鬼の顔面が三途の川を遥かに超えていく。

後を追うように川の水面が燃え上がる。

そんな異様な光景すら興味も無いように振り返り子供達に詰め寄る少年。

「積むならしかと積め!」

少年が子供達が手にしていた石を奪い取り積んだ。

一つ

二つ

三つ

四つ目を積もうと石を掴んだ。

その刹那。上空から声が聞こえた。

「一つ積んでは崩し、二つ積んでは崩し、三つ積んでは崩す、四つ目は摘んではならない」

遥か上からするすると下ってくる。

暗闇から出て来るは数多の眼と数多の虫脚。僅かな光に反射する糸。斑模様。

それが何かを理解するのには少し時間が掛かった。

理解したらぞっとするほどの禍々しさ。

少年と同じ程の巨大な蜘蛛だった。

巨大な蜘蛛の数ある腕の一本が閃光に近い速度で少年の眼球を貫いた。

(げん)

激痛と共に抉りこまれる硬く乱雑な蜘蛛の脚。

視界に巨大な黒丸が現れたかと思えば一瞬にして広がり、全てが闇に消える。

反射的に身を畳んだ。

目元に手を当てると涙か血かも分からない生ぬるい液体が溢れているの分かった。

ブチィッ!!!!

凄まじい音がした。

咄嗟に耳を塞ぐ。

()

少年には届かぬ声。

鼓膜を破かれ三半規管まで破壊された少年は身体の自由を奪われたように転げる。

痛みを抑えるため、もしくは聞こえない爆音を恐れてか少年は耳を塞いだままでいた。

その怠惰な顔面の中心に巨大な杭を打たれた。

そう錯覚するほどの衝撃。

頭骨が陥没し、鼻だった物が背骨近くまで雪崩れ込んでくる。

その中途にある器官には止めどなく血液が流れ込む。

肺に流れ込む血と肉。

「ぉぼっ…ぅぼぇ」

嘔吐と言うよりただ液体が流れ出る音が口から出る。

呼吸なんて出来た者ではない。

息苦しいなんて次元を超えた苦痛と共にひたすらに吐き出し続ける。

ぜつ

吐き出す口に走る鋭利な刃。

頬と歯と舌と、口内のあらゆるものが分断されて落ちる。

残された部位で感じ取れるのは激痛と痛みと痛いと痛いと痛いと痛くてたまらないと流血。

そしてほんのわずかに"無い"という喪失感。

しん

内臓が競りあがってきた。

少年には苦痛と激痛意外に感じ取れる感覚は無い。

何をされたかも分からないまま、悶え苦しむしかない。

唯一実感としてあったのは

体中を掻き回され、異物となった肉塊をひたすらに吐き出す感覚。

何をどうやっても収まる気配などなく

機を追うごとにむしろ酷く酷く酷く

痛く痛く痛く

苦しく苦しく苦しく

気持ち悪い。

不快感という言葉では足りない。

何をされたかは最期の最期で分かった気がした。

脳が潰される。

「ぁ」

一瞬より僅かに長い時間の激痛。

三つの石が血に塗れて崩れ去った。



目が覚めると河原にいた。

相も変わらず静寂の中。

もの悲し気な空気。

子供達が這いつくばり手を合わせていた。

その傍らには地獄絵図。

死体だと理解することも難しい肉塊と血だまり。

自分のものだと理解することが恐ろしい。

傍らの蜘蛛が答え合わせをしているようなものだ。

蜘蛛の糸にぶら下がったままの蜘蛛が口を開く。

「6の苦痛」


「一死の最小過程だ、多いものは108まである」


「お前が重ねた罪に比べればあまりにささやかな数だ」


「だが、幾度繰り返そうとお前の罪は消えることはない」


「ここは地獄、地の獄、地獄の沙汰にも秩序はある」

蜘蛛が数多の眼をギョロつかせる。軽く鼻で笑い

「嫌でも覚えることになる、まずは"石は四つ積んではならない"ことか」


「千も死ねば覚えるか」

蜘蛛が手を広げて少年に寄る。


辺りには既に蜘蛛の巣が広がり、逃げる場所が無くなっていた。


「よくもやりやがったな」

少年は怒りに震えながら蜘蛛を睨む。

後方に埋め尽くされる蜘蛛の巣など見えていない。

蜘蛛はその廻り廻る感情の中に恐怖が無いことを察した。

ついでとばかりに這いつくばる子供達も睨みつける。

「テメェが原因だな、お前が為にコイツらはコイツらたらしめてやがる」

「餓鬼のクセに我が強いな、躾が必要なようだ」

「テメェも餓鬼だろうが、躾が出来るタマか」

「…お前には私が餓鬼に見えるのか…?」

「喧しいッ」

少年が蜘蛛を黙らせる。

「てめぇは殺す、自分が常に殺す側か?若輩者の八握脛やつかはぎが、生まれ持った強みに胡坐をかいて余裕こきやがって癪に触る」

蜘蛛が数多ある目をぱちくりさせる。

「よく私が八握脛だと…いや違うな…そうではない」

気を取り直すように声音が変わる。

「変な人間、今からお前に躾を処すつもりなんだ、変な事を言うなよ」


「ここは地獄、私は蜘蛛だ」


「罪人を救い上げる蜘蛛の糸なんて無い」


「あるのは孤独と絶望だけだ」

逆さ吊りだった蜘蛛がくるりと半回転、地に足を付けて立った。

片手で蜘蛛の糸に掴み

「アンタ、どうせ地獄に落ちたんだ」

勢いよく振り下ろした。

瞬間、いつの間にやら張り巡らされていた辺りの蜘蛛の巣が勢いよく引き上げられた。

蜘蛛の糸が地面に埋まっていた108個の鐘を釣り上げる。

ガガガガガガガガガッ!

108の鐘同士がぶつかり合ってけたたましい音が鳴り響く。

「自分の罪を数えな!」

少年が構える。



vs空飛ぶクモの落とし子




今日、賽の河原に新たな罪人が現れた。

弱い奴だ。

雑魚だ。

少しは才覚があるようだが、大したことも無い。

やたらブチ切れてるだけで幾度でも殺せる。

ただブチ切れてるのが厄介で、幾度殺そうとすぐ起き上がって向かってくる。

雑魚のクセに。

弱いクセに。

ブチ切れてるクセに。

起き上がる度に何かしらの改善を試みてやがる。

無駄だってわかんねぇのか

ムカツク野郎だ。




今日、賽の河原に怒りが生まれた。





ゴッ!


壱。


「何の真似だ?」

問う蜘蛛。

少年は苛立たし気に石を引っ掴む。足元には石が転がっている。

「てめぇの全てがムカつくんだッ!!!殺しやがってッ!!!!何度も何度も何度も何度もッ!!!!!!」

わなわなと震える。

「あぁ、お前の嫌がることがしたいッ!お前がノイローゼになって寝込むようなことをしたいッ!死ねッ!糞妖怪ッ!人間をいじめて楽しいかッ!?」

「落ち着けよ」

「おら、積むぞスパイダーマン、いやお前はメスだったか?どうでもええわ石積むぞコラ」

少年が石を積みますよと言わんばかりにわざとらしく姿勢を低くした。

蜘蛛が呆れたように近づく

「死ねッ!!」

待ってましたとばかりに少年が石を握ったまま殴りかかる。

さらりと避けられる。




3つ目が積まれた。

蜘蛛は少年の阻止を掻い潜って阻止することが出来ない。

「頼む…やめてくれ…」

蜘蛛かつらりつらりと語るに落ちる。

「石積みの四つ目を許さないのは死を連想するからだ」

懇願するように諭す。

「死を連想した子供達は自分の死に際を思い出す」


「その様子はどれも目も当てられない、この地獄で一番見たくないものだ」

悲しそうに続ける。

「齢10にもならず死ぬ子供達というのは皆捨て子なんだよ」


「父上恋し、母上恋しと小石を積む子供がその唯一の拠り所である親に手を掛けられて地獄に堕ちたと自覚したとき、それはどうしようもない絶望なんだ」


「自我を失ったように泣き叫び、狂い苦しむんだ」


「ここは地獄だ、死ぬことだって出来ない」


「必死に忘れようとしても、忘れられない、ここでは父のため、母のため、兄弟のため石を積む」


「もう石なんか積めない」


「積めないんだよ」

蜘蛛が心底悲しそうに呟く。

「そうか」

しかし

少年が四つ目の石を手に取った。

「お前も同じ穴の貉」

死。

連想した蜘蛛は阻止せんと踏み出した。

「でもそれは"俺"のためにならない」

少年が傷だらけのまま呟いた。

「"俺"はそれを知ってなお強くならないといけない」

切実に願うように続ける。

「弱いままでいるのはもう嫌なんだ」


ゴッ


肆。


蜘蛛が急激に距離を詰める一瞬、少年は初めて防御の構えを見せた。

蜘蛛の全ての腕を防ぐ、というよりは片腕で蜘蛛の全ての攻撃を受けきった。

小さな腕が損傷に耐え切れず千切れる。

瞬間。

小さな腕を一回転、支点にし蜘蛛をひっくり返す。

地面に寝かせた。

その所作はあまりにも優しいものだった。

少年はそのまま何もしない。

即座に反撃に出るかと思われた蜘蛛は予想に反して倒れたままでいた。

ただ

「糞…」

一言漏らした。

「糞が…」

ぽつりぽつりと漏らす。

「この…糞野郎…」

悪態が次第に弱まる。

「…思い出させやがって…」

じわりと蜘蛛の眼に水が溜まる

「…おもい…ださせ…や…ぁぐ…」

蜘蛛の脳裏に何が浮かんだのか

「…ぁぐっ……ぅが…」

必死に涙を堪える。

「…ふぅっ……!」

堪えようと堪えようと

「……糞ッ…糞がッ!…」

堪える。怒りで誤魔化す。

「……糞ッ!ふざけんなッ!…ふざけんなッ!…」

堪える。腕を振り回す。

「糞野郎がっ…!」

堪える。思わずにはいられない。

「…んで」

堪える。

萎える。

「…なんで私を…殺したの…?」

堪えられない

「…お母さぁん…」

堪えきれない。

「…私が…悪いの…?」

溢れるて止まらない。

「…ぁぁ……ぐぁ……ぁぁぁぁぁぁ…」

聞いているだけで泣いてしまいそうな弱弱しい声。

溢れて止まらない涙。

聞き取れない砕けた声。

「…痛い…」


「…苦しい…」


「…殺さないで…」


「…その手で…触れるだけでいい…」


「…それ以上…求めない…から…」


「…お願い…痛い…」


「…」


「…なんで…殺したの…?」

最期の一言は限りなく小さかった。

最期に思い出したものはなにか。

決して短くはない時間、一瞬より僅かに長い時間の激痛。




溢れる感情が止まらない。

これは悲しいお話なんだ。

主役は私。

悲劇のヒロイン。

誰よりも悲しい存在だ。

気取って。

なんて悲しい奴だ。

嗤って。

こんなに悲しい奴は他にはいない。

酔って。

マジで

私は

なんで泣いてんだ。



ここは地獄。

孤独と絶望の獄。

死者が苦るい死に続ける世界。

そんなこととは無関係に

蜘蛛は喘ぐ。


もう嫌だ、消えたい。

早く消え去りたい。

自分がいる事が何より苦痛だ。

なんで自分はいてしまったんだろう。

悲しくて悲しくて辛い。

苦しくて苦しくて狂う。

壊れそうで心が割れる。

地獄も現世も過去も未来もどうでもいい。

早くこの感情から逃げ出したい。

解放されたい。

無にしてしまいたい。

死にたい。

こんな世界なんてもう嫌だ。



ゴッ


伍。


「それでも積むんだ」

餓鬼がほざく

それだけで頭がおかしくなりそうだった

「死にたくたって積むんだ」

狂いそうだ

死ねよ

「辛くてしょうがないから積むんだ」

ふざけんな

「そのままでいるのが一番嫌だから、何より耐え難いから」

お前のせいだ

「誰のためでもない自分のために摘むんだ」

お前が悪い

「早くこっちにこい」

気が付けば少年の方を見ていた。

どういう眼をしていたか自覚すら出来ない。

少年は石を片手にこちらを見ている。

「そこは…辛いだろ」

ころしてやる



ゴッ



分からない。

自分でも分からない。

少年に襲い掛かっていた。

石積みを阻止しようとしていた。

何の意味があったのか。

意味なんて無い。

無為で虚無だ。

悲しさは消えてない。

辛さも消えてない。

涙だって流れるままだ。

消すことは出来ない。

ずっと消えることはない。

ここはそういう場所だ。

だから多分生まれたんだ。

それらしかないはずのここで

それ以外の何かが。




陸。






防人天人



「桃から生まれた桃太郎、竹から生まれたかぐや姫、人間の作る創作には多く見られる」


「大業、偉業を成す者、他を圧倒する者は生まれからして違うのだと」


「その方が容易なのだろう、自分に自信を持つこと、自分を諦めること」


「お前はどちらだろうな」


「シグサ」

問う天人に対し妖怪

「世間話をしに来た訳じゃない」

「なぁ、今回ばかりは相手が悪い、そこらの付喪神とは格が違うんだ、こっちでも知らない奴はいないくらいの神人類だ、俺はお前を気に入ってるから忠告してんだ」

「気遣いご苦労、"朦霧光"を攫った神人類の名を吐け」

「お前、前にもそうやって痛い目見たろ、人間一人のためにどうしてそこまでする」

「家族だ、手を出す奴は誰であろうと殺す」

「頼むから冷静になってくれよ」

防人天人が妖怪を宥める天界。

見える景色全てが雲の上。

陸地を形成している巨大な岩は大理石かの如きその重厚さと巨大さからは想像が出来ない程軽やかに宙を浮かんでいた。

「前々から気に入らねぇ連中だと思ってたんだ、機械のクセして偉ぶりやがって」

「馬鹿それを口にするな」

声が聞こえたのだろう、近辺にいた背中から複数の機械的ケーブルを垂らしていた女神が凄まじい表情で天人と妖怪を睨む。

「おう、何ガン飛ばしてんだ」

「狂い死ね、汚らわしい」

一言吐き捨てて去る女神。



そうその時だった


ゴッ

遥か遠くから僅かに聞こえる音があった。

岩と岩をぶつけたような胸に残る音だ。


「ひとーつ積んでは父のためー」


遅れて何か声のようなモノが聞こえてきた。

ゴッ

また音が聞こえる。


「ふたーつ積んでは母のためー」


遥か遠くで響く音。

ゴッ


「みっつ積んでは兄弟にー」


だんだんと近づいている。


「よっつ積んでは己がため」


はっきりと聞こえた、鳥肌が立つ。

とても人のモノとは思えない背筋が凍るような悍ましい声だった。心の底から震えあがる。


「いつつ積んでは友のためー」


ゴッ


「むっつ積んで罪を数えー」


ゴッ


「ななつ積むは稀有な意志をー」


ゴッ


「やっつ積みしは世を祓えー」


ゴッ


「ここのつ積むは意思のままー」


ゴッ


「とおを積んで獄を討てー」


ゴッ


「百積むころには地を荒らせー」


ゴッ


「千積み人世の空を焼けー」


ゴッ!


「万積みこの世の為ならずー」


ゴッ!


「億を積んで天を衝けー」


凄まじい轟音が声となって空を巡った。


「那由多の果てには神をも殺せッッッ!!!」


ゴッッッ!!!


見えた。

この天界を突刺すようにそびえ立つ石の塔。

気がつけばそこに立っていた。

今まで気付かなかったことが信じられないほどの邪気を放っていた。

そこから飛び出す小さな影。いや飛び出していたというべきか、欠片も気づくことが出来なかった。

既に神を自称する奴の至近距離まで距離を詰めていた。

一瞬見えた。

恐ろしい悪魔と見違えん少年が大きく振りかぶっていた。

強烈に震える右拳は次元が歪むほど握りしめられている。

一言。

「よう」

ズゴガッッ!!!

途轍もない破壊音が音速を超えて天界を揺らした。

次元を歪ます邪拳に呑まれる神の顔が醜く歪む。

バシュンッ!!

天を二分するかのような直線が刹那の刻すら余る捷さで描かれる。

神が遥か彼方へ消え、天変地異に等しい破壊の衝撃が巻き起こる。

「よくもやってくれたな」

少年が空を泳ぎながら狂い言った。

ゴガガガガガッッ!!!

天突く石塔が物理法則を無視したように真横に伸びた。

石塔の至るところには筋骨隆々の子供の霊が位置し、巨大な岩を両手に縦横無尽に石積みをしていた。

強烈に打ち付けられた岩は破壊と共に圧縮され、大理石、ダイヤモンドなどを遥かに凌ぐ硬度を維持していた。

少年が塔に降り立ちほざく。

「ぶっ殺すぞ、神」

子供達が応える。

「応ッッッ!!」



賽の河原。

那由多。

神殺し。










「最近よく夢を見てたの、貴方に手も足も出なくてボロ負けして、だけど貴方の勝利を心から祝福する夢」


「"おめでとう、やっと夢が叶ったね"なんて言ってさ、胸がすくような夢だった」


「本当、ただの虚しい夢」

見ているだけで悲しくなる表情で続ける。

「お願い、もう私の前に現れないで、貴方を見てるとなにもかもが嫌になってくるの」

見るに堪えない物から逃げるように振り返った。

去り際に切り捨てるような一言。

「期待してごめん」

心の奥深くに突き刺さった。じわりと目頭が熱くなる。

即座に顔を顰めた。泣くのはもうやめた。

「随分勝手な物言いじゃねぇか、何を期待していたか知らんが自分一人で大騒ぎして、思い通りにいかないとまるで他人のせいじゃねぇか」

自分でもいい切り替えしが出来たのでは無いかと思えた。

言ってて腹が立ってくる程の正論ではないかと思えてくる。

考えてみればそうだ。

コイツはいったい何様のつもりでこんなことを宣っているんだ。

---コイツ…好き勝手宣いやがって

自分とはこれほど単純だったのか、と呆れるほどに腹が立ってきた。

---ひとつ罵声でも浴びせてやろうか、俺はお前に2度も殴られたことをまだ根に持っているんだ

去っていこうとするかつての親友の肩を怒りを込めて強引に振り向かせた。

浴びせようと思っていた罵声は喉元で止まってしまった。

その表情は見るも耐えない泣き顔だったからだ。

「だったら強くなってよ」

胸を強く押された。バランスを崩してよろける。

「私くらい強くなってよ、弱いクセに対等ぶらないで」

また押される、痛くは無い。ただ胸に響く。

「私と貴方は違う」

また押された。倒れる。

倒れたさまを見下ろして泣きながら言う。

「この貧乏人、軟弱者、弱さを盾に自分がどれだけ優遇されているかも知らないで」


「推薦で入学金も授業料も免除されてるクセに得意なこと以外はてんで駄目、挙句すぐに発作を起こしていなくなるクセに」


「世帯収入が一定のラインを超えてると奨学金も学費免除も対象外なの知ってた?貴方が何も気兼ねなく登校している学校に私は大金を払って来ているの、何を期待されてると思う?何を望まれていると思う?」


「少なくとも貴方みたいなのと仲良くすることは欠片も望まれていない」


「この貧民、卑民、ゴロツキ、やくざ、身障者、病人」


「皆貴方のことをそう呼ぶのよ」


「それが、大して間違ってもいない事実なの」


「私と貴方は対等じゃないの」

否定できない。する資格もない。

「私が貴方を下してしまったあの日から、もう対等ではいられないの」

悲しくなってくる。親友の言っていることは何も間違っちゃいない。

「そして」

非常に怯えながらほざいた。

「どうせ貴方も私のことが嫌いになるんでしょ」

「なんつったてめぇ」

イラっときた。

それまでの哀感の感情がキレイに燃え始める。

こういう場面でそういうことを宣う神経が癪に障った。

---言うにこと欠いて"嫌いになるでしょ"だぁ?何処かの三流作家ですらそんなセリフは使わねぇ

もう少し他に言い方は無かったのか。

あまりにも人を舐め腐った物言いに少年の怒りは軽く頂点に達した。

苛立ちを隠さず立ち上がり、寄り詰める。

「メンヘラみてぇな妄言言ってんじゃねぇ」

「何よ、違うっていうの?」

「黙れよ」

怯える親友の肩を掴んで引き寄せた。

---小せぇ肩してやがんな



心臓の鼓動が激しい、体内を流れる熱い脈動が全身を激しく叩く、肺が空気を求めて荒い収縮を繰り返す、どれだけ呼吸しても収まる気配がまるで無い、汗が滝のように流れる、熱い、周囲の気温を冷たく感じるほどの熱気、疲労、少しでも気を抜けば脚の力が抜けてへたり込んでしまいそうだ、キツイ、しんどい、辛い、どこがと問われれば全身がとしか答えようのないただ漠然とある苦通の根源、これはいったいなんだ、私の体で一体何が起こっている、知識としては知っている、高負荷運動によって体内のエネルギーが枯渇したため取り込んだ栄養を酸素で燃焼し、足りないエネルギーを補完しようとしてい、そんなことはどうでもいい、重要なのはただ一つこれは生命活動ということで、私の体は生きている、生きているということだけだ

疲労と興奮で頭がうまく働いていなかったのかもしれない、私はそんな当たり前の事実に驚いていた、いや驚くなんてものではなかった

私は今、生きている

感動していた

まるで今まで生きていなかったかのように

いや、生きちゃいなかったんだ

私はこの世界をまるで生きていなかった。

今はじめて生きだしたんだ

胸に湧き上がる。

伝えたい

少しでも早く

この感情をくれた貴方に

生かしてくれた貴方に

感謝してもしきれない

言うんだ

最終楽章フィナーレッッ!!」

叫んでいた。

駄目だ。

夢見てしまった。

感謝なんてしてる場合じゃない。

ここで終わりなんてできない。

良かった良かったなんて思い出話になんてしたくない。

やっと見つけた本当の本当に対等な存在。

やっと見つけた友達第一号

私と同じで才能に溢れた人。

夢の続きがこんなにも近くにある。


いや

もう

なんだって

どうだって

良い

私はこの人といけるところまでいってみたい!





最終楽章フィナーレッッ!!」

叫ぶ少女を前に少年

かっこいいな、お前はいつだってかっこよくて、美くしくて、正しくて、あまりにも強い

俺みたいな悪人はお前みたいな聖人を嫌いになると思ってた

なんでだろうな

お前が望む物がやっと分かった

あまりにも強いお前は呆れてしまう程普通だった

お前は友達が欲しかったんだ

あまりにも間の抜けた、そして絶望的に巨大なもの

俺に務まるかな?

自信が無いよ

でも、もう逃げるのも泣くのもやめた。

お前のせいだぞ



少年、応える。


「最終楽章ッッ!!!!!」





最終楽章ラストスパート


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