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彼は一体……何者なの?

 闇の中に浮かぶ八つの蝋燭の光。外の明るさに慣れた目には、最初はそれしか見えなかったが、やがて、床に描かれた魔法円がくっきりと浮かび上がってくる。その神秘的な光景と、ぴんと張り詰めた神聖な空気に、デューは圧倒された。

 足元に転がる悪魔が苦しそうにもがき始めたが、デューがひと睨みすると、小さな黒い身体は強ばり、うなり声さえ上げられなくなった。

「緊張しなくてもいいわよ。ここに来て」

 オレンジ色の炎に照らされたロラが、円の中心から手招きをした。そういう本人は、全身から緊張感を漂わせている。

「この位置に、こっちを向いて両膝をついて」

 目の前に跪いた彼の周りに、ロラは一瞬ためらってから、聖水を振りまいた。

 とたんに、悪魔が耳障りな悲鳴を上げてのたうち回る。しかし、デューの表情は全く変わらない。神妙な面持ちで跪いている。

 やっぱり彼は、悪魔の影響を受けていない。明らかに、取り憑かれているのに……。

 悪魔に取り憑かれた者に同様の清めを施すと、悪魔と同調して苦しみ始めるのが普通なのだ。

 彼は一体……何者なの?

 彼の出自の問題ではない。彼という存在そのものに対する疑問だった。

「大丈夫よ、デュー。その悪魔、すぐに追い払ってあげるから」

 彼が誰であれ、今は魔術師としてやるべきことをやらなくては。

 ロラは跪く彼と向かい合うと、白いローブの下から、銀の聖剣を取り出した。剣を握った右手で、額、胸、右肩、左肩に触れていき、最後に聖剣を目の前にすっと掲げる。

「我が前にラファエル。我が後ろにガブリエル。我が右手にミカエル。我が左手にウリエル。我が四囲に燃え上がる五芒星。我が頭上に輝ける六芒星……」

 蝋燭の油が燃える微かな音しか聞こえない中に、ロラの凛とした声が響く。張り詰めた空気が、より密度を増し、肌にぴりぴりと痛い。東西南北に置かれた蝋燭の炎が急に火勢を増し、大きく燃え上がる。そしてその炎に重なるように、目に見えない大きな四つの力が出現した。

 霊力の弱いデューにもはっきりと感じ取れる、身の引き締まるような、神聖な力。彼に取り憑いている悪魔が、明らかに萎縮していた。

「我、汝ミカエルを強く呼び出す。全能なる神の名と偉大なる力によって。汝よ来たれ。直ちに、穏やかに、そして遅れることなく……」

 呪文が進むにつれ、四つの力は膨れ上がり、天井へと高く伸びて、二人の頭上の一点に集まっていく。

「……我が請願の全てに応えるため、我は汝に強く命じる」

 呪文を唱え終えると、ロラは右手を振り上げ聖剣を頭上に掲げた。大きく渦を巻いていた聖なる力が、小さく凝縮されたかと思った直後、大天使ミカエルの聖なる黄金の剣の力が、稲妻のように切っ先に落ちた。

「やあっ!」

 眩い光に包まれた短剣をデューの頭上に振り下ろす。実際の刃は彼の頭のすぐ上でぴたりと止められたが、輝きに包まれた聖なる刃はそのまま床まで落ちて、彼を両断する。

 耳をつんざく、おぞましい断末魔が上がり、デューの全身から、黒い煙が噴き上がった。そしてそれは、小さなオレンジ色の炎の色が点々と浮かぶ闇に溶けていく。

 彼の足元に転がっていた悪魔の姿はもうない。

 目を閉じていたデューも、自分の身体から悪魔が消えたことを感じ取っていた。

「……ロラ。もう目を開けても?」

「いいわ。でも、まだ儀式は終わっていないから、もうすこしそのままで」

 そう小声で言うと、彼の頭の上にかざしていた聖剣を、すっと胸の上に置いた。柄を握る右手の上に左の掌を重ねて、宙の一点を見つめる。

 恐る恐る目を開けたデューが、傍らに立つ魔術師を、ゆっくりと見上げた。

 白い肌と長いローブが、蝋燭の淡い炎の色に浮かび上がっている。明るいグレーであるはずの瞳は金色に煌めき、長い髪は闇を寄せ付けない気高さを思わせる深紅。あたりに満ちた神聖な気も相まって、背筋を伸ばして円の中央に立つロラの姿は神々しくもあった。

「汝が平和的に、静かに降り立ち、そして我が請願に応えた。我は汝をつかわせた神に礼を言う。汝のあるべき場所へと退去せよ」

 先程までの凛とした通る声ではなく、静かに祈りを捧げるように、言葉を紡ぐ。肌を冷やすかのような清冽な空気が、徐々に和らいでいく。

 ロラが呪文を終え、ふうっと息を吐き出した時、辺りの様子が激変した。

 暗い中に八本の蝋燭が灯り、床に描かれた魔法円が浮かび上がっているのは同じ。しかし、別世界から現実世界にすとんと落とされたような、そんな感じだった。

 デューは辺りをきょろきょろと見回した。

「気分はどう?」

「いいよ。大丈夫」

 デューはそう言ったが、ロラは床に膝をついて彼の顔をのぞき込むと、額にそっと掌を当てた。以前彼が、悪霊に取り憑かれた後、熱を出して眠り続けていたことをどうしても思い出してしまう。

 掌に伝わってくるちょっと低めの体温にほっとして、手を離そうとすると、すがるように伸ばされた彼の手に捕らえられた。

 彼は、引き寄せたロラの手を両手で握りしめて、苦しそうに言葉を絞り出した。

「僕はまた……この家のみんなに、迷惑をかけてしまった」

「そんなこと……」

 ないとは言えなかった。レミが額から血を流して倒れていたし、他にも怪我をした者がいただろう。朝晩に家族が集う食堂は、めちゃくちゃになっていた。

 しかし、カントルーヴ家の者は魔術師でなくても、あれくらいの危険を背負う覚悟はある。この家に来て、まだ一年半のヴィオレットにすら。

 それに、あの事態を引き起こしてしまったのは、デューの責任ではない。

「僕は、悪霊を引き寄せやすい体質なんだろう? きっとあの悪魔も、僕が引き寄せたんだ。そのせいで、あんな酷いことに……」

「ふふ。代々続く魔術師の一族を、甘く見ないでよ。あれくらい、よくあることよ。誰も何とも思わない。……というより、多分、ノエルや父さん、アンヌ叔母さんがヘコんでるわ。魔術師が三人もついていたのに、あんな低級悪魔を逃してしまったんだもの。きっと今頃、ばあさまから説教をくらってる」

 そう言うか言わないうちに、入り口の扉が開く音がして、二人は振り向いた。

「ったく、情けないったらありゃしないよ。あんな雑魚の悪魔に、逃げられるなんて……。あの体たらくで魔術師を名乗るとは、恥ずかしいったらないわい」

 ドロテは、さっきロラが名前を上げた三人に対する愚痴を、ぶつぶつ呟きながら、円の中に入ってくると、床に腰を下ろした。

「のぉ? そう思わんか、ロラ」

 予想通りの長の様子に、ロラは「ほらね」とデューに目配せした。

 彼は安心したのか、肩の力を抜いた。と同時に、自分がロラの手を握りしめていたことに気付いて、慌てて離した。

 ドロテは、そんな二人をにやにやしながらに見ていたが、足を崩すとこう切り出した。

「さて、お前さん達に、ひとつ昔話をしてやろう」

 蝋燭の炎が揺らめく魔法円の中で、老婆のしわがれた声がゆっくりと物語を紡いでいく。ロラにとっては飽きるほど聞かされた話だったが、今は、いつもと違った緊張感をもって耳を傾けていた。

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